男の足取りは
まるで壊れた機械のようにぎこちなく
まっすぐ立っていることすら
できていなかった。
それでも
BAR Schwarzのスタッフたちは
丁寧に、しかし容赦なく
その腕を取り
両脇から支えるようにして
彼を引き摺っていく。
誰も何も言わない。
客たちも見ない。
音楽は途切れることなく流れ続け
グラスの中の氷が
カランと音を立てていた。
男は自分がどうなるか
もう考えることもできなかった。
恐怖と苦痛に心を焼かれ
呆けたように口元を開いたまま
ただ、されるがままに
店の奥──
決して客の目に触れぬ
裏の扉へと消えていく。
アラインは
それを一瞥もせずに背を向けた。
彼にとっては、それで良い。
あれは
もう〝情報〟ではなく
ただの〝ノイズ〟に過ぎない。
カウンターの内側
棚の奥から
漆黒の革で装丁された
一冊の手帳を取り出す。
銀の金具をカチリと外し
その中ほどのページを開いた。
そこに
二枚の写真が差し込まれていた。
一枚は、着物を纏った黒褐色の青年。
柔らかな笑みと、瞳の奥の冷徹さ。
もう一枚は、鋭い眼をした大柄な男。
不機嫌そうな横顔と、夜の獣のような気配。
アラインの指先が
ゆっくりと二枚の写真を抜き取る。
その瞬間
瞳がふわりと細められ
口元に
どこか陶酔したような笑みが浮かぶ。
まるで恋人に触れるように
写真の縁をなぞりながら
喉の奥で甘く呟く。
「──ねぇ。
どれだけ、壊せば気が済むの?」
二人の顔を見つめながら
まるで人形に話しかけるように
ゆっくりと
言葉を落とし込んでいく。
「こんなにも、可愛くて、危険で⋯⋯
誰にも止められないくせに
ボクの〝舞台〟だけは
ちゃっかり踏み抜いてくるんだね⋯⋯?」
「⋯⋯ソーレン⋯⋯時也⋯⋯」
彼らの姿を想起するたび
身体の芯がざわめく。
壊しても壊れない、あの愉悦。
計画の上で邪魔なはずなのに
否応なく引き寄せられる存在。
「⋯⋯賭場なんて、所詮は遊び。
キミたちが壊したのは
最底辺の〝枝葉〟に過ぎない」
二人の写真を胸元のポケットにしまうと
アラインはそれを布越しに撫でた。
計画は、すでに進んでいる。
賭場など、所詮は資金源の一つ。
喪失しても〝本筋〟は崩れない。
なぜなら
〝記憶〟という基盤を操れるのは
この世界においてアラインだけだからだ。
金も、構造も、組織も
いくら壊されようとも
記憶を塗り替えてしまえば
全て無かったことにできる。
──それが、彼の持つ狂気の〝神性〟
アラインはカウンターに戻り
何事もなかったかのように
入って来た次の客に向け静かに笑った。
「⋯⋯いらっしゃい。
今日は、どんな嘘を飲みに来たの?」
⸻
「ふふ。〝アレ〟借りれたんだ⋯⋯
キミみたいな優秀な子には
甘いご褒美をあげよう。
VIPルーム⋯⋯使うだろう?」
アラインは
グラスを傾ける女の耳元に
囁くようにそう言った。
その声音は絹のように甘く
冷たい色気を含んでいた。
女の頬が紅潮し
グラスを持つ手が小さく震えた。
彼女は頷き、微笑む。
その顔に疑いはなかった──
それが選ばれた者だけに与えられる
報酬だと信じていた。
BAR Schwarzの最奥
選ばれた者しか
足を踏み入れられない〝劇場〟
艶やかな深紅のカーテン
防音処理された静寂の間
温かなキャンドルライトの下
空気さえも愛撫するような
甘い香が漂っていた。
そのベッドの上
アラインの腕の中で
女は蕩けるような吐息を
何度も漏らしていた。
快楽に満たされた瞳で見上げるその先
アラインは髪を掻き上げ
ゆるやかにその額へ口づける。
「ねぇ、キミは⋯⋯
ボクに愛を教えられる?」
問いかけは柔らかく
まるで愛を求めるような声音だった。
だがその瞳には、愛も欲もなかった。
あるのはただ
〝昂ぶりの出口〟を探すための
道具としての女への視線。
しばし続く甘美な静寂。
だがアラインの内側では
別の何かが渦巻いていた。
櫻塚 時也。
ソーレン・グラヴィス。
名を呼ばずとも
脳裏に焼きついた彼らの動き
気配、殺気。
この昂ぶりを
何にぶつければ満たされる?
そう思った時
掌の中にあったものが
ちょうどよかった。
アラインの手が、女の細い首へと滑る。
掌を当て、優しく、包むように──
ゆっくり、ゆっくりと締まっていく。
血で床を汚したくなかった。
なにより
手と肌で〝命が尽きる感覚〟を
直接味わいたかった。
女は最初こそ甘く笑っていたが
やがて目が見開かれ
呼吸がうまくできないことに気付いた。
爪が肌に食い込み
心臓の鼓動が狂い
肺が求める空気が奪われ
女の目が困惑と恐怖の狭間で揺れる。
やがて
痙攣は静かに──沈みこんでいった。
瞳が虚ろに濁っていく。
「⋯⋯ありがと。
ちょっと、スッキリしたよ」
アラインは
命が抜けた身体を丁寧にベッドへ横たえ
その瞼を閉じさせた。
ベッドの端に座りながら
乱れた髪を結い直し
白いシャツの襟元を整える。
鏡を見れば
そこにはいつもの
〝完璧なバーテンダー〟の顔があった。
だがその胸の奥で
まだ熱は完全に冷めていない。
彼は静かに胸元 から
二枚の写真──
黒褐色の瞳を持つ男と
野生の気配を纏う男──
それを抜き取ると、指先で縁を撫でた。
「⋯⋯壊された、って聞いた時。
ほんの少しだけ⋯⋯ね。
ボクも、愉しかったんだよ」
銀のライターの火が、写真を静かに炙る。
燃える紙の香りとともに
アラインは目を細める。
「⋯⋯でも、忘れちゃダメだよ。
舞台はね、役者が壊したつもりでも⋯⋯
脚本家が書き換えれば
何度でもやり直せるんだ」
写真は灰になり
ゆっくりと空気に溶けていった。
アラインは立ち上がり
再びあの静かな扉の先へと向かう。
「さあ⋯⋯
次は、誰に〝役〟を与えてあげようか」
微笑は美しく
けれど、どこまでも冷たく狂っていた。
コメント
1件
冷酷な指揮官は夜に潜み、ただ壊滅を楽しむ。 勝利も敗北も興味はない。 望むのは、崩壊と疲弊、そして無垢な笑みで見下ろす“消耗”の宴──