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本当にお金に困っていた場合、明から財布を盗まない自信が100%あるとは言い切れないかもしれない。
ベッドに仰向けに倒れ、イルカのキーホルダーを通した腕を掲げながら、僕は最低なことを考えていた。
このキーホルダーはお揃いで買った。イルカが身体を反らしていて、二つ合わせるとハート型になるといういかにもな感じの。僕は一応躊躇ったのだが、明が頑なに欲しいと言い張った。
お揃いでつけている様子は、人から見たら変かもしれない。それでも相手への想いが、イルカの水色を電球に透かしてみた時のキラキラした光なんかが、周囲などどうでもよくさせるのだろう。普通は。
僕は普通じゃない。ただのゲイならまだ良かった。明と手を繋いで歩けた。明と一緒なら怖くなかった。
それができないから上手く歩けない。男が好きなくせに、女体でしか興奮できない自分が、怖くて仕方ないのだ。
その事実を改めて自分の中で咀嚼したら、心底自分が嫌になって、ここには自分しかいないのに反射的に腕で顔を隠す。キーホルダーが腕を抜け、チャリンと虚しい音を立てて床に落ちたが、構わずそのまま寝ることにした。
そして案の定、例の悪夢を見た。
汗と共に飛び起き、心底重い溜息を吐く。朝日が昇る前の暗い部屋で項垂れるのはこれで何度目か。本当は自分が何をしたいのか、この悪夢のせいでますます分からなくなる。
けれどどこか、自分はそれを望んでいるような気もしている。
ピロン、と深夜に不釣り合いな小気味良い音が響く。マッチングアプリの通知だ。タイミングが良いのか悪いのか。新しい恋人志願者だろうか。
明は僕と付き合い始めてから律儀にアカウントを削除したようだが、僕は削除したふりをしつつ、別のアカウントを続けていた。浮気をするつもりはない。ただ明との関係が終わった時、すぐ次にいけるように、何人か会えそうな人をキープしておきたいのだ。
失恋は気持ちの切り替えが大事だ。いつまでも引きずっていては別れた相手に迷惑がかかる。だからこれは明の為でもあるのだ。
そんな風に己の行動を正当化しつつ、チャット画面を開くと──その文はやたら絵文字で埋め尽くされており、僕は一目で異質さを感じ取った。
『はじめまして✨突然すみません💦勘違いされたら困るので最初に断っておきますが……私は女です😖』
ぎょっとした。男子トイレに女性の清掃員がいた時の、不快に近い、されどはっきりとは拒絶できないような、何とも言えない気持ちになる。恐る恐るチューリップの写真のアイコンをタップして、プロフィール欄を開いてみる。
『⚠️男じゃないです 21歳❗ すぐ消します💦』
すぐさまブロックしたいが、目的が気になりすぎる。すぐ消えなければならないと思うほど自分の異質さを分かっているなら、そもそもなぜ紛れ込んだのか。ひとまず『何ですか?』とだけ送ってみることにする。
『良かった🥹返事してくれた✨』
すぐに返信が来る。そこから何分か空いて、少し長めの説明文が送られてきた。
『私、弟がゲイで……でも私の理解が足りないせいで仲が険悪になってしまって😭どうしたらいいのか悩んでいた時、このゲイ専用のマッチングアプリを見つけて……実際のゲイの方に相談してみようって思ったんです😌』
何だこいつ。ゲイを何だと思ってるんだ。スマホを持つ手が少し震える。それが怒りなのか恐怖なのか、それとも別の何かによるものなのか、今は判断がつかなかった。
『失礼を承知でお願いします……相談に乗ってくれませんか!?🥺』
本当に失礼だし、怪しすぎる。
『放っといた方がいいと思いますよ』
素早く素っ気無い返事をし、ブロックボタンに手を伸ばす。
──だが、僅かに迷いがあった。
万が一、本当に困っているとしたら。こいつの弟が苦しんでいるとしたら。家族がバラバラになって、つまり僕と同じケースに陥って、二度と取り返しがつかなくなったら──
そうして手が止まっているうちに、次のメッセージが来てしまった。
『お願いします😭ことごとくブロックされてあなたしか頼れる人がいないんです😭こんなこと相談できるのここくらいしかないし、弟も毎日苦しんでるし、もしかしたら死んじゃうかもしれなくて……』
一瞬にして背筋が冷える。死を持ち出すのは本当に卑怯だ。脅しの一種だ。
『弟の気持ち、当事者のあなただったら分かるかもしれないと思って……😢』
『弟さんの気持ちは弟さんにしか分からないと思います』
つい熱くなって挟み込んでしまった。するとこれ見よがしに、畳み掛けるようにメッセージが来た。多分向こうも熱くなり、すごい速さで文字を打っているのだろう。
『じゃあ弟は誰にも分かってもらえないまま一人ぼっちで苦しみ続けるんですか?ゲイってだけで?ちょっと皆と違うだけで?』
もはや絵文字もない。最初からそれで送ればいいものを。
『そんなの酷くないですか?あんまりじゃないですか?』
酷いよ。あんまりだよ。それがこの世の当たり前なんだよ。
そう返したかったが、心の中に留めておく。自分の弱音は安易に人に晒したくない。
かといって言われっぱなしも癪に障るので、仕方なく答える。
『寄り添ってあげることはできるんじゃないですか』
『それができないから言ってるんです。あなたの手伝いが必要なんです』
じゃあ話を聞くだけなら。そう送ろうとして、慌てて削除する。危うくペースに飲まれるところだった。
『僕には関係ない、あなた次第でしょう』
『ふぅん。結局他人事なんですね』
「……は?」
低い声が漏れる。他人事、という言葉が相当自分の中で地雷だったらしい。無意識に指先にもかなり力が入っていた。
自分事とまでは思っていないが、他人事というのは断じて有り得ない。周囲からいないもの、いてはいけないもののように扱われて、僕がどれだけ苦しんできたことか。
『話聞くだけならいいよ』
とうとう承諾してしまった。
でも、そこまで間違った選択でもないだろう。人に寄り添えない人間が、誰かに寄り添ってもらえることはないのだから。言い訳のようにそう思う。
『わあっありがとうございます✨』
『その代わり、このことは誰にも口外しないで』
『勿論です💕』
調子良くハートマークなんかつけやがって。
『じゃあチャットだけじゃ面倒なので、早速会ってもらってもいいですか❓🥺』
まだ図々しく要求してきやがる。
まぁサクラには慣れてるし、たとえヤバい奴でも女ならいつもより警戒する必要がないし、会うだけ会ってみればいい。『分かった』と答えて一旦スマホを切り、ベッドに横になる。
視界の隅に、ちらちらとイルカの水色が入り込む。
本当は何がしたいのか。その答えが見え隠れしているような気がして、僕は静かに目を閉じた。
多分、見ないふりをした。
恋人の間で隠し事をすると終わりだとよくいうが、誰にだって秘密はある。何でもかんでも曝け出す方が怖いだろう。バレなければいい、ただそれだけの話だ。悪夢にうなされていることや両親が離婚したことだって、誰にも、明にも話すつもりはない。
「悠人です」
「あっ、ハナです!会えて嬉しいです〜!」
互いに偽名を名乗りながらぎこちない会釈をする。駅前で待ち合わせた彼女は、セミロングの小柄な女性で、見た感じ女装でもなさそうで、見た目が本当だったことにまず僕は拍子抜けした。
「じゃあ立ち話もなんですし、一旦そこのカフェに!」
彼女は現実でも積極的だった。
「そうですね」
相談を持ちかけたにしてはノリが軽いなと思ったが、そもそも言動が失礼なのもあって、僕は特に気にせず後をついていった。
──それが全ての過ちだった。
「ここパンケーキが美味しいんですよ〜。ストロベリーパンケーキ一つ下さーい。悠人さんは何にします?」
「え?いや僕は要らな……」
「遠慮しないで〜。同じのもう一つ追加でー!」
「ちょっ、何やって……!」
「安心して下さい、私の奢りです!私、奢れる女なんで!」
彼女は親指を立ててウインクしてみせる。真剣な相談をしに来たとはまるで思えない元気の良さだ。気を遣ってそう振る舞っているだけかもしれない、と僕はまだ可能性を捨てない。
「てか悠人さん、アイコンよりカッコイイですね!」
「いや、そうですかね……」
僕はぎこちなく首を傾げてみせる。その褒め言葉は明だけに言ってもらいたかったのだが。
「あの、それで相談は……」
「あぁ、弟のことですね!それがですね、実はもう解決しちゃいまして!」
ぱん、と手を合わせ、彼女は呑気に微笑んだ。
「……は?」
可能性がゼロになった。
呆気に取られる僕に構わず、彼女はヘラヘラと続ける。
「『ゲイでも全然いいよ、気にしないで』ってLIME送ったら、気持ちが伝わったみたいで、ゲイの彼氏紹介してくれたんですよ!おめでとうって祝福したらますます喜んでくれて!これって弟も、自分がゲイだってことに少しは誇りを持つようになったってことですよね!いや〜喜ばしいです!」
「ちょっ、声……!!」
ゲイという言葉をわざと大きく言っているように聞こえて、一気に背筋が冷える。
「え、駄目ですか?だってゲイって悪いことじゃないでしょう?」
駄目だ、こいつわざとやってる。僕の反応を楽しんでいる、悪人だ。
周囲の数人が振り向くのが見えて、僕は最大限に縮こまりながら声を振り絞った。
「……いい加減にして下さい」
「もう、弟みたいに卑屈にならないで。あなたももっと堂々とゲイらしくしてればいいのに」
周囲の視線による恥よりも怒りが勝ち、僕は音を立てて席を立った。
「やっぱりこんなことだろうと思いました。アカウントは通報しておきます。もう二度と関わらないで下さい」
「そんなこと言わないでほしいです。弟の話は本当なのに。祝ってくれないんですか?」
彼女は何食わぬ顔で、わざとらしく上目遣いで見つめてくる。
「良かったですね。どうぞお幸せに。それじゃあ」
吐き捨てるように言って背を向けようとすると、彼女は微笑んだまま、真っ直ぐな視線で尋ねてきた。
「あなたは幸せなんですか?」
「……知りませんよそんなの」
「あのプロフィール欄、見るからに拗らせてますよね。身体も差し出さずに精神だけ満たされたいなんて、そんな我儘通用するんですかね。果たして幸せになれるんですかね。めちゃくちゃ婚期逃しそう。あ、ゲイは結婚できないんだった笑」
この場合、人前で殴っても許されないだろうか。拳を握り締め、多分すごい顔をしているだろう僕を、彼女は心底楽しげに眺めている。
そこで運悪くパンケーキが運ばれてきた。
「ありがとうございます〜。ねぇこれ、一人じゃ食べ切れないなぁ。せめて食べ終わってからにしません?」
このままだと帰宅しても怒りが収まらなさそうなので、僕は静かに席についた。人の金で物を食べるという行為で、少しでも怒りを抑えることにする。
小さくて薄っぺらい、食べた気のしない生地に齧り付く。全く抑えられなさそうなので、僕は反論を口にした。
「あの条件は僕が幸せになる上で最も理に適ったものです。それで幸せになれないならもういいです」
「本気でいいと思ってるんですか?そんなに簡単に諦められるんですか?」
諦めないし、条件を飲んでくれた人はいる。心の中でそう返す。彼氏の存在は教えられない。明まで悪趣味に巻き込むわけにはいかない。
「一生誰とも触れ合わずに死ぬつもりですか?」
「そうなんでしょうね」
「本当に誰にも興奮しないんですか?」
「いや、女性には」
言ってから、しまったと後悔した。彼女の目が分かりやすく光ったからだ。
「へぇ、女性には興奮できるんですね」
「だから声……」
「じゃあ私にもできます?」
「……しようと思えばできるんじゃないですか。思いたくもないですけど」
「でもそれって相手からしたらどうなんですかね。結局女が好きじゃんってなりません?」
「バレなきゃいいんですよ」
「バレますよ、そういうのは」
彼女の刺すような声に、ついフォークが止まった。自分だってバレたらまずいことを易々としているくせに、その言い様は何なのか。
「結局は丸裸で傷まみれになりますよ」
「うるさいなぁ、もう放っといてくれよ」
僕はとうとう頭を抱える。
すると、彼女が優しく囁いた。
「……一瞬でも、私が幸せにしてあげましょうか」
心底腹が立つ。と同時に、心の奥から別のものが湧き上がった。その正体が熱情であると、彼女には見透かされているようだった。
追い詰めるようにニコニコと見つめてくる彼女。どんどん”それ”が差し迫ってくる。
──一瞬だけなら許される。一瞬だけならバレるわけがない。一生自分の気持ちに背いて苦しみ続けるくらいなら、一瞬の快楽に身を任せてしまった方が余程健全だ。
これは、明の幸せの為でもあるのだ。
狂気じみた答えに辿り着いた。こんなにも自分が狂っているとは思わなかった。間違いと正解が混ぜこぜになっている。僕の頭の中はいつもこうだ。早くどちらかに決着を付けたい。早く幸せになりたい。普通になりたい。
縋るように、僕は彼女を見つめ返した。
幸せが何なのかも、よく分からないまま。
幸せというよりは、悪夢だった。
ラブホテルの締まりのない柄の天井をぼんやりと眺めながら、ここは地獄とどこが違うのだろうと思った。矛盾を抱えたまま天国に行っても、地獄に堕ちるだけなのだと思い知った。
「美人局とかの心配はなかったわけ?」
さっさと着替えながら彼女が聞いてくる。僕は仰向けのまま、落ち着いた素振りで返す。
「うんまぁ、別にそうだとしてもお金渡すし」
「何、そんなに女体に飢えてるってこと?」
「どうかな、そうかも。一方だけを優先するなんて僕にはできそうもないからさ」
男が好きなのも、女体が好きなのも、どちらも僕の本当だ。
性欲と恋愛を切り離せない人間が存在するなら、性欲と恋愛を結び付けられない人間がいたっておかしくないはずだ。変わっている。それは認める。でも一概に間違っているとは思いたくない、だから決して攻撃してほしくない。
「……やっぱりこういうのは我儘って言うんだろうな」
僕は悪人の気持ちで呟く。こんなの、不倫は仕方のないことだから許せと言っているようなものだろう。
「我儘のままで、全部手に入れちゃえばいいのに」
彼女は背を向けたまま呟く。ずっと矛盾したことを言っているが、彼女も狂っている自覚はあるのだろうか。流石にあると信じたいが。
「ここまでしといて何だけどさ、弟がゲイっていうのは本当だよ。でも本当じゃなくあってほしかった。それを盾にして傷付けてくるような奴だったから」
彼女の声のトーンが初めて下がる。
「“女は”とか、“シスジェンダーは”とか、“異性愛者は”とか、事あるごとにクソデカ主語で罵ってくる。本当にクソだよ。自分もクソみたいに傷付けられてきたからなんだろうけどさ、でもそれは免罪符にならないと思ってる。そういう狂った人間がこれ以上誰も、自分のことも傷付けないように──私がね、幸せにしてあげたいんだ。普通の幸せを、単純な欲望を、ぜーんぶ叶えてあげたいんだ。そうするとほんの一部で、案外人間って満足するからさ。あ、これもクソデカ主語だね笑」
普通とか幸せとか簡単に言ってくれるな、と僕は今更のように思う。
「まぁ私がゲイを寝取ってみたいって言うのもあるけどね。マジで満足したわ〜。そっちはなんか不満そうだけど。まだ何か足りないの?あなたの場合全部手に入れたとてその顔してそうだね。ほんと可哀想な顔」
「どんな顔だよ」
僕は彼女の顔面に枕をぶん投げた。
「きゃ〜暴力反対〜」
わざと後ろに倒れながら、彼女はあっけらかんと笑う。どれだけ狂っていようが、それが彼女にとっての普通なのだろう。そして僕よりずっと幸せそうだ。
僕だけ異常者の気になっているのがつくづく馬鹿みたいだ。
「そっちこそ、誰も殺すなよ」
僕は少しだけ笑うことができた。
しかし帰りのホームで降り、暗がりで一人になった途端、完全に間違った方に来てしまったと思い、僕は生きた心地がしなくなった。無理矢理歩こうが、幽霊のように足元がふわふわ浮ついている。
立ち並ぶ街灯の中、明の顔が浮かぶ。当然ながらひどく軽蔑した顔だ。
あの時の父親にそっくりだ。また同じことを繰り返すのだ。もうそれが一番マシなのかもしれない。どうせいずれ傷付いて別れるのだから。
突き動かされるように立ち止まり、スマホを取り出す。明の名前もよく確認せずに、とにかく一番上のトーク履歴を開く。
『女と寝ました だから別れて下さい』
機械的にLIMEを送り、すぐさまスマホを仕舞い、何事もなかったかのように歩き出す。
バレなければいい、その考えは自分にとって都合が良いようで悪い。バレてはいけないことを抱えているその時点で、自分は少なからず苦しめられているのだ。
浮気もゲイも、バレてもいい前提で生きなければならない。だからカミングアウトは、自分を楽にする為のものでもあるのだ。
いじめられると分かっていても、ラブレターを送った。離婚すると分かっていても、自分を変えなかった。これでも僕は、なるべく自分で自分を殺さないように生きてきたのだ。
──そうはいっても、やはり眠れなかった。虚ろな暗闇の中、無機質な音が鳴った。
『明日俺ん家に来い』
明日目が覚めなければいいのにと思った。