あの夜、恋人が憎んでいる彼の実父と短いながらも有意義な時を過ごしたリオンは、迎えに来たウーヴェが軽く驚きを感じる程内面で変化を果たしていたようで、翌日から心なしか言動にもその兆しが現れるようになっていた。
それは朝目が覚めた後に交わすおはようのキスであったり、朝食を二人で食べた後のいつものありがとうの言葉の端々であったりしたが、確実にリオンの中で何かが変わり始めていたのだ。
その変化をいち早く感じ取っていたウーヴェだったが、その変化の元が己の父と恋人が酒を飲み交わした夜にあったとは思っていたものの、だからといってあの夜二人がどんな話をしたのかを問いかけることは出来ないでいた。
それ故、変化の正体を見極めることが出来ないで数日が経った時、リオンが穴が開いてしまったスーツをあの店に持って行ってブルックナーに修繕して貰いたいと言い出した為、ならば自分も春物のスカーフを探そうと頷き、午後の休診日を利用して店を訪れようと決めたのだった。
そんな、早く暖かくなったはずなのに不意に戻ってくる寒さについ愚痴をこぼしたくなる夕暮れ時、スパイダーから降り立ったウーヴェは、同じく助手席から降り立った後、無意味に服の胸元を手で払ったりジーンズの裾を気にしたりと忙しなく己の服装を見ては大丈夫かと確認するように見つめてくるリオンに苦笑し、大丈夫だから背筋を伸ばせと苦笑を深めつつ頷くと、マウンテンブーツの爪先に付着している汚れを指で拭い取ってやり、いつも仕事を頑張っている勲章だが今はそれは隠しておこうと片目を閉じる。
「オーヴェ・・・」
そんな風に気遣ってくれる恋人の優しさが本当に嬉しくて、トランクから取りだしたスーツを手に店員が待ってくれているガラスのドアを潜って落ち着いた雰囲気の店内に足を踏み入れるが、以前とは違って不必要に店内を見回すこともなく、ごく自然体な足取りでウーヴェの少し後ろを歩いて行く。
「いらっしゃいませ、ウーヴェ様、リオン様」
「いつまでこの寒さが続くんだろうな」
「本当に。リオン様、お荷物をどうぞ」
ハウプトマンが鄭重にウーヴェとリオンに挨拶をし、ウーヴェが慣れたように頷いて他愛もない話を始めると、初老の紳士もそつなくそれに答えながら店内にいた女性に合図を送る。
それを受けたのは件の彼女だった為、さすがに一瞬だけリオンが無意識に拳を握るが、丁寧に一礼した彼女にいつもの笑みを浮かべて小さく頷き、このスーツの修繕を頼みたいと苦笑する。
「・・・ブルックナーをお呼び致します」
「うん。お願いします」
彼女の言葉にリオンが先日までの思いを総て昇華したような顔で頷き、彼を呼んで欲しいと丁寧にお願いをする横では、ウーヴェが眼鏡の下でターコイズを限界まで見開くほど驚いていた。
「・・・んだよ、そんなに驚かなくても良いだろ、オーヴェ」
「あ、ああ、いや、悪い」
少し拗ねた風な視線で見つめられてしどろもどろになりながらも謝ったウーヴェに、リオンが表情を切り替えて許すよと言ったために安堵し、ハウプトマンに新しいスカーフが欲しいと告げて店内の奥まった場所にあるソファに案内される。
「な、オーヴェ、俺がスカーフを巻いたら変かな?」
「そうだな・・・変と言うよりは・・・」
職場の誰かに面白半分で首を絞められそうだなと、口元に拳を宛って笑ったウーヴェにリオンが何だそれと憤慨するが、それはあくまでも言葉だけのもので表情ではウーヴェの言葉を肯定していた。
「なぁんかさ、ボスが怒ったら端っこを引っ張りそうだよな」
「・・・そんなことを言ってると何処かから耳に入って怒られるぞ」
「大丈夫だって。だいたいクランプスがこの店に来るとは思えねぇもん」
だからどれだけ悪口雑言を吐いたとしても問題はないと胸を張るリオンをちらりと見たウーヴェは、彼がこの店に入るのを何度か見かけたことがあるぞと呟き、リオンの顔色を一瞬して変化させる。
「げ!クランプスがこの店に来るのかよ!?」
クランプスなんだからオシャレなんかしなくても、自前の毛皮に腰にカウベルをぶら下げていればいいのにと言い放ってウーヴェを吹き出させ、ハウプトマンの目を丸くさせてしまう。
「・・・クランプス、でございますか?」
「そうそう。俺のボスがクランプスに似てるんです」
せいぜいが腰蓑に毛皮のベストを着るだけだから、クランプスがオシャレをする必要などないと思うんだけどなぁと、ソファの背もたれに腕を回してにやりと笑ったリオンにハウプトマンも小さく吹き出してしまい、ウーヴェがその様子に軽く驚いて彼を見る。
「失礼致しました。・・・・・・こちらが新作のスカーフでございます。今日はどのようなものにいたしますか?」
ハウプトマンの言葉にウーヴェが笑顔で頷いてリオンを見るとテーブルに並べられたスカーフの見本一覧を興味深げにリオンが覗き込み、春先に相応しい色合いが綺麗なこれが良いと楽しげに声を出す。
「いらっしゃい、ウーヴェ。良く来たわね、リオン」
あからさまにウーヴェとリオンに対して調子を変える声に呼びかけられて二人が顔を上げると、リオンのスーツを受け取ったブルックナーが足音高く歩み寄ってくるところだった。
「忙しいとは思うが、修繕を頼みたい」
「ええ。これから拝見するわ」
「そのスーツ、本当に大切にしたいから、穴が分からないほど綺麗にして欲しい!」
「・・・分かったわ」
先日の言葉がリオンの中でどのような化学変化を起こしたのかを見極めようと目を細める彼だが、自分にスーツを差し出した彼女の様子を思い出して良い方へと変化をした事を察すると、冗談のように濃い化粧を施した顔に笑みを浮かべて大きく頷く。
「今日明日に着ることはないでしょうね?」
「今のところスーツを着る予定はないから大丈夫」
「分かったわ。穴があったことなど分からないようにしておくわ」
プロの顔で頷く彼にリオンが頼みますと丁寧に礼を言った為、ブルックナーの顔が驚愕に彩られるが、先程ウーヴェに見せたように拗ねた顔などは一切見せず、今日はオーヴェのスカーフを選びに来たと晴れやかな笑みを見せ、自らが選んだスカーフがウーヴェに似合っているかどうかを確かめるようにブルックナーに指し示す。
「そうね・・・ウーヴェなら選ばない色合いね。でも綺麗だわ」
春の草花が芽吹く頃、世界は灰色から解き放たれて緑や黄色などの色に溢れ出すが、それを先取りするような淡いスカーフに目を細め、似合っているわねと太鼓判を押すように頷くと、他の店員に声を掛けられたために断りを入れてブルックナーが踵を返す。
「似合ってるってさ、オーヴェ」
「・・・・・・今これは店には?」
「こちらにございます」
ウーヴェの言葉に素早く反応をしたのは、背後で控えるように立っていたアイヒマンで、リオンが勢いよく立ち上がると同時に彼女の前に向かい、商品を見せて欲しいと申し出る。
アイヒマンがリオンを案内する背中をやや呆然と見送ったウーヴェにハウプトマンが先日の一件で彼女も勉強をしたようですと穏やかに告げ、横目で彼を見たウーヴェが思い出したことがあると呟いて彼に向き直り、背筋を伸ばして先日は言い過ぎたことを詫びたいと真正面から告げる。
あの日ブルックナーがリオンに告げた言葉は感情的になった結果、相手の立場を慮る事を忘失していたウーヴェに対しての言葉でもあり、相手の立場を思いやれと教えてくれていた事に気付き、彼女に告げた言葉を取り消したいと申し出る。
「彼女は教わったとおりに接客しているだけであり、あのような事をあの場で言う必要はなかった。・・・許して貰えるだろうか」
彼女が、ひいては彼女を雇って教育したであろうあなたは許してくれるだろうかと、真摯な言葉で告げたウーヴェにハウプトマンが逆に頭を下げる。
「わたくしどもも、大変勉強になりました」
穏やかに笑みを浮かべるハウプトマンにウーヴェも目を細め、我が儘な事は十分承知しているが、もしもリオンが一人でここを訪れることがあればよろしく頼むと告げ、彼は私にとって大切な人だと付け加えると同時にハウプトマンが頷くことで話が終わりを迎え、苦笑したウーヴェの視界の先では緊張しつつも穏やかに言葉を交わす二人の背中が見えていて、本当にどんな心境の変化が恋人にあったのかを聞き出そうと決めると、そのリオンがくるりと振り返り、ウーヴェを手招きする。
「オーヴェ、ちょっと来いよ」
「ああ」
声に応じてリオンの傍に向かったウーヴェは、彼女が差し出すスカーフを受け取り自ら慣れた手付きで巻き付けようとするが、リオンがそれを押し止めたために首を傾げて恋人を見る。
「似合ってるかな?」
スカーフをウーヴェの首に巻き、自分がネクタイをするよりも不器用な手付きで何とかウーヴェの首に春を思わせる色彩を纏わせると満足そうに溜息を一つ零す。
「うん、似合ってる。・・・変じゃない、ですよね、フラウ・アイヒマン?」
「え?は、はい。もちろん、お似合いです」
「だってさ、オーヴェ」
彼女への言葉に感じる丁寧さと自分へのそれに混ざる情にただ呆然とリオンを見つめたウーヴェは、目を細めたリオンに小さく頷かれて我に返り、これを下さいとスカーフを手に取る。
「ありがとうございます」
「・・・こちらの色違いのものも欲しい」
春を思わせる淡い緑色のスカーフと同じデザインの色違いが欲しいと現物を手に取り、春よりも真夏を想像させる黄色やオレンジのそれの二つを手渡すと、彼女が一礼をして立ち去っていく。
その後ろ姿を見送ったウーヴェがリオンにどういう心境の変化だと問い掛けるが、ナイショとふざけているような返事が返されて面白く無さそうに目を細める。
「そんな顔すんなよ、オーヴェ」
「・・・・・・うるさい」
「家に帰ったらちゃんと言うから、もう少しお預けな、ハニー」
「・・・・・・最近、あのブタの貯金箱にお金が貯まっていくな」
「げ!」
またハニーと口走ってしまった事を後悔する顔で短く叫んだリオンにウーヴェがようやく溜飲を下げたのか、ふふんと鼻先で笑って腕を組む。
「この間も特別料金とか言って2ユーロも貯金したくせに!意地悪オーヴェ!」
「何とでも。帰ったら1ユーロだからな」
「・・・・・・ブタさんの貯金箱なんか隠してやる!」
罰金を入れる為の貯金箱が物理的に無くなれば金を貯める場所がないだろうと胸を張る恋人に心底呆れたような顔で溜息を零したウーヴェは、彼女が商品をラッピングしたものを持って戻ってきた為に財布を出そうとするが、リオンがさり気ない動作でそれを制して彼女に何ごとかを囁きかける。
「・・・どうぞ、こちらへ」
「うん、ありがとう」
呆気に取られるウーヴェに片目を閉じ、真相はまた後でと笑ったリオンが彼女について店の奥へと向かうのを見るとさすがに面白くないのか、ハウプトマンが見守るように立っているソファに戻って足を組んで肩を竦める。
「今日はスカーフでよろしいですか?」
「そうだな・・・そろそろ春物の服も見たいな」
「ウーヴェ様のお好きなラインからも春物の新作が出ております。カタログをお届け致しましょうか」
「クリニックの方に届けてくれないかな」
「かしこまりました」
定期的に届けられるブランドのカタログだが、新たに届けてくれと告げてリオンが戻ってきた為に立ち上がると、それにあわせるようにハウプトマンも立ち上がり、アイヒマンがドアの前に静かに佇む。
「ありがとうございました」
「カタログを頼む」
「手配しておきます。リオン様もご覧下さい」
「うん、ありがとう」
彼の言葉にリオンも笑顔で頷いて手にした袋を少しだけ誇らしげに持ち直すと、アイヒマンが開けてくれるドアを潜って店の外に出る。
そんなリオンに感心すると同時に胸の奥でじわりと熱が生まれ、頭を振ることで熱を発散させたウーヴェは彼女に対していつもの笑みを浮かべて会釈をし、今後彼が一人でも店を訪れることがあればあなたが担当して下さいと告げて彼女の目を大きく見開かせる。
「これからもこの店に来ると思いますが、よろしく」
「・・・ありがとうございます。よろしくお願い致します」
早く来いよと手招きする恋人に一つ頷き、片目を閉じてよろしく、フラウ・アイヒマンと告げて手を挙げたウーヴェは、彼女の鄭重な一礼に送られて運転席に乗り込む。
ウーヴェが運転するスパイダーを、彼女は頭を下げたままの姿で見送るのだった。
助手席から聞こえてくる鼻歌から恋人が随分と浮かれている事を知り、一体何がそんなに嬉しいんだという言葉に、どんな心境の変化があったんだとの思いを混ぜ込んで問い掛けると、ぴたりと鼻歌が止まって行き先の変更をお伝えしますと、まるで電車かバスの行き先案内をする人のように高い声が言い放ち、郊外にある公園目指して出発と叫ばれる。
「リオン?」
「運転手さん、お願いしまーす」
「・・・・・・分かった」
ウーヴェが問い掛けたことにこんな風に返す所を見ると現時点ではウーヴェの問いに答えるつもりはないようで、溜息をついて自宅へ向かっていたスパイダーの進行方向を変更したウーヴェは、目的地である公園が見えてくるまで特に口を開くことはなく、またリオンもそれにあわせてかそれとも別の思惑があってか、沈黙したまますっかり闇色に染まった景色に目を細めていた。
「・・・・・・な、オーヴェ」
「何だ?」
ウーヴェに問われることはイヤなくせに自分から問い掛けるのは良いのか、幾つかの信号を通り過ぎて市街から郊外へと帰宅する車の流れに乗って走らせていると、ぽつりとリオンが名を呼んだ為に前を向いたままどうしたと返したウーヴェは、俺にもあったんだなぁと暢気な自嘲が返されて苦笑する。
「どうしたんだ?」
「うん。・・・俺にもさ、プライドってのがあったんだなーって思った」
「・・・誰にでもあるだろう?」
唐突な言葉の真意を探ろうとするウーヴェにリオンが目を細め、俺はプライドなど無いと思っていたと自嘲すると、まだ外は寒いにもかかわらずに窓を開けた為に車内に冷たい空気が流れ込む。
突然の気温の低下にウーヴェが身体を震わせてしまい、それに気付いたリオンが慌てて窓を閉めてシフトレバーに載せられている手に手を重ねると、詫びる代わりにきゅっとその手を握りしめる。
「本当にどうしたんだ?」
「・・・うん。プライドを守るためにはさ、金って必要なんだなぁって思った」
「?」
全く意味が分からないとウーヴェの形の良い眉が寄せられた時、車は郊外にある公園の入口へと差し掛かっていて、人の気配もあまり感じられない公園内へと車を乗り入れていく。
駐車場に指定されている場所にスパイダーを止めて降り立ったウーヴェは、リオンが同じように降り立った後、直ぐさまウーヴェの手を取った為に軽く驚くが、周囲に人の気配がないことを再認識するとその手を握り返してつられて歩き出す。
「なあ、リーオ。教えてくれ」
「うん」
「何かあったのか?」
先日、父とホテルで会った夜から何かが変わった気がすると、ようやく口にすることの出来た疑問を投げ掛ければ、リオンがそれを受け止めたことを教えるように小さな星が瞬きだした空を見上げて目を細め、目の前の斜面を登り切ると足を止めてウーヴェに向き直る。
「親父とホテルで飲んだ時、プライドを守りたいのなら必要なものはすぐに出せるようにしておけって笑われた」
「・・・そう、なのか・・・?」
「うん」
あの夜、随分とご機嫌な様子で乗り込んだリオンを出迎えたウーヴェは、父と一体どんな話をしたのかやどんな様子だったなどとは問い掛ける事はせず、ただリオンが身振り手振りを交えて語る話を聞くだけにしていたのだが、そんなプライドの話をしていたのかと問い掛けると、木で出来たオブジェにリオンが腰掛けてウーヴェの腰に腕を回して引き寄せて自嘲と達観とが入り混じった不思議な笑みを浮かべ、恋人の白い髪を掻き上げてやる。
「俺のプライドというよりはさ、お前のプライドが傷付いたりお前が恥ずかしい思いをしたままでいる事は・・・我慢できなかった」
「俺は恥ずかしいとは・・・」
「うん。オーヴェならそう言うと思ってた。俺は俺のままでいろっていつも言ってくれる。でもそれは俺を思っての言葉であって、一歩外に出れば俺の行為は場を弁えないただのガキの行為だった」
先程の店で初めて自分を見た時に彼女が見せた顔も、クリニックにやって来たブルックナーが告げた手厳しい言葉も、全ては自分の態度がその場に相応しくないものだった為に彼らが態度と言葉で教えてくれたものだった。そしてレオポルドとホテルのラウンジで飲んだ時に目の当たりにした、自分と何処か似通った男の威厳のある態度やホテルの人に対する心配りなどを見、到底自分には敵わない相手だと思い知らされてただただ完敗の思いしか抱かなかったが、その時唐突に自分がどれ程ウーヴェに庇護されていたのかが分かったと、リオンの青い瞳が夜目にも鮮やかに光り、自慢する気持ちすら浮かべた唇が左右に弧を描く。
「いつも俺を護ってくれてありがとう、オーヴェ」
「リオン・・・」
「ホント、感謝してる。なのに俺はそんなオーヴェに恥を掻かせてしまってた。そんなの許せねぇもんな」
「だから、俺は別に恥を掻いたとは思っていないと言ってるだろう?」
「うん。でも俺が許せない。オーヴェの傍には相応しい人が立って欲しいってブルックナーも言ってたけど、あの日の俺の態度はどう考えてもお前に相応しくない、ただの拗ねたガキの態度だった」
だから今日、スーツの修繕を口実にあの店を訪れ、先日の筋違いな怒りから彼女に与えたであろう印象を塗り替えたかったと素直に告白し、自分なりに落ち着いた態度で彼女やブルックナーらと接したつもりだったと肩を竦めたリオンは、一瞬の後に表情を切り替えたかと思うと、大人の態度になってたかなと片目を閉じてウーヴェに同意を求める。
「・・・・・・どう、だろうな」
その表情の切り替えの早さがおかしくて小さく吹き出し、大人の態度だったかなと意地悪く返したウーヴェは、腹に頭をぐりぐりと押しつけられるくすぐったさに身を捩るが、リオンがこの野郎と笑って詰った為に笑い声を出して広い背中に寄り掛かるように上体を折る。
「リーオ」
「・・・うん」
「変わらないようで大きく変わる事が出来る。俺はそんなお前に惚れたし愛している」
「ダン、オーヴェ」
お前の愛に応えられるような男でありたいと、この時リオンの口から決意のあまり震える声が流れ出し、腹でそれを受け止めたウーヴェが抱え込むようにしていたくすんだ金髪に頬を軽く押し当て、今のお前も愛しているしきっとこれから先に何があろうとも、自分が思い描く男になったお前をも今以上に愛するだろうと断言し、冬の名残の星が瞬き始めた空を見上げる。
「だから・・・そうなるように二人で一緒にいよう」
「・・・オーヴェ、オーヴェ」
「うん・・・時々ケンカもして・・・でも、やっぱり一緒に笑っていよう」
楽しいことや嬉しいことだけを共有するのではなく、悲しいことも怒りでさえも共有し、それら総てを内包した思いを胸に二人で笑っていようと己の言葉を実践するように笑みを浮かべたウーヴェは、見上げてくるリオンの青い瞳に映る男の顔に目を細め、そっとその頭を抱きしめるが、実は密かに気になっていた事が今ならば問える気がして、小さく深呼吸をした後そっと囁く。
「リオン・・・父と・・・何の話をしたんだ?」
本当は少しでも早く聞き出したくて仕方がなかったが、自分が恐れている言葉が返される恐怖から口を閉ざし、別に知る必要はないと強がる己の心のままにいたが、不仲になった父と恋人がどんな風に酒を飲み交わして言葉を交わしたのかはやはり気になってしまい、こちらもまたようやく問いかけることが出来た安堵に自然と胸を撫で下ろす。
「うん?男のプライドの話」
「それはさっき聞いた」
「そっか」
ウーヴェの問いに顔を上げることなくくぐもった声で返事をしていたリオンだったが、何かを決めた様に一つ頷いた後、ウーヴェの身体にしっかりと腕を回して閉じ込めながら顔を上げて眩しそうに目を細める。
「────お前の後ろの話」
「・・・っ!!」
その一言がもたらす驚愕と感情を先読みしていたリオンは、身を竦めるウーヴェを抱きしめながら見上げ、事件の話は聞いていないと肩を竦めてウーヴェの顔に少しだけ血色を取り戻させる。
「オーヴェがお祖母ちゃんから受け継いだ遺産であの家を買った話とか、お母さんがロイヤルファミリーの一員だったとか・・・親父にはまた古い話を持ち出してきたって笑われた」
「・・・そ、うか」
「うん」
事件の話をしていない事にあからさまに安心したウーヴェを悲しそうに見上げたリオンは、ごめんと意味の分からない謝罪の言葉を告げた後、ウーヴェを己の腿に座らせて視線の高さを近づける。
「事件の話は聞いてないけど・・・」
事件の核心についてお前はまだ話をしてくれていない事があり、いつか話してくれるのを待っているが、そんなに自分は信頼出来ないのか寂しくなったと告白し、ウーヴェの肩をびくりと揺らせる。
「リオ・・・ン・・・っ」
「でも、無理に聞き出してオーヴェを泣かせるのはイヤだから、俺からは聞かない」
その代わり、いつか真実を話して欲しいと懇願するには優しい強さで告げて小刻みに上下するウーヴェの肩に額を押し当て、それを許してくれとも伝えると、感情の起伏を示す様に薄い胸が何度も忙しなく上下するが、リオンが焦れて顔を上げる直前に風に負けそうな小さなうんが耳に流れ込む。
「・・・いつ、か・・・総てを・・・話す、か、ら・・・」
だからどうかその時間をくれと、息苦しい中でも必死に思いを伝えてくるウーヴェに頷いたリオンは、葛藤しつつもリオンが望む結果を与えてくれる恋人の勇気と優しさを称えるように抱きしめ、白い髪に口を寄せる。
「親父がさ・・・オーヴェは自分たちにとって特別な子どもだって言ってた」
それを聞いて正直な話、羨ましいと思うと同時に俺は誰かの特別になれるのかと思った事を告げると、逆にウーヴェがリオンの背中を抱くように腕を回して顔を寄せる。
「リオン」
「・・・・・・うん」
「他の誰かにとって・・・例えマザー・カタリーナやシスター・ゾフィーらにとってお前が特別だったとしても・・・」
お前を幼い頃から見守り慈しんできた彼女達よりも、お前を愛し必要としている男がここにいる事を忘れないでくれとくすんだ金髪にキスをすると、背中に回っている腕に力が込められる。
「俺の太陽────どうかいつまでも俺の特別な人でいてくれ」
ウーヴェが胸に秘めている情の総てを注いだ言葉が耳から体内に、心の奥深くに静かに染み渡った事にきつく目を閉じたリオンは、背中を抱いてくれるウーヴェの温もりにただしがみつくように身を寄せる。
特別な子どもと恋人が呼ばれた事に対し、己の中で居場所を得てしまった黒い感情。それを認めたくなど無かったが、反面ではそんな風に特別扱いをしてくれる人がいる恋人が羨ましくて仕方がなかった。
リオンにとってのマザー・カタリーナやゾフィーは一人だが、彼女らにとってリオンは数多くいる孤児の一人にすぎないのだ。誰かにとって自分が特別な存在になる為には手っ取り早く恋人関係になる事だった為、リオンは常に一人きりにならないように無意識に行動していたが、たった今のウーヴェの告白から自分が恋人にとっての特別な存在だと教えられ、込み上げてくる何かを堪えるように歯を噛み締めた後、そっと顔を上げてウーヴェの鼻の頭に自らのそれを触れあわせて笑みを浮かべる。
「ダン、オーヴェ」
「リーオ」
お前だけが特別なんだと再度告げられて小さく頷き、ウーヴェの眼鏡を取ったリオンは、そのまま顔を寄せて感情に震える唇に触れるだけのキスをした後、見た者の胸が痛むような笑みを浮かべてウーヴェの名を呼ぶ。
「約束する、オーヴェ」
お前が俺を特別なんだといつもいつまでも思ってくれるように、お前の横に立つのに相応しい男になると、すでにその片鱗をしっかりと見せつけるような顔で頷いたリオンは、斜面に下ろしていた袋から春先の草花の色に染めたスカーフを取り出すと、先程のように不器用な手付きでウーヴェの首にふわりと巻き付け、過去からの声が顔を出さないように閉じ込めて片目を閉じる。
「ごめんな、スカーフの巻き方なんて知らねぇから」
モコモコになってしまったと笑うリオンにそっと首を振ったウーヴェは、もう一つのまるで夏の太陽を連想するような黄色や橙のグラデーションに染められたスカーフを取り出し、リオンがするよりも遙かに慣れた手付きでリオンの首にそれをふわりと巻き付けると、形を整えて満足げに吐息を一つ零す。
「────俺もお前に誓おう。いつまでもお前の傍にいる」
もうお前を一人きりにはしないと穏やかに、だが揺るぎない強さを秘めた声で囁き、リオンが目を瞠る前で綺麗な笑みを浮かべて蒼い瞳を見下ろす。
「オーヴェ・・・?」
「帰ろう、リオン」
「・・・・・・うん」
周囲に人の気配がない冬の黄昏時、二人はその後なだらかな斜面を下ってスパイダーに戻るまでの間どちらも口を開くことはなかったが、重ねた掌だけはそのままに、車に乗っても必要最低限の時以外は繋いだ手が離れることはないのだった。
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