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東京都港区元麻布。
高級住宅街の一角に、高い塀と厳重な警備に守られた広大な敷地がある。
中華人民共和国駐日本国大使館。
そこは日本国内にありながら、日本の法律が及ばない「治外法権」の領域であり、同時に東アジアにおける情報戦の最前線基地でもあった。
午後2時。
黒塗りのセンチュリーが、大使館の重厚な鉄扉をくぐった。
降り立ったのは、内閣官房参事官の日下部だ。
彼はSPを伴わず、たった一人で敵地の只中へと足を踏み入れた。
その手には、いつも通りの革鞄と、そこはかとない胃痛の予感を携えている。
「お待ちしておりました、日下部参事官」
出迎えたのは一等書記官の王(ワン)。
表向きは外交官だが、裏では国家安全部(MSS)の日本支局長を務める男だ。
彼の表情は硬く、その目は日下部を警戒するように細められている。
「北京との回線は繋がっております。
……どうぞ、こちらへ」
案内されたのは、大使館の地下深くにある特別会議室だった。
窓はなく、壁は電磁シールドで覆われている。
ここなら盗聴も盗撮も不可能――と、彼らは信じている。
部屋の中央には巨大なモニターが設置され、その向こうには北京の中南海にある地下指令室『深淵の間』が映し出されていた。
並んでいる顔ぶれは壮観だ。
李(リー)総理。
国家安全部の張(チャン)部長。
そして人民解放軍の劉(リュウ)将軍。
中国という巨大国家を動かすトップたちが、画面越しに日下部を睨みつけている。
「……ようこそ、日下部参事官」
李総理が重々しい口調で切り出した。
音声は暗号化回線を通じてクリアに届くが、そこに含まれる敵意まではフィルタリングされていない。
「貴国の総理ではなく、一介の官僚である貴方が、我々と直接話をしたいとは。
随分と大きく出たものだな」
「恐縮です、総理閣下」
日下部は深く一礼した。
その態度は慇懃だが、決して卑屈ではない。
「本日は、日中両国の未来に関わる『極めて重要な技術供与』の件で参りました。
政治的な駆け引き抜きで、実務レベルでの即決が必要な案件ですので、私がご説明に上がった次第です」
「技術供与だと?」
劉将軍が鼻で笑った。
「あの『医療用ナノマシン』の話か?
100本あるという在庫を出し惜しみしている、あの薬のことか?
……我々を愚弄するのも、いい加減にしろ。
貴様らがアメリカに尻尾を振って、我々には時間稼ぎのブラフしか寄越さないことは分かっている」
中国側は苛立っていた。
アメリカが日本から何らかの「見返り」を得ていることを察知しているのだ。
焦りと猜疑心。
それが今の彼らを支配している感情だ。
「誤解です、将軍。
我々は貴国を軽視などしておりません」
日下部は鞄からタブレット端末を取り出し、テーブルの上に置いた。
「医療用キットについては、現在増産の目処を立てております。
ですが本日お持ちしたのは、それではありません。
もっと即効性があり、貴国の統治――特に『国家の安定』に寄与するシステムです」
「……ほう?」
張部長が興味を示した。
国家安全部トップとして、「安定」という言葉には敏感だ。
「もったいぶらずに見せたまえ。
そのちっぽけな板切れの中に、我々を満足させる何が入っているというのかね?」
「では、ご覧に入れましょう」
日下部はタブレットを操作し、大使館の大型モニターに映像を転送した。
パッ。
画面が切り替わる。
映し出されたのは、3次元のワイヤーフレームで構築された建築物の内部構造図だった。
無機質なCGではない。
リアルタイムで動いている。
廊下を歩く人々の影。
執務室で電話をする職員。
そして……今この会議室にいる日下部と王書記官の姿。
「これは……」
王書記官が驚いて周囲を見回した。
カメラなどない。
なのに画面の中の「自分」は、驚いてキョロキョロする動きを完全にトレースしている。
「現在地、中国駐日大使館。地下2階、特別会議室」
日下部は淡々と解説した。
「解像度を上げます」
ズームイン。
王書記官の胸ポケットに入っているボールペン。
そのメーカーロゴまでが鮮明に映し出される。
さらに音声フェーダーを上げる。
『……な、何だこれは? どこから撮っている?』
王の呟きがスピーカーから再生された。
マイクを通していない肉声の微細な震えまでもが再現されている。
「なっ……!」
北京のモニターの向こうで首脳陣が絶句した。
彼らは即座に理解した。
これは盗撮映像ではない。
空間そのものを透視しているのだ。
「さらに地下3階をご覧ください」
日下部が操作すると、視点は床を突き抜け、さらに下の階層へと潜った。
そこは大使館の最重要機密エリア――通信暗号室だ。
数名の技官が複雑な機器を操作している。
彼らの手元のディスプレイに表示されている暗号コード。
机の上に置かれた機密書類。
飲みかけのコーヒーの湯気。
全てが丸見えだった。
「馬鹿な……!」
張部長が呻いた。
彼の顔から血の気が引いていく。
「そこは電磁シールドで完全に遮断されているはずだ!
電波も赤外線も放射線さえも通さない鉛の壁だぞ!
なぜ透けて見える!?
なぜ中の音が聞こえる!?」
「これが我が国が開発した最新鋭の広域監視システム――『位相空間レーダー網』です」
日下部は、あたかも自分が開発したかのように胸を張った。
実際にはテラ・ノヴァからの借り物だが、そんなことはおくびにも出さない。
「コードネームは『蛍(Firefly)』。
特殊なナノマシン・センサーを空気中に散布し、それらがネットワークを形成することで、対象エリア内のあらゆる物理現象をリアルタイムでスキャン・再構築します。
壁も地下も闇も関係ありません。
そこにある『事実』を、ありのままに記録するシステムです」
ナノマシン。
またしても、その言葉だ。
だが中国首脳陣にとって、それは最も説得力のある説明だった。
日本はすでに医療分野で驚異的なナノマシン技術を持っている。
ならば監視分野でも同じことができるはずだ、という推論が成り立つ。
「……ふざけるなッ!!」
劉将軍が激昂し、拳で机を叩いた。
「これは明白な主権侵害だ!
ウィーン条約違反だ!
大使館の中を覗くなど、宣戦布告に等しい行為だぞ!
今すぐそのシステムを停止しろ!
さもなくば……!」
「落ち着いてください、将軍」
日下部は冷ややかに遮った。
将軍の怒声など、想定の範囲内だ。
「私がこれをお見せしたのは、貴国を脅すためではありません。
むしろ、信頼の証です」
「信頼だと?
裸にしておいて、何が信頼か!」
「ええ。
隠し事のない関係こそが真の信頼でしょう?」
日下部は皮肉な笑みを浮かべた。
「それに、ご安心ください。
普段は大使館エリアには厳重な『マスキング』処理を施しております。
日本のオペレーターが興味本位で覗き見ることはできません。
今回は特別に、デモンストレーションのために制限を解除しただけです」
「……信用できるか、そんな言葉」
李総理が氷のような声で言った。
彼の目は画面の中の「透視された大使館」を凝視している。
怒りよりも恐怖。
そしてそれ以上に強い「渇望」が、その瞳の奥に宿り始めていた。
「日下部参事官。
貴方はただ我々を挑発しに来たわけではないだろう。
……これをどうするつもりだ?」
老獪な総理は日下部の意図を察した。
わざわざ手の内を見せたということは、取引の材料にするつもりなのだ。
「ご慧眼、恐れ入ります」
日下部はタブレットを操作し、画面を切り替えた。
今度は北京の地図が表示された。
天安門広場を中心に、巨大な円が描かれている。
「このシステム……貴国にも導入可能ですよ」
その一言が、会議室の空気を変えた。
戦慄が欲望へと変わる瞬間。
「……導入だと?」
張部長が身を乗り出した。
「日本がこの技術を、我々に提供すると?」
「はい。
もちろん完全な技術供与ではありません。
『サービスとしての利用権』の提供です」
日下部は説明を続けた。
「中国は広大です。
そして統治するには、あまりにも複雑だ。
ウイグルやチベットの分離独立派。
香港の民主化勢力。
そして党内部の腐敗分子や、海外と通じる裏切り者……。
彼らは地下に潜り、密室で陰謀を企て、国家の安定を脅かしています」
日下部の言葉は、中国指導部の抱える不安の核心を突いていた。
彼らが最も恐れているのは外敵ではない。
内乱だ。
14億の民を束ねる鉄の規律が、見えない場所から崩れ去ることだ。
「現在の監視カメラ網(天網)やネット検閲(金盾)も優秀ですが、限界があります。
カメラのない場所、ネットを使わない会話までは監視できません。
ですが、この『蛍』があれば……」
日下部は指を鳴らした。
「全てが見えます。
テロリストのアジトも、裏切り者の密会も。
壁を透かし、会話を聞き、心拍数から嘘を見抜く。
完全なるパノプティコン(全展望監視システム)。
……これこそが貴国が求めていた『究極の治安維持ツール』ではありませんか?」
会議室に沈黙が落ちた。
誰も否定しなかった。
否定できるはずがない。
それは彼らにとっての夢の技術だ。
反体制派を根絶やしにし、党の支配を永遠のものにするための魔法の杖。
「……条件は?」
李総理が短く尋ねた。
彼もまた政治的リアリストだ。
これほどの力がタダで手に入るはずがない。
アメリカにも渡していない(と彼は思っている)技術を、なぜ中国に?
「簡単です。
このシステムの運用には、現地の空間情報を中継するための『専用ビーコン』の設置が必要です。
そのビーコンを、北京、上海、そして重要な都市に置かせていただきたい」
「ビーコン……」
「はい。
ナノマシンの制御とデータ収集を行う中核デバイスです。
これの設置と管理は、日本側から派遣する技術者が行います。
ブラックボックス化された技術ですので、貴国の技術者が触れることはできません」
張部長が目を細めた。
「つまり、スイッチを握るのは日本だということか?
我々の首都に、日本のスパイ道具を堂々と置けと?」
「共用ですよ、部長」
日下部は訂正した。
「収集されたデータはリアルタイムで、貴国の公安当局にも提供します。
テロ対策、犯罪捜査に自由に使っていただいて構いません。
我々は、ただシステムの維持管理を行うだけです。
……もちろん、このシステムを提供する『対価』は頂きますがね」
「対価だと? 金か?」
李総理が目を細める。
「金銭ではありません」
日下部は、李総理の目を真っ直ぐに見据えた。
「貴国が現在、日本国内で行っている非公認の諜報活動、および経済的・軍事的な『不当な干渉』の完全な停止です。
新木場周辺への工作員の派遣、関連企業へのハニートラップ、そして尖閣周辺での威圧行為。これらを即座に中止し、日本を不可侵の領域として扱っていただきたい。
この約束を遵守していただけるなら、システムは貴国の安寧のために機能し続けるでしょう」
「……我々の活動をすべて把握しているという、当てつけか」
張部長が苦虫を噛み潰したような顔になる。
そして日下部は、声を潜めた。
「それに……考えてもみてください。
もし貴国がこれを拒否し、アメリカだけが導入したとしたら?
あるいは台湾やインドが導入したら?
……情報の非対称性は、国家の存亡に関わりますよ」
これは脅しだ。
「お前たちが買わなくても敵が買うぞ」という、武器商人の常套句。
だが効果は絶大だった。
中国は周辺国に技術的優位を取られることを何よりも恐れている。
特に日本とアメリカが手を組んでこの技術を独占し、中国だけが「丸裸」にされる状況は、悪夢以外の何物でもない。
「……議論が必要だ」
李総理が呻くように言った。
「即答はできん。
党中央委員会に諮る必要がある」
「もちろんです。
ですが、あまり時間をかけない方がよろしいかと。
『蛍』の在庫にも限りがありますので」
日下部は、わざとらしく時計を見た。
「ああ、それと。
導入が決まれば、副次的なメリットもあります」
「何だ?」
「このシステムは、ナノマシンの制御技術の結晶です。
これを運用し、データを共有することで……日中間の技術交流が深まるでしょう。
それは将来的に、あの『医療用キット』の増産や技術供与への足がかりになるかもしれません」
最後に投下された餌。
不老不死へのチケット。
それが迷っていた首脳陣の背中を、強烈に押した。
「……分かった」
李総理が決断を下した。
その顔には苦渋と、そして抑えきれない野心が滲んでいた。
「試験導入を認めよう。
まずは北京の一区画だ。
そこで性能を実証してもらう。
……もし謳い文句通りの性能なら、全国への展開も考えよう」
「賢明なご判断です、総理閣下」
日下部は深々と頭を下げた。
「では早急にビーコンと技術者を派遣いたします。
貴国の『安寧』のために、全力を尽くしましょう」
通信が切れた。
大使館の特別会議室に静寂が戻る。
王書記官は額に脂汗を浮かべたまま、呆然と日下部を見ていた。
「……日下部さん。
貴方は悪魔に魂を売ったのですか?」
王は震える声で尋ねた。
中国という独裁国家に、これほどの監視ツールを与えることの意味。
それがどれほどの血を流すことになるか、想像するだけで恐ろしい。
「いいえ、王さん」
日下部は鞄を手に取り、涼しい顔で答えた。
「私は、ただの公務員ですよ。
国益のために働き、国民のために奉仕する。
……そのために、たまに悪魔とダンスを踊ることもありますがね」
彼は大使館を後にした。
外はまだ明るい。
だが日下部の目には、東京の空にも、そして遠く北京の空にも、見えない「硝子の天井」が広がり始めているのが見えた。
中国は罠にかかった。
彼らは「自国民を監視するため」にビーコンを受け入れた。
だがそのビーコンは同時に、中南海の奥底で行われる密談を、日本の首相官邸へと筒抜けにする「直通回線」となるのだ。
支配者が被支配者へと転落する瞬間。
それを彼らが知るのは、まだ先のことだ。
「……さて。
これで役者は揃いましたね」
日下部は車に乗り込み、大きく息を吐いた。
ポケットの胃薬を取り出す。
アメリカ、そして中国。
二つの超大国が、日本の掌の上で踊り始めた。
その重圧に胃が悲鳴を上げているが、同時に奇妙な高揚感も湧き上がっていた。
工藤創一という一人の男が始めた「工場」は、ついに地球という惑星を、そのシステムの一部として組み込み始めたのだ。
――The Factory Must Grow.
工場の成長は、誰にも止められない。
たとえそれが、世界を監視と恐怖で塗り固めることになったとしても。