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毛足の長い絨毯がフロアを覆っているホテルのラウンジのドアを開けたリオンは、奥まった席のゆったりとしたラウンドソファで足を組んでグラスを傾ける男の姿を発見し、タキシード姿のウェイターに合図をして彼に自分が来た事を伝えて貰うが、ウェイターが耳打ちすると同時にリオンを見て鷹揚に頷いた為、リオンも彼の横へと向かう。
「おう、よく来たな」
レオポルドと向かい合う形で置かれているラウンドソファに腰を下ろしてウェイターを手招きすると、ジンジャーエールを注文して軽く驚かせてしまう。
「飲まないのか?」
「・・・仕事の話は?」
「こんな場所で仕事の話などするか」
リオンの恐る恐るの問いかけに胸を張って鼻息荒く言い放ったレオポルドは、通りがかったウェイターにバーボンのボトルと数種類のチーズもオーダーする。
「なんだ・・・仕事の話じゃないのか。ならどうしたんです?」
こちらはずっとあなたが言うところの法的な手段で訴えられるのを待っているんですがと、ソファの肘置きに寄りかかりながら足を組んで目を光らせたリオンだが、そんな面倒なことはバーンズに一任していると言い放たれて絶句する。
「不安で不安で胃に穴が開きそうなんですがー」
「お前がそんな肝の小さな男か」
「・・・へへ」
人を舐めるなと笑うレオポルドに無言で肩を竦めて降参を伝えたリオンも同じようにチーズを手に取り、オーヴェがこの間買ってきてくれたチーズと同じ味だと目を輝かせる。
「そうなのか」
「俺が食いたいって言えばどれだけ文句を言っても買ってくれます」
食後のデザートのバニラアイスも正方形の様々な味のあるチョコレートもそうだし、一人の夕食ならば火を使わない料理にするはずなのに、俺が帰ってくるときは必ず肉料理を用意してくれますと、愛されている事を言葉の中に滲ませて頷けば、向かいのソファで恋人の父が面白くなさそうに鼻息でふんと一言言い放つ。
「一緒に住んでいるのか?」
何気ない言葉の端々に込められている親としての思いを少しだけ感じ取りながら目を伏せ、一緒に住んでいる訳じゃないと肩を竦めると、どういうことだと先を促されて苦笑する。
「仕事が忙しくて帰れないとき以外はだいたいオーヴェの家に帰ってます」
家に行くではなく帰ると告げたときに胸の奥でじわりと感情が込み上げてくるが、それを押し殺していつもの笑みを浮かべると、だから一緒に住んでいるんだろうと念を押されて本当はそうしたいんですけどと思わず本音を零してしまう。
「でもまだ俺の家はボロいアパートにありますよ」
古くて隣の部屋のテレビの音すら聞こえてくる狭い家だが、それでも自分の家だと微かに胸を張ったリオンにレオポルドは特に何も言わなかったが、足を組み替えるついでに少しだけ話題を切り替えてくる。
「今まで誰かと一緒に暮らしたいと思った事はあるのか?」
今度は明らかに息子を思う父の顔を見せたためにリオンの胸が微かに疼くが、今まで考えた相手はいないと自嘲する。
「漠然と誰かと一緒に暮らせればと思った事はありましたが、現実問題として考えたのはオーヴェが初めてです」
「どうしてそう思うようになった?しかもウーヴェは男だぞ」
自分の人生経験からすればお前のような男には女の影が見え隠れするはずだが、どうして男である息子と一緒に暮らしたいと思うようになったんだと問われ、何故か分からないとグラスを傾けて氷の音を静かに響かせる。
「わからんのか?」
「じゃあ逆に聞きますけど、親父が奥さんと出会ったときはどうだったんですか?」
恐らく二人が出会ったのは戦後のあの時代だっただろうが、どこでどうして出会い結婚しようと思ったとグラスを持つ指を一本だけ立ててレオポルドを指し示せば、俺の事はどうでも良いと嘯かれて不満に口を尖らせる。
「俺にだけ話させるつもりですか?」
「・・・リッドと出会ったのはバカンスにあいつが来ていた避暑地だったな」
彼方は避暑だが此方は汗水を流しながら働いていたと肩を竦めるが、もう何十年も昔を思い浮かべて目を伏せ、リオンの空になったグラスに気付いてウェイターに新しいグラスと氷を持って来させる。
「バーボンはどうだ」
「ロックで」
「帰りはタクシーか」
「いえ。終われば電話をしろと言ってくれました」
誰がその言葉を告げたのかを言わなくともレオポルドが察したらしく、もう一度ふんと言い放ってグラスにバーボンを注ぐ。
「お前、俺の息子にタクシードライバーをさせるつもりなのか?」
「や、オーヴェが電話をしろって言ってくれたんですって!」
じろりと睨まれて慌てたリオンが顔の前で手を振るが、グラスを受け取って縁を合わせるように掲げると、ゆっくりと喉を灼く琥珀の液体を楽しむように飲み、チーズもその味を楽しむように食べ始める。
「あー、そうだ。オーヴェのお母さんって何処かのロイヤルファミリーって聞いたんですけど、それ、本当ですか」
「また古い話を引っ張り出してきたな、お前」
「や、同僚に言われて気になってしまって」
じろりと睨まれあははと誤魔化したリオンにレオポルドが微苦笑を交えながらそうだと答えるが、ロイヤルファミリーと言っても系図の端だと答えてグラスを揺らし、氷が琥珀の海で泳ぐ様に目を細める。
「リッドの母親がまああまり大っぴらには出来ない出自だが、不自由な暮らしをしないようにという配慮だけはされていた。結婚したときには非公式ではあったが祝いが届けられたぐらいだ」
「へぇ・・・」
非公式とはいえ祝いが届けられる関係だと教えられるが、その結婚式以降の付き合いは一切途絶えている事も教えられて軽く目を瞠ると、いつまでも妻の実家の援助があるから大きくなったと言われるのも面白くないとレオポルドの碧の瞳が強く煌めく。
今や世界的にも有名企業となった会社を己の才覚と腕一本で作り上げた自負を双眸に湛え、それだけは誰に何を言われたとしても恥じることがないと教える男の顔にリオンは強く惹き付けられる。
その横顔に見え隠れする表情は恋人が時折見せる厳しい顔と似通っていて、例えどれ程憎んでいようがこの強い男の血があの穏やかな恋人にもしっかりと受け継がれている事をも教えてくれていた。
己の恋人の中にある毅然とした態度や強い心の源を見た気がしたリオンは、自分の親はどうなんだろうと不意に思いを巡らせてしまい、それを打ち消すようにグラスを傾けて一気にバーボンを飲み干す。
生後間もない、一人では決して生きていくことの出来ない乳児を教会に捨てていった親なのだ、リオンにしてみれば到底許せるはずも認められる筈もなく、再びレオポルドのような男が親ならばとの思いが胸の奥から水の泡のように浮かび上がってきては弾けていく。
「どうした」
「・・・・・・本当に、上手くいかないものだなーって・・・」
親父のような男が父ならばと思う俺がいる一方、実の息子であるウーヴェは親父を憎んでいると寂しそうに笑みを浮かべ、レオポルドのグラスと自らのそれにバーボンを注ぎ目の高さに掲げて琥珀色の世界で沈黙するレオポルドをグラス越しに見つめる。
「どうして・・・オーヴェはあんなにも親父を憎んでいるんだ・・・?」
その呟きは憎まれている本人に聞かせる為のものと言うよりは、週末のあの夜にウーヴェが発した冷たい響きを持った言葉の真相を知りたいという思いから発せられたものだったが、レオポルドがグラスを傾けたのをぼんやりと見つめ、生後間もない赤ちゃんを母親から奪い取っただけで死ななきゃならないのかとも呟くと、この時初めてレオポルドの顔色が微かに変わり、グラスを持つ手が小刻みに震え始める。
「・・・親父?」
「・・・ウーヴェがそう言っていたのか?」
「え?」
その声が今まで聞いたことがないほどの弱さを滲ませているようで、咄嗟に言葉を返すことが出来なかったリオンの前、レオポルドが震える呼気を吐き出して膝頭に拳を押しつける。
「・・・そう言われても仕方がないのは分かっているが、まだ無理か」
ぼそぼそと口の中でだけ呟かれる言葉を聞き取ろうとリオンが意識を集中させるが、次いで聞こえてきたのは、心の裡の葛藤を感じさせない突き抜けたような溜息だけだった。
「親父?」
「・・・リオン、確かにお前が言うように世の中は上手くいかないものだな」
名実共に成功している男の言葉にしては覇気のない口調にリオンが目を瞠り、親父でもそう思うのかと素直に呟けばじろりと怖い目で睨まれてしまう。
「当たり前だろうが。上手く行っていれば今頃俺は孫と一緒に毎日公園の散歩をしている」
だが現実を見れば思う通りになっていない事は一目瞭然だと憮然と呟くレオポルドにリオンが小さく吹き出してしまい、何がおかしいと睨まれて更に笑ってしまう。
「親父が赤ちゃんと一緒に散歩・・・ベビーカーを押して、ですか?」
「当たり前だろうが。マイバッハで散歩になんぞ行けるか」
年端もいかない子どもをマイバッハに乗せて好きなものを買い与えていれば、その子が成長したときにはどんな人間になっているか火を見るよりも明らかだと苦い顔をするレオポルドに、そんな風にしてきっとウーヴェも育てられてきたのだろうと安易に想像できたリオンは、じゃああの家はやはりウーヴェが自分で買ったのかと呟き、レオポルドが太い腕を組んで仰々しく頷くことで返事を貰う。
「あの家はそもそもウーヴェの兄が興味を持った家だった」
「お兄さん?ああ、バルツァーの社長?」
「そうだ。あいつがそろそろ家を買うと言い出したから探していたら、知り合いが良い物件があると教えてくれた」
知り合いの紹介でアパートの建築予定地を訪れ、この環境ならば長男であり当時社長になったばかりのギュンターにも相応しいだろうと購入を決めたのだが、後日イングリッドが悲しそうに告げた言葉から長子ではなく末子の為にあの家を買うことになったと教えられ、リオンの口がぽかんと開いてしまう。
あの広い家の購入をあっさりと決めただけではなく、長子から末子へといとも容易く譲り渡すそのレオポルドの心が読みとれないどころか、本来ならば自分が住むはずだった家を弟に譲り渡すことになった兄は不満を覚えなかったのかと、呆れるべきか感心するべきか悩みつつ問い掛けると、言いだしたのはギュンターだと返されてしまう。
「ウーヴェが開業することが決定し、屋敷だと通勤に不便だという理由で家を探している事をリッドから教えられた」
「・・・・・・あ」
息子が開業すると言う事実を直接知らされる事はなく、妻を経由して教えられた父の寂しさを少しだけ感じ取ったリオンだが、その思いを口にする間もなくレオポルドが肩を竦め、開業祝いだと称してイングリッドがウーヴェに与えたように見せかけたと淡々と告げた為、憎んでいる父が買い与えたとなれば断固として拒否する恋人の姿が容易に想像できてしまって苦笑する。
「・・・じゃああの家は結局親父が買い与えたもの、なんですか?」
自分とは違う恋人の実家の経済力を目の当たりにさせられた事でリオン自身意識していない冷たさが声に滲んでしまうが、レオポルドにお前は自分の恋人を信じることも出来ないのかと、厳しい真冬に吹き付ける強い北風を連想する声で問われて口を閉ざす。
「お前がどんな風にあいつから話を聞いているのかは知らないが、あの家の購入代金のほぼ全額がリッドの口座に後日振り込まれていた。・・・俺たちからは1セントすら貰いたくはない、そう思っていたんだろうな」
「・・・支払えるだけの金を持ってたって事、ですよね」
「ウーヴェの祖母が死んだときに纏まった額の金がリッドの手元に残されたが、それをそのままウーヴェに譲り渡した」
「遺産を丸ごとオーヴェに?」
「ああ」
「お兄さんやアリーセがいるのに全部をオーヴェに渡したんですか?」
「そう言っているだろう」
リオンの問い掛けにレオポルドが苛立ちを隠さない声で言い放ち、何が言いたいんだとじろりと睨まれるが、話の中から感じ取る思いを言葉にするために脳味噌をフル活用させていたリオンはその強い眼光にも気付かず、足の間で組んだ親指をくるくると回転させ始める。
「・・・家にしても遺産にしても・・・どうして全部がオーヴェに行くんだ・・・?」
男女それぞれいる子どもだが、何故長男や長女を素通りして末子のウーヴェに総て相続されるんだと刑事でなくても疑問に感じることを口に出し、ぼんやりとレオポルドの顔を見つめるが、その時閃いたのはやはりウーヴェを今のウーヴェたらしめている過去の忌まわしい事件だった。
あの事件を境に家族の関係が大きく変わった事は教えられている為に理解しているが、その変化がこの話の中にも現れているのではないかと思い、事件があったから総てがオーヴェに行くようになったのかと問い掛けて沈黙を返される。
「総てがオーヴェに集中している気がするんです。お兄さんとかアリーセは文句を言わないんですか?」
例えどれ程仲の良い家族であっても金銭が絡めばあっという間に良好な関係が崩壊する場面を幾度となく見てきたリオンにしてみれば、人間の本性が否が応でも剥き出しになる金が絡んだときに一悶着も何も起きずに順風満帆に総てがウーヴェへと受け渡された感じを抱かせるその言葉に疑問を感じずにはいられなかった。
「・・・俺たちが過保護になっている、ただそれだけだろう」
「親が過保護なのは分かる気がします。ただ、アリーセも随分と過保護でした。いや、彼女は過保護というよりは・・・子ども扱いしている気がしました」
それほどまでにウーヴェは一人では立っていられない、ふらふらとしている感じがあるのかと、あの時も疑問に感じたことを口にすればレオポルドの唇が自嘲に歪む。
「・・・あの事件の影響が今でもある、それは認める」
「やっぱり」
「・・・お前は10歳の頃と言えばどんな事をしていた?」
「へ?そりゃあ・・・まあ・・・」
色々とここで言えることも言えないこともしていたと、急に矛先が変わって問い掛けられてしどろもどろになったリオンにレオポルドが目を細め、警察の世話にでもなっていたかと問われて溜息一つでそれを認める。
「マザーには迷惑ばかり掛けてました」
「・・・あの子は家族に対しても友人に対しても迷惑を掛ける子ではなかったな。せいぜい我が儘を言って泣いてベルトランを困らせていたぐらいだ」
「我が儘を言って自分が泣くって・・・オーヴェ、今と変わってないじゃん」
リオンのその呆れたような言葉から、自分の息子と今一緒に酒を飲んでいる青年がどんな風に時を過ごしているのかを感じ取ったレオポルドが目を細めてさり気なさを装って問い掛けると、この間も自分が酒を飲みたいばかりにアイスを食うと言うから、酒が入っていないアイスを食えと言ったらそれはそれは恐ろしい顔で睨まれ、その上今にも泣きそうな顔で少しぐらい飲ませてくれても良いだろうと迫られてドキドキしたと答えたリオンに今度はレオポルドが呆気に取られてしまう。
「飲ませてやらないのか?」
「そうは言いますけどねー。メシ食ってる時にちゃーんと赤ワインのフルボトルを開けてるんだって」
それなのに食後のデザートの時はまた違う酒が飲みたいとか言って、冷やしておいたラム酒をアイスにぶっかけようとするんだからとリオンがぶつぶつと文句を垂れると、呆気に取られていたレオポルドの肩が微かに震えだし、親父と呼びかけた瞬間、周囲で静かに酒を飲んでいた人たちが飛び上がるほどの大声で笑い出す。
「お、親父・・・!?」
「そうかそうか・・・!ウーヴェがな・・・そうか・・・」
突然笑い出したレオポルドにリオンが周囲の視線を一身に浴びて身体を小さくするが、当の本人は一切気にも掛けずに気が済むまで笑い続け、目尻に浮かんだ涙を拳で軽く拭ってもまだ肩を揺らし続けていた。
「笑い事じゃねぇっての」
宥め賺せてもダメだし、怒っても逆に怒り返すために渋々許しを与えたが、ショットグラス一杯だけだと言った途端、綺麗すぎて直視できない程の輝かしい笑顔でリーオと呼ばれたと肩を落とすリオンにレオポルドが心底おかしいのかそれとも楽しいのか、肘置きに手を付いて額を押さえながら肩を揺らし続ける。
「だーかーら、親父、笑い事じゃないって・・・!」
「・・・おぅ、そうだな」
リオンの憤慨の声に笑い混じりに手を挙げて許せとレオポルドが言い、目元をそっと拭って深呼吸をした事にふて腐れていたリオンは気付かなかったが、当然ながらその時目にした涙は笑いすぎた結果のものだと思いこんでいたため、レオポルドの心の動きまでは感じ取ることは出来なかった。
「許せ、リオン」
「・・・ったく、あの酒好きは誰に似たんだ?」
「ははは。俺だろうな」
「見た目は親父とは全然違うのになぁ・・・」
リオンの言葉にレオポルドが苦笑し、ウーヴェは俺よりも兄であるギュンターに良く似ていると苦笑を深め、通り掛かったウェイターにチェイサーと別の種類のバーボンを持ってきてくれと告げてリオンに向き直る。
「お兄さんに似てるんですか?」
「ああ。血は争えないと思ったな」
「へ?」
「・・・ギュンターもアリーセもどちらかと言えば外見はリッドに似ているな」
「そう、ですね・・・アリーセは特に娘だから母親に良く似ているって感じましたね」
先程から話題に上っている長男については一度会ったきりなのであまり覚えていないが、ウーヴェは両親よりも兄に似ているのかと呟き、そんなこともあるのかと感心したように声を挙げる。
「さっきの話、ですけど」
「何だ」
「・・・生まれて間もない子どもを親から引き離したってオーヴェが言ってましたけど・・・」
もしかしてオーヴェ自身のことなのかと問い掛け、レオポルドの表情を喪失させることに成功する。
「どうしてそう思う」
「・・・んー、あの言葉の後にオーヴェが、どうしてハシムは死ななければならなかった、一体何人の人が死んだんだと言ったんです」
「・・・・・・・・・」
「その言葉が出てくると言うことは、親父の存在が誘拐事件に直接なり間接なりであっても関わっている。いや、オーヴェは親父が過去にした何かが事件を誘発させた、その過去の何かが、生まれて間もない子どもを奪い取った事だと思っているんじゃないのかって」
まだまだ情報が少ないために予想を繋ぎ合わせた不格好なものだが、しっくりと収まるのがこの考えだったと苦笑し、真実を知りたいと思うがなかなかウーヴェが教えてくれない寂しさを隠さない顔で呟けば、レオポルドが苦いものを飲み下すようにグラスを傾けて水を飲み、次いで封を切ったばかりのバーボンをグラスに注ぐ。
「真実、か」
「事件の話になるとどうしてもオーヴェを苦しめてしまう。だから自分から話して欲しいと思ってるけど・・・」
どうもなかなか思うようにいかないと肩を竦めたリオンは、だから親父から事件の一端でも聞き出そうと思っていた事を告白すると、何も言わずにただ苦笑した彼がグラスを揺らし、真実とぽつりと呟く。
「俺が聞いたのは、事件でハシムを含めた何人もの人が死んで、事件の後自分たち家族の関係ががらりと変化をしたという事だけです」
だから何故ウーヴェが誘拐されたのかも、何故大人の人質が何人もいたにも関わらずに誰一人として逃げ出して助けを求めようとしなかったのかも知らされていないと再度肩を竦め、オーヴェは事件の核となる事をまだ教えてくれていないと、さすがにこの時ばかりはリオンの職を彷彿とさせる顔で呟いて組んだ親指をくるりと回転させると、そんなに信用がないのかなと悲しそうに顔を歪ませる。
「・・・安心しろ、リオン」
「何がです?」
「ウーヴェが事件の話をしたのはベルトラン以外ではお前だけだ」
20余年が経過しているにもかかわらずに未だに家族の上に重く苦しく立ちこめる影があるが、その影を生み出した事件についてウーヴェが自ら語ったのは医者を除けば幼馴染みのオーナーシェフとお前だけだと、リオンの胸に染み入るような声で告げたレオポルドは、何かを躊躇うように視線を二度ほど左右に彷徨わせるが、意を決したのかリオンを真正面から見つめて口を開く。
「今の俺が言えるのはこれだけだ」
その言葉から自然とリオンの背筋が伸びて話を聞き入れる姿勢になった事に気付いたレオポルドは、内心でその変化に感心しつつ今まで自ら語ることの無かったある事実を口にする。
「・・・ウーヴェは・・・あの子は俺たちにとっては特別な子どもだ」
「それは・・・」
レオポルドとイングリッドだけではなく、きっともう一人の息子も娘も皆が皆末っ子であるウーヴェに対し、ある意味過剰とも言える愛情を注いでいる事は分かっているとリオンが拳を握って腿に押し当てるが、レオポルドの碧の目を覗き込んだとき、特別な子どもに込められている思いがただ過保護を示しているものとは思えないことに気付いて口を閉ざす。
「ウーヴェが家に来てからだ、家族が今のように仲良くなったのは」
「え・・・?」
「あの子が来るまで俺たちの家は崩壊寸前だった」
父親であるレオポルドは軌道に乗り始めた会社の経営が面白かった為に夜毎仕事関係のパーティだ何だのと飛び回って帰宅することも殆どなく、そんな夫に妻も愛想を尽かしていたのか、綺麗な顔を仮面のように無表情なものへと変化をさせ、思春期真っ只中の二人の子どもの世話をロクにすることもせずに家人と毎日オペラ鑑賞に出かけたり、ショッピングに出掛けたりと家を空けることが多かった。
そんな両親の姿を見て育った子ども達は最も多感な時期だった為、レオポルドが気付いたときには取り返しのつかない程家族は崩壊していたのだ。
思い出すだけで痛みが込み上げてくる過去を淡々と語り、そんな崩壊寸前の家族の元にやって来たのがウーヴェだったと語ったとき、リオンが初めて目にするような優しい暖かな光を目に浮かべてレオポルドが口元に笑みを浮かべる。
「この子のためなら何でもしよう、初めてそう思ったな」
遠い昔をまるで昨日のことのように思い出しながら語る彼にリオンは何も言わずにただ耳を傾けているが、その脳味噌の中では見た目とは裏腹に、様々な言葉と場面が入り混じって聞かされる過去を映像化しようと目まぐるしく働いていた。
だが、自分たちがしてきた行為のツケが時を経て何の罪もないウーヴェに向かってしまったことだけは慚愧に堪えないと奥歯を噛み締められてリオンも拳を握る。
「事件の後でギュンターと主治医とで決めたことがあった」
「何を、ですか」
その先は聞かなくても分かっているが聞いておきたいとリオンが胸の奥で呟き、告げられる言葉を待っていると予想通りの言葉が流れ出す。
「あの子が誰かを憎んででも生きたいと思ってくれるのならば俺たちが憎まれよう。そう決めた」
「・・・憎しみは・・・強いですからね」
「その通りだ」
事件の渦中で喪った感情をまずは取り戻させた上で憎む相手を与えれば、生来が負けず嫌いのウーヴェの事だからきっと自分たちを憎んででも生きるだろうと話し合い、事実その通りになっている事を思い知り、リオンが軽く唇を噛み締める。
「・・・俺たちはただあの子に生きて欲しかっただけだ」
その為に憎まれるのならば本望だし、嫌われたとしてもどうと言うことはない。
自分の行為の結果が子供に向き、それを逃げることをせずに真正面から受け止め、今もまだ受け止め続けているレオポルドに何も言えず、ただリオンが項垂れるように顔を隠すが、そんな顔をするなと穏やかに笑われて勢いよく顔を上げる。
「家族以外でこの話をしたのはお前だけだ。だからそんな顔をするな、リオン」
ウーヴェがお前を信じているように、何故かは分からないがお前ならば信じられると伝えたレオポルドは、泣きそうな顔をしているリオンの金髪に大きな掌を載せていつかのようにぐしゃぐしゃに掻き乱すと今度は肩に手を乗せて目を細める。
「俺が今話したのは・・・俺にとっての真実だ」
ウーヴェにとっての真実はまた別の所にあるだろうと告げ、目を瞠るリオンに苦笑をしたレオポルドがラウンジの壁に掛けられている時計に目を向け、そろそろ帰らなければウーヴェが心配するかと笑みを切り替える。
「そろそろ帰るぞ、リオン」
「もう、ですか?」
一瞬にして表情を切り替えた二人が同時に時計を見、やれやれと溜息を零して二人の間にあるテーブルとその上のボトルを見て顔を見合わせる。
「支払いは当然お前だろう」
「げ!招待した親父が払うべきでしょうが!」
今日はお呼ばれだったから金を持ってきていないと、ジーンズの尻ポケットから取りだした薄っぺらい財布を見せながら半べそを掻くと、呆気に取られたレオポルドが再度フロア中に響き渡る大声で笑い出す。
「俺の大切な息子をタクシードライバーにするぐらいだったな、お前は」
「や、ちょ、だからそれは・・・っ!」
大声で人聞きの悪いことを言うなとリオンが慌てふためいてレオポルドの口に掌を押し当てると、じろりと恋人と良く似た目に睨まれてホールドアップをしてしまう。
「────冗談だ」
「親子揃って笑えねぇ冗談は禁止!!」
がるるるるると相手が誰であれ構わずにいつものように吼え始めたリオンにレオポルドが余裕の態度で悔しいのならばサッと出せるだけの金を持ち歩くようにしろと笑いかけ、リオンの肩をがっくりと落とさせてしまう。
「親父の意地悪!」
「ほほぅ、そんなことを言うのか。・・・もしお前がウーヴェと一緒に暮らしたいと言っても大反対してやるぞ」
「げ!!」
「俺が持つ権力をフル活用してお前達の同棲を反対してやろう」
「ちょ、ごめんなさいっ!もう言いませんっ!!」
思わず素直に謝るリオンにレオポルドが吹き出しながら手を挙げて会計を頼むと、ラウンジのカウンターの奥にいた責任者風の男性が足早にやって来て慇懃に一礼をする。
「バルツァー会長、今夜はありがとうございました」
「いつも美味い酒を飲ませてくれて感謝している。騒がしくしてしまったな」
支払金額に上乗せしたものを取り出すと、男性が差し出すトレイに載せて呆気に取られているリオンに首を傾げる。
「どうした」
「・・・何でもないです」
先日、スーツの修繕を依頼したブルックナーに言われた言葉を思い出して苦い思いをどうしても抱いてしまったリオンは、ラウンジを出るレオポルドの後に付き従うように出て行き、あの時から感じている疑問を口にする。
「・・・老舗のプライドって・・・やっぱりあるんですか」
「何だ、急に」
エレベーターに乗り込んだ二人だったが、リオンの疑問にレオポルドが唐突すぎて分からないと答え、スーツを作った店での出来事を簡単に話せば豪快に鼻先で笑われてしまう。
「店にも客を選ぶ権利はあるだろう。お前がその店の服を本当に着たいと思うのなら、堂々と似合うものを出してくれと言えばいい」
店に入るときに挙動不審な態度を取れば店の者も対等な扱いをしないだろうと言われ、そんなものなのかと上目遣いに見つめるが、背筋を伸ばせと張りのある声で命じられて条件反射の様に背筋を伸ばすと、腰の辺りを拳で一つ殴られる。
「ぃてっ!」
「お前に似合っていると思うからウーヴェも店に連れて行ったんだろう。お前も男だろう、惚れた相手に恥を掻かせたままで良いのか?」
「─────!!」
リオン自身、彼女から受けた行為に腹を立ててあまり立派とは言えない態度を取っていたが、まさかそれが見方を変えればウーヴェに恥を掻かせていた事になるとは思いも寄らずに呆然と目を瞠ったリオンにレオポルドが見守る大人の顔で頷き、次に行くことがあれば一緒に行くウーヴェが二度と恥ずかしい思いをしないように心配りをしろとも告げて口ひげを指先で撫でる。
「ドレスコードだなんだとうるさく指定されることがあるが、あれはそもそもそんな恥ずかしい思いを客にさせないようにする為の心配りだ。お前も好きな相手にいつまでも好きでいて貰いたい、自慢に思って貰いたいのならば時と場合に応じた言動をすることも必要だ」
「・・・そう、ですね」
ブルックナーにも同じようなことを言われた事を思い出したリオンは、お前はお前のままでいればいいと願ってくれるウーヴェの気持ちがどれ程優しく暖かなものであったのかを察すると、この間一緒に選んだタキシードをウーヴェにお披露目したかったと心底悔やむように拳を握る。
「同じ失敗を繰り返さなければウーヴェも許してくれるだろう」
ただし、二度三度と繰り返せばどうなるか、もうお前には簡単に想像が付くだろうとにやりと笑われ、冷や汗を流したリオンが早くエレベーターが地上に着けと願うと、程なくして箱が止まって扉が開く。
夜も遅いホテルのロビーだったが、レオポルドが姿を見せるとフロントの中から年配の男性が足早に近寄り、ドアマンの横に立って最敬礼をする。
「また世話になる。その時はよろしく頼む」
「かしこまりました。またのお越しをお待ちしております」
「ああ、ありがとう」
その応対はただ見事としか言いようが無く、これが先程レオポルドが教えてくれた事だと気付き、今度二人であのスーツを作った店に出向く際にはここまで貫禄のある態度は見せられないが、せめてウーヴェが恥ずかしい思いをしないようにしようと背筋を伸ばすと、程なくしてタクシーがホテルのエントランス前に横付けされ、男性が先導してレオポルドを案内する。
「リオン、俺は先に帰るぞ」
「今日はありがとうございました。色々勉強になりました」
「そうか・・・ウーヴェと一緒に暮らすようになればすぐに教えろ」
「えー、どうしようかなー」
タクシーに乗り込んだレオポルドが窓から顔を突き出してリオンを手招きした為、ポケットに手を突っ込んで腰を曲げれば、前髪を軽く引っ張られてしまう。
「良い度胸だ。今後息子に会う事は許さん」
「ウソ、うそですうそ。ごめんなさい」
調子に乗りましたと反省し、本当に今日はありがとうございましたと一礼すると、レオポルドの目に人生の先輩がよちよち歩きの後輩を見守るように細められる。
「おお、そうだ。法的手段だがな・・・」
「・・・・・・何ですか」
「気が向けば訴えてやろう」
「んなー!何だそりゃ!?」
にやりと笑って窓を閉めるレオポルドに素直に中指を突き立てそうになったリオンだが、相手が誰であるかを思い出して辛うじて押し止めると、気をつけて帰ってくれと真剣な顔で告げて手を挙げる。
静かに走り去るクリーム色のタクシーを見送ったリオンは、事情を知りたいと思っているのか思っていないのかすら判断出来ない男性に軽く目礼し、尻ポケットから携帯を取りだして耳に宛がう。
自分の感情のままに動いた結果、愛する人に恥を掻かせる事になっていたなど予想も出来なかった己を恥じたリオンは、携帯の向こうから聞こえてくる穏やかな声に自然と目元を弛め、酒に染まった吐息を星空に向けて白く吐き出す。
「────ハロ、オーヴェ」
『ああ。もう終わったのか?』
「うん。今タクシーで帰った」
『・・・そうか』
この僅かな沈黙が酷く悲しくて胸が痛くなるが、本当に悲しくて辛いのは自分などではなく、20余年もの年月を堪えてきたレオポルドでありウーヴェであると気付き、小さく鼻を啜る。
『どうした?』
「何でもねぇ。スパイダーのタクシーをお願いしてもよろしいでしょうか、陛下?」
『・・・明日の食事に白ワインを飲んでも良いのなら、今すぐ迎えに行きましょうか』
「んー。俺も一杯飲んで良いか?」
『一口だけ』
「がーん」
そんな他愛もないやり取りを繰り広げながらもリオンの耳に携帯を通して伝わってくるのは、部屋を出て玄関のドアを開けてエレベーターに乗り込んでいる微かな物音だった。
「ホテルで待っていればいいか?」
『そうだな・・・ロビーで待たせて貰えそうか?』
「うん、それは大丈夫だと思う。・・・じゃあ待ってるから早く来てくれよな、ハニー」
『初乗り5ユーロと1.5キロごとに3ユーロ、往復特別運賃として2ユーロだ』
「ちょ、ごめっ!!」
スパイダーのドアが閉まる音が響き、なるべく早く行くから待っていろと言われてさすがに素直に頷いたリオンは、愛しい彼がキャレラホワイトのスパイダーでやってくるまでの間、幸せと痛みが綯い交ぜになった不思議な心持ちのまま早春の夜空を見上げているのだった。