テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第四話 息のしづらい陽だまり
朝は静かだった。
館の中はいつも静かだが、今日はそれがやけに耳につく。
暖かい寝台から体を起こすと、窓の外が白く光っていた。雪ではない。光だ。太陽が出ている。
北では珍しい種類の明るさだ。
……嫌な明るさだな。
理由は分からないが、そう思った。
「今日は城下町へ行きましょう」
声が飛んできた。
振り向くと、アディポセラ様が窓辺に立っていた。朝の光を背にして、いつもより輪郭が柔らかく見える。
「町、ですか」
口が勝手にそう返す。
町と聞いて浮かぶのは、市場の喧騒でも賑わいでもない。
逃げ道の少なさと、人の目の多さだ。
「ええ。ずっと館の中では退屈でしょう? 外の空気を吸うのも大切なことです」
退屈。
そういう言葉で言い表せる環境にいたことがない。
だが否定する理由もないので、頷いた。
馬車の中は揺れる。
窓の外の景色が流れていく。
石壁、旗、門番。
門の兵士が敬礼するのが見えた。視線が一瞬こちらに向く。
値踏みの目だ。
どこの出か、何の身分か、どのくらい危険か。
北でも南でも、人の目は同じだ。
「ほら、見てご覧なさい」
向かいから声がする。
アディポセラ様は町を眺めている。人の流れではなく、屋根や煙や光の反射を見ている目だ。
「怖がらなくていいわ。ここは守られた街ですから」
守られている場所ほど、
守られない人間がはっきりする。
そういう作りになっている。
だがそれは言わない。
町に降りる。
音が多い。匂いが多い。人が多い。
一瞬で分かる。
ここでは立ち止まった方が負けだ。
ぶつかられ、囲まれ、奪われる。
だから人の流れを読む。空いた場所を探す。背後の気配を拾う。
なのに。
誰も近づいてこない。
人が、避けている。
視線だけが刺さる。
珍しい動物を見る目。
関わらない方がいいものを見る目。
「綺麗でしょう?」
声がする。
何が綺麗なのか一瞬分からなかった。
色のことか。
音のことか。
それとも、自分がこの中で安全な位置に立っていることか。
「あなたは、こんな場所を見るのは初めてかもしれませんね」
答えない。
初めてかどうかは問題じゃない。
ここで生き残れるかどうかだけが問題だ。
「少し寄りましょう」
布の店に入る。
屋根があり、壁があり、出入口が一つ。
悪くない場所だ。
「このあたりが良さそうね……」
棚に並ぶ布の色が目に入るが、値段の札の方が気になる。盗まれやすいものがどこにあるかを無意識に測っている。
「あなたに似合いそうだわ」
肩に布が当てられる。
深い色。
夜の色。
北の空を思い出す色だ。
「お嬢様の召使いですかな? ずいぶんと整った顔立ちで」
店主の声。
悪意はない。ただの興味だ。
そういう声は一番厄介だ。
人を“物”として眺める声だからだ。
「ふふ、ええ。まだこちらの暮らしに慣れていないのです。少しずつ教えているところで」
教えている。
その言葉に、胸の奥が少しだけざらつく。
私は道具か、子どもか、犬か、猿か。
どれでも大差ないか。
布を持たされる。
荷物を持つのは慣れている。これは苦じゃない。
苦なのは、
「与えられている側」に置かれていることだ。
広場を歩く。
遠くの路地から怒鳴り声が聞こえる。
男の声。
殴る音。
体が先に反応する。
「まあ…朝から騒がしいこと」
視線が向く。距離を測る。逃げ道を確認する。
だが横から声が降る。
「行きましょう。ああいうのは見なくていいわ。汚れてしまいます」
……汚れる?
殴られているのはあっちだ。
血が出るのも骨が折れるのもあっちだ。
なのに、汚れるのは“見る側”らしい。
視線を外す。
黙って従う。
ここでは、あの路地にいる側が汚れで、
隣を歩く私は“綺麗にされる側”だ。
どちらの方が息が詰まるかは、言わない。
帰りの馬車。
揺れが単調で、眠気を誘う。
「今日は楽しかったでしょう?」
楽しい、の意味を探す。
痛くないことか。
寒くないことか。
殴られないことか。
なら、楽しいのかもしれない。
「……はい」
短く答える。
それ以上の言葉は要らない。
「少しずつ慣れていきましょうね。分からないことは、私が教えて差し上げますから」
教える。
導く。
正しくする。
そういう言葉が、アディポセラ様は好きだ。
窓の外に城の塔が見える。
帰る場所があるというのは、生き延びるには悪くない条件だ。
けれど。
あの町の路地にいた男も、
ここでパンを焼いている女も、
城門に立つ兵士も、
全員同じ街にいるのに、
立っていい場所が違う。
その線を引いているのが誰なのか、
この人は考えたことがない。
私は黙って足元を見る。
首輪はまだ見えない。
でも、ついているのは分かる。
柔らかくて、温かくて、
外からは綺麗に見えるやつだ。