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約束の土曜日。
工藤は朝8時から、鏡の前で三度も着替えていた。結局、いつものアイロンが効きすぎた白シャツに、センタープレスの入ったチノパン。シャツの裾は一ミリの弛みもなくズボンにインされている。
「……よし。清潔感は、社会人の基本だ」
自分に言い聞かせ、工藤は集合時間の15分前に駅の時計台に到着した。
しかし、そこには既に、ふにゃりと地べたに座り込んでスケッチブックを広げている、ゆるゆるな影があった。
「あ、工藤さーん! 早いですねぇ。シャツ、パキパキすぎて折り紙みたい!」
ねねは立ち上がると、当然のように工藤の腕に自分の細い腕を絡めてきた。
「……っ! 離しなさい。公共の場ですよ」
「えー、迷子になっちゃうもん。ほら、大福のお店、あっちです!」
【 飲み物大福と、固まる理性 】
「……これが、『飲み物』ですか」
案内されたのは、路地裏にある古民家カフェだった。
目の前に置かれたのは、自重で形を保てないほど柔らかい、真っ白な苺大福。
「そうです! こうやって、スプーンで掬って食べるんです。あーん、してあげましょうか?」
「自分でおこなえます。……む」
一口食べた工藤は、言葉を失った。
甘すぎない求肥が、口の中の温度で文字通り「溶けて」消えていく。32年間、何事も噛み締めて理解しようとしてきた工藤にとって、この「消えていく感覚」は未知の体験だった。
「どうです? 工藤さんの『かちこち』も、これくらい溶けちゃえばいいのに」
ねねが、頬杖をついて工藤をじっと見つめる。
その視線に耐えきれず、工藤は慌ててお茶を啜った。
「……食べ物は、しっかり形がある方が安心します。君のように、境界線が曖昧なものは……正直、対応に困る」
「対応しなくていいんですよ。ただ、一緒にいればいいんです」
ねねは、テーブルの下で工藤の膝を、自分の膝でツンと小突いた。
工藤の体は案の定、ビクンと震えて硬直する。
「工藤さんって、本当に女の子と……その、何ていうか、内緒なこと、したことないんですか?」
「……っ、ごふっ!!」
工藤は盛大にむせた。
あまりにも直球、あまりにも無防備な問い。周囲の客の視線が痛い。
「な、何を、破廉恥なことを……! 私は、その、仕事に邁進してきただけで……」
「ふふ、真っ赤。工藤さん、耳まで大福の色になってますよ」
ねねは楽しそうに笑うと、今度はテーブルを乗り出し、工藤の頬に付いた粉を、指先でそっと拭った。
その指が、工藤の唇の端に微かに触れる。
「……あ」
ねねの動きが、一瞬だけ止まった。
いつもふざけている彼女の瞳が、少しだけ真剣な、熱っぽい色を帯びる。
「……工藤さんのこと、もっと『かちこち』にさせて、私が全部溶かしてあげたくなっちゃった」
「…………」
工藤は、返すべき言葉の翻訳に失敗した。
心臓の音が、耳の奥で激しく打ち鳴らされる。
32円の貸しから始まったこの「狂った予定」は、どうやら工藤の人生そのものを、ドロドロに溶かしてしまいそうだった。