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第五話 やわらかな首輪
藍色が視界の端で揺れている。
首に巻かれた布は軽いはずなのに、やけに存在を主張してくる。
息をするたび、布の繊維が喉元に触れる。
きつくはない。
締められてもいない。
なのに、指で引きちぎりたくなる衝動が、ずっとそこにある。
「マフラーです」
目の前で、アディポセラ様が満足そうに微笑んでいる。
自分が良いことをしたと信じて疑わない顔だ。
「昨日の町、風が冷たかったでしょう? あなた、ずっと静かでしたもの。きっと風が寒かったのだと思って」
……寒い?
思考が止まる。
北の冬を知らない声だ。
肺が凍る朝も
まつ毛が白く固まる夜も
息を吸うたび胸が裂ける感覚も
何一つ知らない人間の想像だ。
「これならあたたかいわ。ほら、とても似合っています」
寒かったから黙っていた?
違う。
あの町は
音が多すぎて
人が多すぎて
目が多すぎて
喋る余地がなかっただけだ。
「町はまだ慣れないでしょうけれど、少しずつ大丈夫になります。昨日は人が多くて緊張したのね」
寒い? 俺が?
雪の中で寝たこともない奴が何言ってやがる。
喉の奥まで出かかった言葉を、舌で押し戻す。
ここでは、それは間違いだ。
落ち着け、私。
「……お気遣い、ありがとうございます」
口から出るのは、よくできた音。
自分の声が、少し遠い。
「苦しかったら、ちゃんと言ってくださいね。私はあなたの味方なのですから」
味方。
その言葉が、布よりも重く首に乗る。
味方なら、
この布を巻く前に、
何を見て黙っていたのか聞くはずだ。
でもこの人は、答えを先に決めてから優しくする。
優しさの形をした決めつけだ。
指先が、無意識にマフラーの端をつまむ。
引けば外せる。
ほどけば、ただの布に戻る。
でも外したら、
きっとアディポセラ様は悲しそうな顔をする。
それは面倒だ。
それに──
ここは暖かい。
腹も減らない。
殴られもしない。
この布は、その証みたいなものだ。
外す理由はない。
外せない理由も、ちゃんとある。
「似合っているわ」
嬉しそうな声。
私は小さく頷く。
似合っているかどうかなんてどうでもいい。
ただ分かるのは、
これは首を守るものじゃなく
首に“ここにいろ”と印をつけるものだということだけだ。
藍色の端が胸の前に垂れている。
夜の色。
故郷の空に似ているのに、
そこへ帰る道には、もう繋がっていない色だ。
私は何も言わない。
何も言わず、
与えられた温かさの中で、
ちゃんと息ができるふりを続ける。
私は読み書きもできないが、聖書だけは覚えていた。
忘れることはない。
第1戒から第10戒には、大体、自己中心的な欲望という段階から自分を律しなさいということが記されている。
そこから教徒が作り上げたのが、七つの大罪の中でも筆頭になる、「傲慢」。
おごり高ぶって他人を見下し、自分の能力や立場を過大評価し、礼儀を欠いたりする態度を指すもの。
これはもはや、アディポセラ様のために作られたのではないかと思うほどに似合っている言葉だった。
アディポセラ様は自我が肥大化している、という表現の方が好まれそうだ。
嗚呼。
どこまで大きくなっていくのだろうか。