第一アドヴェントを終えてすっかりと街並みもヴァイナハテン-クリスマス-に向けて彩られ出した頃、ハイリヒアーベント-クリスマスイブ-に生を享けたが事情があって神の子も己の誕生日も祝うことのないウーヴェは、いつもと同じに仕事を終え、今日ここを訪れて前回よりも症状が悪化しかけている兆しを見せる患者への治療や配慮に足りないことは無かったかと反省をしていたが、控え目に診察室のドアがノックされ、思案するときの癖で指の上で万年筆をくるくると回転させていた手を止めて顔を上げる。
「どうぞ」
「失礼します。ヘル・デュバルがお越しです」
「ベルトラン?珍しい事もあるな…通してくれ」
「かしこまりました…今日はもう?」
ドアを閉める直前に問われた言葉に頷いてありがとうと白い歯を見せたウーヴェは、彼女の背後に現れるであろう少しだけ恰幅の良くなった友人の姿を思い描きながら半ば尻を浮かせるが、室内に入ってきたのが予想外のものだった為、中途半端に尻を浮かせた姿のまま固まってしまう。
「!?」
確かに秘書兼受付兼診察以外のすべてを取り仕切ってくれている彼女が告げたのは、ウーヴェがまだまだ本能のみで日々を過ごしていた頃からの友人の名前だったはずだが、入ってきたのは何処からどう見てもクランプスと呼ばれる怪人だった。
額に生える二本の角は幾度も捻れ角度を変えて長く伸び、灰色の髪は不揃いなまま伸び放題に背中に広がり、その髪と同じ色の顔は歯を剥き出しにして総てのものを威嚇するようで、眼窩も落ちくぼんでいるのに暗く黄色い光が炯々と灯っていた。
そもそもクランプスは12月の始めにサンタクロースの原形とされる聖ニコラウスと一緒になってやって来ては悪い子どもにお仕置きをする存在だったはずで、自分は何か悪いことでもしただろうか、それともクランプスが抱えている聖ニコラウスに対する日頃の憤懣を聞いてほしい為にやってきたのだろうかと、日頃の冷静さからはあり得ないことを考えてしまい、咳払いが聞こえてきた為に白い髪を一つ左右に振って脳内を占めていた思考を吹き飛ばし、そもそも自分はお仕置きを受けなければならない悪さもしていなければ子どもではないと苦笑すると、クランプスと呼ばれる怪人の目を真正面から見つめる。
「腹が出ているのを隠すつもりでクランプスに化けたのか?」
だとすればそれは激しい勘違いの賜物だぞと真相を察して笑ったウーヴェは、クランプスの剥き出しになった歯の間から流れてくるのが聞き慣れた幼馴染みの声だったことに安堵の息を零し、それはどういう意味だと勢いよくマスクを取って首を左右に振って憤慨している顔に目を細めて咳払いをする。
「……お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう、リア」
どのような客や患者が来ようとも顔色を滅多に変えない彼女がいつも通りに平静な様子でお茶を運んできてくれた為、感謝の思いをしっかりと口で伝えたウーヴェが今日はお疲れさまともう一度伝えて頷けば、彼女も一つ頭を下げて診察室を出て行くが、その背中にクランプスのマスクを小脇に抱えたベルトランが呼びかける。
「ああ、リア」
「何かしら?」
「…この精神科医がさ、俺のこの姿を見て、出ている腹を隠すつもりなのかと言うんだよ。酷いと思わないか?」
小脇に抱えたクランプスのマスクを顎の下に宛ってどう思うと問い掛けるベルトランの言葉に対し、さすがに彼女も口籠もってしまうが、私はクランプスに対しては少し怖いとしか思わないが、子ども達には夢に魘されるほどの恐怖感を与えられるんじゃないかしらと見当違いの回答をしながら出て行ってしまった為、二人が顔を見合わせて無言で肩を竦め合う。
「…ベルトラン、今日はどうしたんだ?店は良いのか?」
「ああ…今日は臨時休業だ」
「何かあったのか?」
ヴァイナハテンまであと三回のアドヴェントを控えた今、ヴァイナハツマルクトに買い物に来た人々がランチやディナーを食べていく為に忙しいのに臨時休業など何があったんだと、口ではどれだけ悪態をつきながらもやはり幼馴染みのことが心配で眉を寄せたウーヴェは、クランプスのマスクをぽんと放り投げては受け止めるベルトランの行為に更に眉を寄せるが、先を促すことはせずにただ黙ってその様を見守っている。
「チーフのばあちゃんが手術をした」
「そうなのか?」
幼馴染みがあの場所に店を構えて毎日毎日いつ客がやってくるのかも分からない不安な日々を過ごしていた頃、ひょっこりと顔を出したのがチーフと呼んでいる青年で、その彼と文字通りの二人三脚で店を繁盛させてきたのだが、その彼の祖母が命に関わる大手術をすると連絡を受けたのが先月末だった。
その話を聞き今日の休業を決めていたが、今度の日曜に行われるクランプスが市内を走り抜ける行事に知り合いから参加しないかと声が掛かったからと答えたベルトランは、手元に落ちてきたマスクをしっかりとキャッチし、頭の上に載せて微苦笑を浮かべる。
「チーフがいないと店が回らないからな」
「そうだな…確かに彼の存在は大きいな」
繁盛するかどうかすら全く分からないレストランで、客がいつ来ても良いように店の掃除をし、料理の下準備をしていた気の良い青年の顔を思い浮かべながらぽつりと紛れもない本音を呟いたウーヴェは、ドアが開いてリアが顔だけを出して今日は帰ると挨拶をした為、お疲れ様ともう一度労いの声を掛けて笑顔で送り出す。
「で、日曜日にその格好で走るのか?」
「いや、俺は走らないな。そもそも走る体力もないしな」
毎日厨房でフライパンや包丁を持って食材と格闘しているが、雪が降るかも知れない街中をこの被り物を着て走り回るだけの体力はないと肩を竦め、面白いものを借りられたからここに顔を出したこと、仕事が終わった後で一緒に食事に行こうと誘われたウーヴェは、今日はまだリオンから連絡が入っていないがそろそろに顔を出しそうだと苦笑すると、お前にはキング専用のセンサーでもついているのかと目を細められ、すかさず気持ちの悪い顔をするなと嘯く。
「本当に口が悪いよなぁ…そんなことを言う子はお仕置きだぞ?」
ベルトランが憤慨の鼻息を吐くが、自分が小脇に抱えているものに気付いてそれをすっぽりと被ると腰のベルトに差していた革の鞭を取り出して身構えた為、ウーヴェがベルトランから距離をとるように窓際に後退り、デスクを挟んでの攻防が繰り広げられようとしたその時、どちらにとっての救いなのかは不明だが、診察室のドアがリズムを付けて殴りつけられているような物音を立てる。
そんなノックをするのがただ一人であることを日常的に知っているウーヴェと、彼から話を聞かされて知っていたベルトランが顔を見合わせ-といってもベルトランはクランプスのマスクを被っている為、瞳の部分に開けられた小さな穴から視線を重ね-、ウーヴェが安堵か呆れなのかどちらともつかない溜息をついてどうぞと声を掛けると、勢いよくドアが開いていつ聞いても騒々しい程の陽気な声が流れてくる。
「ハロ、オー……!?」
オーヴェと恋人に呼びかけたのはくすんだ金髪に薄く雪を積もらせたリオンで、ドアノブに手をかけて笑顔で呼びかけるが、頭痛を堪えているウーヴェと己の間に存在する灰色の禍々しい物体に眉を寄せ、その物体がくるりと身体全体で振り返った瞬間、室内にいた二人がどんな反応も出来ないほどの素早さでドアを閉め、失礼しましたという悲鳴だけを残して出て行ってしまう。
「……今の、キングだろ?」
「ああ…クランプスが苦手なんだろうな」
診察室の分厚いドアの向こうから微かに聞こえてくる絶叫といつも見慣れている年下の恋人の態度からは想像も出来ないその様子から呆気に取られたウーヴェは、幼馴染みのくぐもった声に呆然と返事をするが、恋人が己の上司を敬意を込めてクランプスと呼んでいたことも思い出しながらベルトランにマスクを早く取れと告げるが、それよりも先に微かにドアが軋む音が聞こえたことから二人でそちらへと視線を向けると、細く細く開いたドアの隙間からくすんだ金髪とその下から脅えきっている蒼い瞳が姿を見せたことに瞬きを繰り返す。
そんな隙間から見つめている方が余程怖いと内心呟いたウーヴェは、どうしたんだと平静さを装った声で問いかけてリオンを手招きするが、10センチほどの隙間は広がることはなく、双眸と同じく脅えた声がそこにいる物体はなんだと問いを放つ。
「うん?ああ、彼か?────ヘル・クランプスだ」
「悪い子がいると聞いたからやってきたぞ。さぁ、悪い子は何処だ!?」
ウーヴェの少し意地の悪さを秘めた声にベルトランが調子を合わせて畏怖を与えるような声を出すと、10センチの隙間があっという間に塞がってしまい、再度ドアの向こうから絶叫が響き渡る。
「……余程クランプスに嫌な思い出があるのか?」
「そうだな……マザー・カタリーナらにも迷惑を掛けていたと言っていたから…かなり手酷くやられたんじゃないのか?」
よい子には聖ニコラウスからプレゼントが配られ、悪い子には付き従うクランプスから罰を与えられると言われるが、恋人が育った孤児院の歴史上最も手の付けられない悪童だったリオンにとってはその日は嬉しい日などではなかったことは簡単に想像出来てしまい、さすがに気の毒になったウーヴェがそろそろマスクを取って事情を話してやれと幼馴染みに合図を送るが、今度もまたベルトランが反応を示す前にドアが軋む音が響き、次は10センチではなくドアが全開にされてクッションを盾のように身構えて恐る恐るリオンが入って来る。
「……オーヴェ、オーヴェ…っ!」
「どうした?」
「俺、悪い事してねぇよな?な?最近はオーヴェを怒らせることしてねぇよなぁ」
だから今すぐそこにいるヘル・クランプスにはお引き取り願ってちょうだいと震える声に懇願されてしまい、そのように言っておりますがいかがいたしましょうかと戯けたように友人が扮するクランプスに問いかけると、大仰な仕草で腕を組んだクランプスがリオンを一瞥する。
「ひーっ!!!」
その一瞥を受けてクッションを放り出したリオンは、デスクの向こうで微かに笑みを浮かべるウーヴェの背後に回り込んで羽交い締めにしてしまう。
「こらっ!リオン、苦しいっ!!」
「だってさ、だってさ…!」
「だっても何も無いから力を抜け!」
背中から羽交い締めにされる苦しさにウーヴェが苦情の声を挙げるが、クランプスというどうしようもない恐怖を目前にしたリオンにはその声はロクに届かないらしく、次第に腕に力が入ってくる。
「悪い子はそこか!?」
苦しんでいるウーヴェから早く手を離せと言う代わりに一言吼えたベルトラン扮するクランプスだったが、その一喝にリオンがウーヴェから手を離してその場にしゃがみ込み、頭を抱えながら悲鳴じみた声を放つ。
「もう、寝てるオーヴェにイタズラしたりしませんっ!!!」
だからお願い、その鞭で叩かないでと悲鳴を上げたリオンは、頭上に二種類の気配が漂い始めた事に気付いてそっと顔を上げ、幼い頃から夢にまで見て魘され続けたクランプスとそのクランプスよりも静かに冷たく怒り狂っている恋人を発見し、己が口走ったことを思い出して頭を押さえていた手で今度は口を押さえて器用に飛び上がる。
「今、何と言ったんだ、リーオ?」
「ごごごごめごめんごめんっ!!許してオーヴェっ!!」
「うん。許したいと思うから、教えてくれないか?今、何と言ったんだ…?」
目の前にいるクランプスに対する恐怖などほんのちっぽけなもので、己が最も恐れるものが目の前にある現実に思わず逃避したくなったリオンは、一言一句を区切りながら問いかけてくるウーヴェの視線から顔をそらし、腰を屈めながらドアに向かって歩き出す。
「何処に行くんだ、リーオ?」
「や、う、うん、ちょっと用事を思い出したから…っ!」
だから今日は残念だけど帰ると口早に吐き捨てたリオンだったが、大股に近寄ってきたウーヴェに短く息を飲んで頭を抱えてその場に蹲る。
「ひーっ!オーヴェぇ、ごめーん!」
「そんなに謝られては分からないだろう?なあ、リーオ、お前は何に対して謝っているんだ?」
「いや、だから、その…っ!」
冷静沈着の仮面を被った青白い怒りの炎にこのまま焼き尽くされるのかなぁと嘆きの声を挙げたリオンの胸倉を掴んで信じられない強さで立ち上がらせたウーヴェは、視線を彷徨わせる恋人にそれはそれは綺麗な笑顔で三度問いかける。
「何と言ったんだ?教えてくれないか、俺の太陽?」
免疫のない人間ならばその笑顔を見ただけでぶっ倒れそうな極上の笑みを浮かべるウーヴェだが、リオンともう一人にだけ見抜ける怒りを全身で現していて、ついにリオンが項垂れてごめんなさいと小さな子どもの顔で謝罪をする。
「寝ている間にイタズラをした?」
「…うん……時々…、しました」
項垂れるリオンの頭に手を乗せて出せうる限りの優しい声で問いかけたウーヴェは、恐る恐るクランプスの姿をしたベルトランが自分たちの横を通り抜けて開け放たれたままのドアから出て行こうとしている事に気付き、怒りの矛先をそちらにも向ける。
「そこのクランプス、何処に行くつもりだ」
そもそもお前がそんな格好でここに来なければこんな大騒ぎにはならなかったはずだと冷たく言い放ってびくんとクランプスの肩を跳ね上げさせたウーヴェは、振り返るクランプスになおも冷たい声でそろそろマスクを取れと命じ、驚くリオンに苦笑する。
「あれはベルトランだ」
「んな!?」
驚愕の真実にリオンが飛び上がり、マスクを取ってバツの悪い顔で見つめてくるベルトランに指を突きつけながら口をぱくぱくとさせてしまう。
「な、な、な…っ!!」
「……いや、楽しませて貰ったぜ、キング」
「ちょ、冗談じゃねぇって…!俺がどれだけ怖かったか…!」
自分が味わった恐怖を経験してみろとベルトランに詰め寄るリオンだが、背後でゴホンと低く冷たく響く咳払いに飛び上がり、肩越しにそっと振り返って目の前のクランプスと背後の恋人の怒りだとどちらがより小さな恐怖だろうかと意識が遠くになりそうな中で思案するが、腹を括って振り返りざまにごめんと怒鳴るように謝罪をする。
「もう寝ているオーヴェのパンツをずらしたりしませんっ!!」
「ずらしただけかよ、キング?」
「…起きなかったから、ちょこっとオイシイ思いをさせてもら…!?」
「…あれは…夢じゃなかったのか…!?」
リオンが文字通りオイシイ思いをした事実を告白した直後、ウーヴェが額を押さえながら夢だと思っていたが違ったのかと呟くが、顔を瞬間的に赤くしたかと思うと思わず二人がひっしと抱き合ってしまうほどの怒声を診察室内に響き渡らせる。
「こ、の…バカたれが!!」
「はわわわわわわっ!!」
いつものお決まりの怒声がリオンの頭上に落ち、一緒にいた為に同じように怒鳴られてしまったベルトランがふと生真面目な表情になったかと思うと、目尻を怒りで赤く染めている幼馴染みに素朴な疑問を発してしまう。
「ん?ウーヴェ、お前、キングにイタズラされても目が覚めなかったのか?」
「それがどうした?」
「ちょっ、ベルトラン…っ!!」
そのもっともな疑問は分かるが何故今なんだと、恋人の怒りに絶好のタイミングで油を注いだベルトランを瞳の色を顔中に広げたようなリオンが咄嗟にその口を塞ぐが、流れ出した言葉は取り戻せるわけでも取り消せるわけでもなかった。
その為極低温の怒りに同じく不凍油を注がれたウーヴェが眼鏡の下で双眸をぎらりと光らせ、腕を組んで目の前の幼馴染みと恋人が凍り付きそうな冷たい視線で二人を睥睨する。
「何か言ったか、ぽよっ腹クランプス」
「んな…っ!!」
「背中に背負った籠にそこにいる大きな悪い子どもを閉じ込めてそのまま一緒に地獄に通じる穴に落ちてこい。今すぐ落ちてこい、バカたれ」
一息で言い放ったウーヴェにぐうの音も出なくなった二人は、ほぼ同時に項垂れてこれまたほぼ同時にごめんなさいと素直に謝罪をするが、冷たい青白い炎に包まれているウーヴェはなかなかのことでは許してくれないことをベルトランは長年の経験から、リオンは本能的に察し、互いに顔を見合わせてフランケン産の白ワイン半ダースとリンゴのタルト年内いっぱい食べ放題と宣言して背筋を伸ばす。
「……1ダースだ」
「ちょ、オーヴェぇ…っ!!」
「今年のヴァイナハツプレゼントはそれで良いな、うん」
フランケン産の白ワインの相場を脳内で弾き出し、この幼馴染みの許しを得る為にかなりの出費を強いられるリオンを気の毒そうな顔で見つめたベルトランは、年内いっぱい食べ放題などではなくファッシングまでタルトを食べ放題と秘蔵のブランデーを飲ませろと言い放たれて今度は自身が言葉を喉に詰まらせてしまう。
「春のカーニバルまで食わせろって!?オーゴット!お前はアクマか!!」
「そうだそうだ!オーヴェのイジワル、トイフェルっ!!」
「──白ワインを2ダースに秘蔵のバーボンとチーズの詰め合わせでも良いな」
「もうホントごめん…っ!オーヴェぇ、許してっ!」
「……悪かった。ブランデーとバーボン、それに合うチーズで許してくれ、ウーヴェ」
心底反省している二人の様子にようやく溜飲が下りたのか、盛大な溜息を零したウーヴェがリオンの髪をくしゃくしゃと乱しながら撫で付け、その手でベルトランの額をぺちりと叩いて腕を組む。
「せっかくリアが用意してくれたお茶が冷めただろう?」
「あ、ああ、悪い……それにしても、本当にクランプスが嫌いなんだな、キング」
キングの弱点発見かと苦笑するベルトランにリオンがげっそりとした顔で天を仰いで嘆息し、嫌いというよりもすでにトラウマのレベルだと呟き、眉尻を下げた情けない顔でウーヴェの肩に腕を回してしがみつく。
「クランプスに叩かれていたのか?」
「……ホームに来る奴がさ、マジで怖いんだって。いつも来る度に小便ちびってた」
トラウマという単語にはやはり過敏に反応してしまうウーヴェは、肩に懐くように顔を寄せるリオンの頭に手を宛がい、頭の形を確かめるように何度も撫でて落ち着きを取り戻させる。
恋人の過去を知れば何故クランプスに叩かれるような悪い子どもだったのかも理解出来るが、それと同時にそうならざるを得なかった当時のリオンの心を思えば笑って済ませる事などウーヴェには出来ず、もう大丈夫だと今度は一転して聞く者が不思議と落ち着く声で何度も囁き、触れた場所から伝わる気配が少し安らいだものになったことに安堵する。
「今回はベルトランが調子に乗っただけだ。……許してやってくれないか?」
「……オーヴェがいるから、平気」
お前の存在が、今こうしてハグしている自分を優しく受け止めて宥めてくれる温もりが過去とは違うことを教えてくれているから平気だと小さく返され、そうかとだけ答えたウーヴェは、ベルトランが申し訳なさそうな顔で肩を竦めた事に苦笑し、ファッシング-春に行われるカーニバル-までリンゴのタルトの食べ放題を忘れるなと言い放つ。
「…約束を忘れないように毎週店に顔を出せよ」
「そうだな…明日は店を開けるのか?」
チーフの祖母の容態と彼が仕事に出てこられる状況なのかと問いかけ、リオンがウーヴェに懐きながら顔を上げてチーフがどうしたんだと問いを発し、ウーヴェから簡潔な説明を受けると、滅多に見ない神妙な面持ちで早く良くなって彼が戻ってくれば良いなと告げる。
「ありがとうよ、キング。あいつにも言っておく」
どうあってもウーヴェから離れるつもりが無いらしいリオンがウーヴェの背中へと回り込んでへばり付いた為、ベルトランが肩を竦めて今日は帰るかと呟くと、ウーヴェが眼鏡の下で目を伏せて小さく頷く。
「じゃあな、ウーヴェ、キング」
手にしたクランプスのマスクを再度被り幼馴染みとその恋人に手を振ったベルトランだが、幼馴染みからは微苦笑を、その恋人からは早く何処かに行けと激しく手を振って追い払われてしまい、もう一度肩を竦めてクリニックを後にするのだが、階下に向かう為に階段を下っていく途中、すれ違う人達からは悲鳴と奇異の視線を受けてしまうのだった。
パチパチと暖炉の中で炎が爆ぜる音が静かに響き、その音と部屋を満たす空気が心地いいのか、珍しい事にソファに寝そべって微睡んでいるのは白い髪に暖炉の炎の色を少し映し込んだウーヴェだった。
うとうととしては枕代わりの身体が堪え性もなく動く為に意識が呼び戻されてしまい、その度に不満を訴える顔で見上げていたのだが、何度目かのそれに寝返りを打って枕にしている腿の持ち主を見上げれば、お願いだからもう許してくれと言葉に出せない懇願を瞳に浮かべたリオンが無言で見下ろしてくる。
「…どうした?」
「や、あのさ…そろそろ足が死にかけてるから、起きて欲しいなぁって…」
思うのですがいかがでしょうか陛下、もしも陛下が許して下さるのならば腿の代わりに肩をお貸しいたします。
至極丁寧に言い放ったリオンを細めた視界で見つめたウーヴェは、ふぅんと気のない返事をしながらそっと手を持ち上げて薄く髭が伸びてきているリオンの顎を擽るように指を左右に這わせる。
「くすぐってぇ!オーヴェ、止めてっ!!」
「肩も好きだが、このまま足枕をしていて貰おうか」
「げー!お願いオーヴェ、許してー!」
このままここで足枕を続けているとちびっちゃう。
何処までが本気でどこからか冗談かが分からない言葉にウーヴェが眼鏡を外した目を瞬かせ、次いでじろりと蒼い瞳を睨み付けると、にやりと太い笑みを浮かべたリオンと視線が重なり合う。
「ソファにしちゃうと大変だろ?」
「新しいソファベッドを買って貰うから別に構わないぞ?」
「ちょ、ウソウソ。ごめんなさい」
フランケン産の白ワインを一ダース以外の出費をこれ以上増やしたくないし、まだ最悪の事態にはならないと思うが冗談抜きで足の感覚がなくなりつつあるから出来れば一度起き上がってくれと頼み込み、ウーヴェが心底嫌そうな顔をしながらも上体を起こした為、リオンがずるずると座面を滑って床に足を投げ出す。
「好きだけどさー、オーヴェの重さは嫌いじゃないけど、足だけに掛かるのはムリっ!!」
いくらクリニックで自ら暴露してしまった悪事への罰だとしても、もうそろそろ許してくれても罰は当たらないだろうと、ウーヴェにしてみればお前がそれを言うなと憤慨したくなることをさらりと言い放ち、お願いと上目遣いに見つめるが、寝ている間にされたイタズラを何となく思い出し、あれは夢の中の出来事だと思っていたが現実の恐ろしい出来事だったと思い知らされたウーヴェが並大抵のことで許すはずもなく、上目遣いで見てこようが猫なで声を出そうがダメなものはダメだと言い放ち、ついでとばかりにリオンの額を一つ叩く。
「ぃてっ!」
「うるさい」
「痛い痛いっ!痛いってオーヴェ!」
「大袈裟だな」
自分が感じた羞恥を思えばこれぐらい痛いはずがないと断言してリオンを沈黙させたウーヴェは、思い出すだけでも恥ずかしいと目元を赤らめるが、俺が言わなければ分からなかった癖にと嘯くリオンの頬を両手で引っ張って不明瞭な悲鳴を上げさせる。
「ァウゥ…ウ…ひひゃいひひゃい、ほへーん、オーフェぇ…!!」
「う・る・さ・い!」
寝ているときに下着をずらすだけではもの足りず、すやすやと眠るウーヴェ自身にも手を出していたリオンだったが、クリニックでクランプスに扮したベルトランが発した素朴な疑問が脳裏に浮かび、その真相を確かめようとウーヴェの両手首をぎゅっと握ってイタズラばかりをする手の動きを封じ込める。
「離せ、リオン!」
「だーめ!これ以上引っ張られたら俺の頬がチーズみたいになっちゃうでしょ」
「良いじゃないか。チーズが好きなんだろう?チーズ人間なんだから伸びても構わないだろ?」
チーズ大好き人間だと言葉でも態度でも示してきたが、己の頬がチーズのように伸びてしまうのは当然ながら認められず、恋人がさらりと言い放つ暴言じみた言葉に目を細め、一纏めにした手首を引き寄せて上体を強引に引き起こさせると同時にソファにウーヴェの身体を押しつける。
「こらっ!手を離せ、リオン!」
「オーヴェが素直に教えてくれたら離してやる」
「何をだ…?」
俺の聞きたいことに答えれば自由にしてやると男前な笑みを浮かべてウーヴェを見下ろしたリオンは、不信感たっぷりに見つめてくる恋人の鼻先に小さな音を立ててキスをし、己の下でもぞもぞと身動ぐウーヴェの手を頭上に押しつけて目を細める。
「どうして気付かなかったんだ?」
「……!!」
何に対しての問いかを察したウーヴェが瞬間的に顔を赤くするが、次いで足を持ち上げてリオンの脇腹を膝で押し退けようと藻掻く姿に口笛を一つ吹いたリオンが難なくウーヴェの膝頭を押さえ込んでその上に座り込むと、抵抗を封じられた悔しさと下着をずらされても気付かずに眠っていた己への羞恥に更に顔を赤くする。
「な、どうして気付かなかったんだ?」
「……うるさいっ!!」
「はいはい。都合が悪くなるとすーぐうるさいって言うんだからなぁ。本当に陛下は口が悪い!」
「っ!リオンっ、止め…っ!」
「止めませーん」
器用にウーヴェの動きを封じたリオンが顔を首筋に埋めて悪戯っ気を込めて息を吹き掛けると見事なほどにウーヴェの身体が跳ね上がり、悲鳴じみた声が挙がる。
己の恋人のさまざまな意味での弱点が首であることを知り尽くしているリオンは越えてはいけない一線をちゃんと弁えており、ウーヴェの様子からそれを見極めつつも息を吹き掛けたりぺろりと首筋を舐める事は止めなかった。
リオンのそのいたずらにウーヴェも当初は往生際悪く藻掻いていたが、おかしさを感じたのか悲鳴じみた声を出していた口からは次第に笑い声も流れ出してくる。
「リオン、くすぐったいから、止めろ…っ!」
「だーめ。さっき俺が止めてって言っても止めてくれなかっただろ?」
だから止めませんと胸を張るような声で断言し、怒鳴ったり笑ったりしたお陰で疲労困憊気味のウーヴェが頼むから止めてくれと告げたのを機に、そっと顔を上げて肩で息をつきながら顔を背ける整った横顔を満足げに見下ろす。
「な、ホントに気付かなかったのか…?」
「気付いていたらその場で怒鳴ってる!」
「それもそうだよなぁ…オーヴェって確かに小さな物音でも起きるのにさ、ホントに起きないって事はそれだけ気を許してくれてるって事だよな?」
「!!」
リオンの確信を持って囁かれる言葉に反論できずに目を瞠ったウーヴェだが、そうだと答えるには羞恥心が、違うと返すにはリオンに対する思いが強くてどちらの心を優先するべきかの判断を咄嗟に下そうとするが、結局ウーヴェが取った行動は目尻のホクロが赤く染まる横顔をリオンに見せつけることだった。
「…オーヴェがそんな風になってくれたのがすげー嬉しい」
「…っ…!」
耳に流し込まれる何の衒いも飾り気もない率直な思いが身体の中に入ると熱と同時に例えようもないくすぐったさをもたらし身体をもぞもぞとさせてしまうと収まりの良いようにリオンも何故か身動いだ結果、その広い背中に手を回して抱き締めたい衝動に駆られてしまう。
それをひっそりとした言葉で告げてついでとばかりに耳朶にキスもすると、一纏めにされていた手首が圧迫から解放されて自由になり、己の心のままにシャツの背に手を這わせて肩胛骨の形を確かめるように撫でていくが、こうしたかったんだと底意地悪く問われてもその通りだという思いを素直に口にすることは出来なかった。
「……バカ」
「あーもー。いつも言ってるけどさぁ、こんな時ぐらいもっと素直になれよ、オーヴェ」
笑ったところでクランプスにお仕置きを食らうことでもないし、逆に笑わない方がお仕置きを食らうぞと、クリニックでのクランプス騒動を根に持っている顔で睨んでくるリオンにパチパチと瞬きをし、小さく吹き出したウーヴェがリオンの肩に額を押し当ててくすくすと笑う。
「バカなんて言うのはこの口か?ん?」
いつも自分がされていることをここぞとばかりに仕返ししようと、ウーヴェの頬を両手で挟んで至近距離で見つめ合いながら手を宛った頬を軽く引っ張ると、ウーヴェのターコイズ色の双眸が左右に泳ぐ。
「訂正しなさい」
「イヤだと言えば?」
「こうしてやるっ!!」
「あっ、こらっ!!リーオ、止め…っ!!」
大型犬の尻尾がもしもリオンにあればちぎれるほど左右に振っている姿をありありと想像させる顔でウーヴェの肩に顔を押しつけた結果、柔らかな髪がウーヴェの首筋やシャツから覗く素肌を刺激し、堪えきれずに笑いながら制止の声を挙げるが、笑っている為にリオンが調子に乗ったように見えた鎖骨を跡が残るほど吸い上げてぺろりと舐める。
「調子に乗るなっ!!」
「なに、気持ちよかったか?」
さすがにそれに対する文句はいつものようにするりと流れ出したが、次いで聞かされた言葉に絶句したウーヴェは、自信満々に見つめてくるリオンにどんな言葉を告げれば効果的なダメージを与えられるかを考えるが、精神科医でありクリニックにやってくる患者の心が明るい方へと向けるべく言葉を尽くしているのに、この恋人に対してだけはどんな言葉を持ってしても結局自分は言い負かされてしまう事実を思い出せば無駄な足掻きに感じてしまい、全身の力を抜いて目を閉じる。
さっき素直に口にすることが出来なかったのは己が思う以上に信頼している証の言葉だったが、今もまた口に出さずに態度で示せば、しっかりとそれを受け取ったリオンの滲み出る歓喜がじわりと閉ざされた視界にも伝わってきて、そっと目を開けば想像通りの顔に見つめられていた。
「────リーオ」
「……オーヴェ、好き」
再びの衒うことも過分な装飾もない大切な思いを告げられてもう一度目を閉じたウーヴェは、古代から人類が使い続けてきた言葉に敬意を払うような気持ちで本心を舌に載せる。
「うん」
短い言葉で有りっ丈の思いを伝え、さっきとは全く違う優しさで顔を肩に宛がうリオンの頭に手を回して抱き寄せたウーヴェは、そろそろベッドに入ろうと誘って背中をぽんと叩くと、嬉しそうな吐息が一つ首筋に零され、それを合図に身体を起こしたリオンの腕に引っ張られて同じように起き上がり、いつものように互いの腰に腕を回しながらリビングの戸締まりを確認し、ベッドルームに向かう。
「あー、そうだっ。ベルトランにさ、もう絶対にクランプスの姿をしないでくれって言ってくれよ」
「そうだな」
リオンの身体に寄り添うように少しだけ首を傾げさせるウーヴェに本当かと疑いの声が投げ掛けられ、大丈夫だと思うが気になるのならば明日店に行こうと返し、パジャマに着替える為にクローゼットを開け放つ。
「……でも、マジで怖かった」
久しぶりにちびっちゃうかと思ったと眉尻を下げるリオンにただ苦笑したウーヴェは、パジャマを放り投げたのにすぐさま投げ返されて溜息を零し、自らはしっかりと着替えてベッドに潜り込むと、下着一枚のリオンが隣に転がり込んできてぴたりと背中に胸を押し当てて腹に腕を回してきた為、その手に手を重ねてサイドテーブルの明かりを仄かなものにする。
「お休み、リオン」
「……ん、おやすみ」
肩に顎を軽く載せて胸をぴたりと寄せながら欠伸をするリオンに肩越しに振り返ってお休みを告げると眠そうな声がお休みと返したため、つられるようにウーヴェも欠伸をする。
今日はクランプスの扮装をしたベルトランがやってきた為に大騒動になってしまい、何か激しく疲れを感じてしまったウーヴェは、背後から聞こえる規則正しい寝息に誘われて目を閉じるが、手を重ねているリオンの夢にどうかクランプスが出てきませんようにと胸の裡で祈りながら眠りに落ちるのだった。
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