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「…ええと。苦しそうですけど、どうかしましたか?」
…?
誰、だ?
状況を呑み込めず黙っていると、彼は汗と水の混ざった手を取って自分の目を見据えた。
底知れない黒い目が、深い奥底にひたひたと触れ回っているようだ。
墨汁の様に広がる苦しみが喉を圧迫して、耳を軟く塞がれるような感覚に包まれる。
温度を維持していた腕に、刺すような水滴が浮き出し、肘を流れ、無機質を思わせる冷たい彼の手が心臓まで直結している血管に氷を流し込んでいる。
全身の血液に冷たいエーテルが混ざり、あちらこちらを泳いでいる。
「…ああ、なるほど。身が竦んで動けなかったんですね。吃驚した…」
手は取られたままだ。二つ結びに束ねた彼の黒髪は光を吸い取って零下に仕舞っている。
怖い。
…怖い。
先程まで頭を満たしていた人間たちの悲鳴がただそれだけで塗り潰され、一斉に蠢いて、悶えることすら許さない。
胃を撫でられている。
ここで死ぬんだろうか。
脳漿が全部濁流になって、首の中身を何もかも洗い流して外に出そうとしている。
喉に絡まっている綿が、引っくり返ろうとしている胃腸の内容物を強引に押し戻している。
「…ふふふ」
「かわいい」
「おーい!ハルー!!!」
「…おや、後は大丈夫そうですね。それではお元気で、またお会いできるとうれしいです」
「…えっと、知り合いか?……………大丈夫…?」
「って言うことで、今寝室で休ませてる」
「なるほど何にも分からん」
「説明するの三回目だぞ?」
冷蔵庫に異物を詰め込む、実に前代未聞唯一無二最低最強極度の悪食の同居人である『久躁 日不人(くそうひふと)』はまた口を開いた。
「大体、…だめだな、ツッコミ所と情報量が多すぎる。えーっと、なんだって?…誘拐したってことでいい?」
「なんで?????」
「だめか…」
『だめか…』じゃないだろ。
説明しよう。もう一度情報を整理しだしたこの男は俺の同居人である。そして前述した通り前代未聞唯一無二最低最強極度の異食症である。好物はなめらかなコンクリート。同じ場所に勤務しているので、一人レベルの違う変人がいるという風に目立って孤立することはない。なんで?
先程まで拾ったガラスを一口大に切り尖った部分を削っていたらしい。隣に置かれている皿にはわらび餅のごとくガラス玉が入っている。恐らく日不人がいなければ一生涯この光景を目にすることはなかっただろう。
ハルと一緒に帰ってきたことを完全に理解してもらいたかったので、身振り手振りで体力を消耗させながら説明中だ。
おかしいな、普段の距離感でほとんど伝わると思ってたんだけど…。
ちら、と顔を見やる。口で飴玉のようにしてガラス玉を味わっているらしい。味…味?
「…………あの」
「?……ん、どした?」
「…それおいしい?」
それ、と差した疑似わらび餅を噛まずに掌にポトリと落とした彼に問いかけた。確かに聞くタイミングが違うけれど一体どうしてそういう類のものを普通に食べ物として摂取しているのか…噛めないし喉に破片が刺さるしでそもそも食い物じゃない…ああそれはいつものことか。
「おん前なあ…いや、まあおいしいよ」
「どんな味?」
あ、ちょっと呆れ顔をした。だがしかし普通はガラス玉なんて食べないので勝負だったらこちらの勝ち。
「………そうだな、言葉を借りるとするなら…幽かな涼しい味、とか。幽かな爽やかななんとなく詩美といったような味覚」
「そうなん…それ誰から言葉借りた?」
一瞬流しそうになったが、今のはつまり日不人以外にガラス玉を食べている人間がいるという発言である。日不人の周りにそんな人いたか?
「あー…えっと、これはガラス玉についての言葉じゃなくておはじきとかの話になるんだけど」
「お前どこを気にしてるんだどこをおはじきとガラス玉なんて一緒だろどう考えてもおはじきを食うやつもガラス玉を食うやつも両方偉人レベルの異食症だろ考えてみろ物質ガラスだぞ人間がガラス食べるかそもそも生物がガラス食べないんだから無理だろそれなのにお前ガラス玉とおはじきは違うからちょっと違った話になるんだけどみたいな雰囲気を出すなよ」
「あーはいはい分かった分かったから!えーと…誰だったかな…あそうだ、梶井基次郎」
「…どなた?」
誰だろう。そんな名前聞いたことも…いや、なんとなく覚えがあるような…職場内にもう一人異食症でもいたのか…?
「んん…有名な小説家だよ。えーと、桜の木の下には死体が埋まっているだとか、檸檬爆弾だとか…知らないか?」
「なんか物騒な小説家だな」
「知らないか…えっと、高校教材の…あっ」
「え?」
急に言葉を止めて、日不人は髪を揺らしながら扉を見やった。
花緑青の、可憐な青年。そこにはハルが立っていた。
「あっ、おはよう…大丈夫だったか?ほら日不人この子が…」
「…え?ああ、うん…そっかそっか、そうだよな…うん…」
…?どうしたのだろう。いつもより反応が変だ。
だがまあそんなことはいいとして、…あっ……あああ……あー…。
「…なんかどっか行っちゃったけど…大丈夫なのか?」
「…だいじょぶ!たぶん!きっと…!きっと…?」
「…お前ってつくづく大変だよな……」
頼むから静かにしててほしいな…というささやかな思いは遠のく足音と共に消えていった。
「ッハ、ハァ…はぁ…」
居心地の悪い寝室に、汗と息が滲む。
起きたから伝えに行こうとして、そうしたら見知らぬ人がいた。
たったそれだけの話だ。そう言われれば、そうかもしれない。
しかし、それは自分が到底混ざれそうにないことを意味しているのだった。
一つの完成された家庭があったなら、わざわざ自分を巻き込まなくてもよかったのに。
どうして彼はそこに、何も持ちやしない自分を入れたのだろう。
こんな死に損ない放っておいてくれたら良かったのに。
呼吸音のようにきれぎれに、疑問と苦悩が浮かぶ。
疑問があっても分かることはない。
そう、今後一生。絶対に。
何のために生きていて、どうして死にたいと願うのか。そんなこともきっと同じだろう。
ああ、もう今日は疲れてしまった。いっそこのまま寝てしまおう。
おやすみなさい。
―――――――――――――――――――
月光が差す部屋。
着心地の悪い簡素な服。
冷たい床。
奇妙な安心感と閉塞感の漂う部屋。
ここはどこだったか。
『忘れたの?』
忘れてなんかいない。
『じゃあ言ってみてごらんよ』
…………。
『ほうら、言えないじゃん。ずっと忘れたままだよ。』
忘れてない。絶対に。言えないだけだ。話せない、だけ。
『なんで?』
『ねえ、そんなに厭なの?』
『ねえ、そんなに、私のことが厭だった?』
違う。
違う、そんなんじゃないんだ。
違うよ。絶対に違う。寧ろ…。
むしろ、何だったんだ。
むしろ?
そうだ。そうだ、何か大切に想っていたんだっけ。
大切な何か。本当に大切で、忘れてはいけない何か。そんなものがずっとあるんだ。
ずっと、失くしたくないもの。それでも失くしてしまったもの。
寒いなかに、そっと手を寄せ合うような。
手すら失くして、人外の温度を感じるような。
薬品を撒き散らした床に混ざる嗚咽。覆った手の隙間から見える光。
人外と人間の化合物。誰かの溺れた呼吸音。消毒液と血液の匂い。苦い錠剤の味。注射針の感触。
水の滴る視界。首の落ちる音と耳鳴り。湿った草と血液の匂い。土と砂利と胃液の味。残っている手の感触。
ああ。
ああ、ああ。
わかった。
ここは研究所だ。
彼女と一緒にいた人体実験の研究所。
被験体として苦しみながら奪われゆくにんげんらしさを感じながら、幸せな外界について話していた場所だ。
そして。
彼女が死んだのだ。
知らない世界を見せるために。