テラーノベル
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街の中心部から少し外れた
裏通りの一角。
整えられた石畳の先に
その店はあった。
高級感と重厚感を兼ね備えた黒檀の扉。
磨き込まれた金の縁取りには
控えめながらも威圧的な品格が漂っていた。
扉の上部には
黒地に金文字で品良く刻まれた店名。
『BAR Schwarz』
どこか異世界めいた
重厚な空気を孕んだその店構えに
似合わぬ風体の男がひとり
焦燥に駆られたように駆け込んできた。
汗で皺だらけになったシャツ
乱れた髪
荒い呼吸。
明らかに
この扉を潜るには〝場違い〟だった。
だが
そんな事を気にする余裕もなく
男は重厚な扉を押し開けた。
中に広がるのは、まるで異空間だった。
静謐で、重く、美しい。
黒を基調に整えられた店内は
落ち着いた照明に照らされ
赤銅色のグラスやボトルの煌めきが
静かに瞬いている。
中心に構えるのは
一本の立派な無垢材から削り出された
艶やかなカウンター。
年輪と光沢が生む陰影に
重みと気品が溶け込んでいた。
その中央
一際視線を惹きつける人物が立っていた。
バーテンダー服を着こなし
腰まで届く黒髪を
緩く一筋に編んで胸元へ垂らす。
その男──アラインは
まるで古き楽器を奏でるように
丁寧にグラスを磨いていた。
駆け込んで来た男は
その美しい静けさを無遠慮に引き裂く。
「アライン!大変だっ!!」
バンッ!と乾いた音が
上質な空間に響き渡る。
男は乱暴にカウンターを叩き
唾を飛ばしながら声を張り上げた。
客たちの視線が一斉に男へと向けられた。
ワイングラスを持つ女
葉巻をくゆらせる老人
誰もが沈黙のまま
〝礼を欠いた者〟を咎めるような
冷たい目で男を見つめた。
アラインが、指をパチンと鳴らす。
その一音で、空気が一変した。
客たちはまるで何事も無かったかのように
再び談笑を始め
演奏隊の音楽がゆるやかに流れ出す。
しかし、男の焦りは収まらなかった。
「⋯⋯おい!おい、聞いてんのか!?
アライ──」
ガンッ!
再びカウンターを叩いたその瞬間だった。
アラインの手元から
まるで幻のように大太刀の鞘が滑り出た。
一瞬の抜き払い──
刃が、男の顎先を鋭く押し上げていた。
銀色の刃先が喉元に触れた時
男の喉から
ひゅっと情けない息が漏れた。
「⋯⋯ねぇ?キミ
ここのドレスコード⋯⋯忘れたの?」
低く、静かな声音。
それは優しさでも、怒りでもなかった。
ただ一つ、〝格〟の違いを告げるもの。
「ドレスコードなんて
今は気にし──ぐっ!」
今度は
刃先が左の眼球のすぐ前で
ぴたりと止まる。
空気が止まった。
男の背に、冷たい汗が滲む。
「⋯⋯すまねぇ
次は⋯⋯気を付けるよ⋯⋯」
震える声でそう告げた時
ようやくアラインの手元から
刀が引かれた。
音もなく、大太刀が鞘に戻る。
「それで?何を飲む?」
アラインは目線すら向けず
グラスを置きながら問いかける。
「まさか⋯⋯バーに来て
一杯も頼まないなんてこと⋯無いだろ?」
皮肉にも
口調はどこまでも優美だった。
男は喉を鳴らし
ようやく椅子に崩れ落ちるように
腰をかけた。
「⋯⋯おすすめの、シングルモルト⋯⋯
ロックで頼む⋯⋯」
「よろしい」
アラインは背後の棚からボトルを取り
アイスピックで氷を砕き始めた。
氷の破片が
銀の器に落ちる音が涼やかに響く。
その様子を眺めながら
男は静かに溜息を吐いた。
(ストレートにしておけば良かった⋯⋯)
アラインの手元の美しさが
アイスピックだけではなく
氷すら凶器になりかねないような
鋭さを纏っていたからだ。
そして
カラン⋯⋯とグラスに氷が入れられ
琥珀色の酒が静かに注がれる。
「──で?」
アラインの視線が
ようやく男へと向けられる。
「⋯⋯なぁ、聞いてくれ⋯⋯
あんたに任されてた、地下闘技場の賭場。
たった二人の奴に⋯⋯壊されちまった」
「壊された?」
アラインは
まるで
天気の報告でも聞くような声で訊ねる。
男はグラスを掴み、口元に運ぶ。
「⋯⋯ああ。
文字通り、跡形も無くされちまったんだ。
たった一晩で、あの施設も、連中も
⋯⋯瓦礫に変わった」
その言葉の中に
まだ震えが混ざっていた。
アラインはグラスを拭う手を止めず
その冷たい瞳だけで
彼の言葉の続きを待っていた。
男の喉が焼けるように熱く感じたのは
ロックグラスの中の
シングルモルトのせいばかりではない。
喉を鳴らしながら
一口、二口と飲み干しては
震える指先を
膝の上で何度も擦り合わせる。
「⋯⋯なぁ、信じられるか?
何人もいたんだぜ。
銃も、爆弾も、手練も揃ってた。
あそこを落とすには⋯⋯
いや、戦うことすら無理だって言われてた
鉄壁の施設だ。
それが──」
言い淀む。
視線はカウンターの木目を泳ぎ
目の奥には
恐怖の残滓が色濃く焼き付いている。
「⋯⋯それが⋯⋯たった二人に⋯⋯」
アラインの手元で
グラスを拭う布が音もなく動いていた。
その所作には一切の乱れもなく
まるで
〝それがどうしたの〟
とでも言いたげな沈黙。
男は、静かに言葉を継いだ。
「ひとりは⋯⋯妙な服装の男でな。
髪は黒くて、妙に上品で⋯⋯
けど、なんだ。
その辺にいる連中じゃねぇ、あれは。
動きが、もう別格だった⋯⋯
一人、二人、三人⋯⋯
まるで手を触れずに
周りが勝手に倒れていくみてぇで──」
「⋯⋯幻でも見たんじゃないの?」
アラインは淡く笑った。
だが
その声の温度は氷のように冷たい。
男は首を振る。
「いや⋯⋯あれは、幻なんかじゃねぇ。
気づけば、床から〝木〟が生えてきたんだ。
信じられるか?
床を割って、柱をぶっ壊して
真っ直ぐに、天井を突き破って──
あれは、もはや爆破でも土砂崩れでもねぇ
植物が施設を食ってたんだよ」
アラインの指が
グラスの縁を優雅になぞる。
氷がひとつ、控えめな音を立てた。
「そして⋯⋯もう一人。
そいつが一番ヤバかった」
男の声が震える。
「⋯⋯大柄な男だった。
背は高くて、髪は暗く、服も適当な⋯⋯
だが、動きは異常だった。
力も、速度も。
銃を撃てば、何故か当たらねぇ。
いや、当たってんのに、潰されねぇ。
逆に、こっちの弾が⋯⋯戻ってくるんだ」
アラインの瞼が、わずかに伏せられる。
「床が潰れたのも、壁が歪んだのも
全部そいつのせいだ。
なにか⋯⋯重さがおかしくなる。
人も、物も、全部、引っ張られて⋯⋯
圧し潰される。
オレの部下も、支柱ごと落ちて死んだ⋯!
なぁアライン、あれは⋯⋯
あれは一体何だったんだ⋯⋯!?」
男は
今にも泣き出しそうな表情で
懇願するように身を乗り出した。
だが、アラインは笑っていた。
口元には、どこか面白そうな弧。
だが、瞳は笑っていない。
アースブルーの双眸が
グラスの中の琥珀を映しながら
鋭く、冷ややかに男を見据える。
「なるほど。
木が生えた。空間が潰れた。
⋯⋯ふふ。
ずいぶんと詩的じゃないか。ねぇ?
キミは今、ボクに何を伝えたかったの?」
男が言葉に詰まったその瞬間
アラインはゆるりと腰を上げた。
カウンター越しの距離を、一歩詰める。
「その二人の名も、所属も、顔も⋯⋯
知らない。
だのに、報告は〝壊された〟の一点だけ。
ねぇ⋯⋯ボクに何を謝れば
許してもらえると思った?」
男の全身から、血の気が引いていく。
空気が張り詰める。
高級な香の匂いが
背筋に冷たい汗を伝わせた。
「⋯⋯た、頼む⋯⋯あんたの名前があれば
フリューゲルの中でオレは⋯⋯」
「キミの名は
もうこの店の記録から削除済みだよ」
その言葉が、何よりも残酷だった。
アラインの声は穏やかだった。
だが
冷ややかに囁くその声音は
まるで〝既に運命を決した者〟のもの。
「今夜、キミのことを覚えている人は
誰もいなくなる」
男が席から立ち上がろうとした時
背後で
扉の鍵が〝音もなく〟掛けられた。
扇情的なジャズが流れる中
アラインはただ口元に笑みを残したまま
手元の布巾で
グラスを一つだけ最後まで磨き続けていた。
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優雅な微笑の裏に、静かに狂気を隠す。 脚本を書き換え、命すら戯れに弄ぶ影── すべては己の手の内で踊らせるために。 甘い声も、愛の囁きも、ただ冷たく美しい罠に過ぎない。