この物語はフィクションです。
実在の人物、団体、事件等には一切関係ありません
男子学生は明らかにうろたえた様子でふらりと後ずさった。
「わ、わるい……そんな、つもりじゃ」
「つもりも何もねえだろ。おい!」
高梨のどなり声が聞こえ、直後に男子学生の謝罪の言葉も耳に届いた。
自分で思っているよりも出血しているのかもしれない。手のひらを伝った赤い雫はパタパタと地面にたれて手のひらほどの染みを作っていた。
赤いな、なんて思いながらシャツの袖で目元を拭う。
僕よりも、周りの方が慌てている気がする。
「と、とりあえず医務室に」
そう言ったのはおそらくショートカットの女子学生だ。
見るからに青ざめて、慌てた様子でカバンからタオルを取り出して差し出してくれた。
「いや……ちょっと、切れただけだから。大丈夫……です。タオルは汚れちゃうから」
切れたのは瞼(まぶた)の上あたりだろう。
視界が赤いのは目に血が入っているからで、ちょっとぼやけているのは強く押されたからだろう。
どちらも、時間が経てば治るはずだ。
「でも、あ、じゃあこれ」
かわりに差し出されたティッシュを受け取って傷のあたりに押し当て、血で汚れてしまった手の代わりに肘で、鼻息を荒くして男の腕を掴んでいる高梨の背を軽く押した。
「大丈夫だから。ええと、あなたも。良いですから」
暴れてはいたが、本当に殴るつもりも、怪我をさせるつもりも無かったのだろう。
いまは茫然と立ちつくす男にもそう言って、僕は行動でとりあえず隅の方へ行くことを示した。
カフェテリアの端にある縁石に腰かけ、女子学生に言われるがままに押さえていた手をどける。
新しいティッシュを貰って、改めて目のあたりを押さえ付けた。
「い、痛いよね。ごめんなさい、私たちのせいで」
震える声でそう言う女子学生に、首を振る。
「大丈夫ですよ。それに、単なる事故ですから。ちょっと切れただけだし。目のところは血が出やすいとかなんとか、誰かが言っていた気もするし」
なんとか笑ってみせると、女子学生も泣きそうな顔で僅かに目尻を下げてくれた。
遅れてやってきた男から、濡れたタオルを受け取って顔を拭く。
僕は男にタオルを返しながら口を開いた。
「力ずくってのは、よろしくないですよ。僕じゃなかったら、もっと大ごとだったでしょ」
「誰だって大ごとだっての」
ふてくされた様子で吐き捨てる高梨を視線でなだめてから、僕は重たい口を開いた。
「あまり、こういう仲裁とかは得意じゃないんで上手いことは言えないんですけど、多分、今、僕、言う権利がありそうなんで」
誰にも異論はなさそうだ。
「殴るのはナシで。いいですね」
「殴るつもりはなくて…… ちゃんと話をしたかったのに、聞いてくれなかったから、つい」
男の言葉に、ロングヘアの女性が「それは!」と言い返すのを、もう一人の女性が止めた。
最初こそ様子を気にしていた学生達も、暫くはこちらを見ていたようだが、今はその気配も消えている。
「どういう形にしろ、実力行使はちょっと。 男だからとか女だからとかじゃなく、言葉を交わせるなら話し合った方がいいと思います。とりあえず……今日はもう、帰りましょう。落ちついたらどこか人のいるところで話し合い。良いですよね」
「ああ。それは、もちろん。でも、その……病院とか」
僕は男の言葉に首を振った。
「本当に大したことありませんから。とりあえず医務室には行きますし、適当に転んだとか言っておくので、もう気にしないでください」
そう言って出口の方を顔や視線で示すと、男は頷(うなず)いてから一度頭を下げて去って行った。
高梨はそれを睨みつけるように見送ってから、事情を話してくると医務室へと走って行った。
女子学生二人にも同じように大丈夫だと伝えたが、高梨を待つといって譲らない。
頭痛がひどくなってきているので頭を抱えてしまいたかったのだが、腹に力を入れてなんとか声を出した。
「高梨とは、知り合いなんですか。ええと、先輩、ですよね?」
「うん。私たちは二人とも心理学科の二年。私は、高梨と高校も一緒。大学に入ってからもクラスメートだったんだよ」
ショートカットの女性がそう言った。
「まあ、ど田舎だったから、高校どころか中学も小学校も一緒だけどね」
「幼なじみってやつですか」
僕にはそんな相手はいないが、学校が一緒という事はそう言う事だろう。
当の女子学生も頷いている。
僕は納得した風を装って笑ってみせたが、実のところ少し驚いていた。
高梨が一つ年上だったこと自体は、そう驚く事ではない。
大学に入学する年齢等まちまちだ。
だが、一年の時のクラス分けが同じと言うのは、高梨の入学年が僕よりも一年早い事を意味していた。
昨年入学しているにも関わらず、高梨の在籍年次は一年。
一番自然な考えは留年だろう。
とはいえ、今日の日本の大学において、まじめに通っていて留年するというのはあまり聞かない気がする。
病気等の事情も考えられるが、高梨の雰囲気からはそう言った事情を感じ取る事もできなかった。
堅実な高梨が留年することが想像できなくて、視線がさまよう。
「まあ、うっとおしいかもしれないけど、良い奴だから。弟さんがあんなことになったから、ちょっと心配症に……なっちゃったけど」
女子学生は、そう言って口を噤んだ。
「不眠症?」
「なんかそういうやつで結構体調崩してたんだよ。で、高梨は一度田舎に帰ってたんだ」
「へ、え……」
ふらりと体から力が抜けた。
俯く形で傾ぐ体が止められなくて、膝に肘を突き立てる形でなんとか頭を支えた。
気持ちが悪い。頭痛は耳の中で音を鳴らすほどにひどくなっていて、吐き気を何度も息を吐くことで逃すことしかできない。
「ちょっと、やっぱり病院」
慌てた声をあげた二年生の二人を、なんとか手のひらでとどめて
「あ、これは怪我のせいじゃなくて、昨日から頭痛がひどくて。薬も持ってるんで大丈夫です」
いいながらどこか奥の方がざわついた気がした。
高梨は親切だ。ともすればちょっと過ぎた過保護のような、そんな親切さが彼にはある。
僕も、高梨のそういった部分に薄々気がついていたのかもしれない。
でも、それは高梨の性分で。
今は友人である僕の事が心配なのだろうと、納得していた。
だが。
彼の心配は僕のためじゃない。
いや、僕のためであって、僕のためじゃない。
弟の事に重ねて、僕の事も心配になったのか。
そんな風に考えるのは、やけに子供じみた我侭(わがまま)な気がする。
根底の理由が何であれ、親切にしてくれることに変わりは無いのに。
百パーセント、自分に向けられた厚意でないことに腹を立てる理由などどこにもないのに。
そんなことを思っている間に、高梨が学校医を連れて戻ってくるのが見えた。