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第八話 返事はいらないと泣く花へ
――返事はいらない。
その言葉は、声ではなかった。
誰かが口にしたわけではない。
空気が震えたわけでもない。
耳に届いたわけでもない。
それでも、遠坂衛二の胸の奥に、確かにその言葉は落ちた。
重く。
冷たく。
まるで、胸の内側に黒い石を置かれたように。
返事の庭。
柳洞寺の地下霊脈、そのさらに奥に眠る、神杯戦争の後に残された場所。
願いの畑が変質し、叶わなかった願いへ「聞こえた」と返すために生まれた庭。
そこは、あまりにも美しかった。
白い花が、地平まで続いている。
花弁の一枚一枚には、返事の言葉が刻まれていた。
ありがとう。
ごめん。
聞こえた。
忘れない。
ここにいる。
待っている。
おかえり。
風が吹くたび、それらは小さく揺れ、優しい音を立てる。
けれど、その美しさの中心に、黒い丘があった。
そこだけ花が咲いていない。
白い花々が、まるで近づくことを恐れるように途切れている。
その黒い丘の上に、冠が浮かんでいた。
黒い冠。
王の証ではない。
神の器でもない。
沈黙そのものが輪郭を持ったようなもの。
沈黙冠の残響。
そしてその周囲には、花になれなかった願いが、黒い影として漂っていた。
――返事はいらない。
もう一度、沈黙がそう告げた。
ユイ・アインツベルンの顔が青ざめる。
ミライは唇を噛み、拳を握ったまま動けずにいた。
遠坂凛は宝石を構え、衛宮士郎は干将・莫耶を手にしている。
アストルフォは衛二の前に半歩出て、いつでも飛び出せる姿勢を取った。
桃色の髪が、白い花畑の中でひどく鮮やかに見える。
「エイジ」
アストルフォの声は小さい。
けれど、衛二にははっきり届いた。
「手、離さないでね」
「ああ」
衛二は答えた。
右手には柳洞寺の御守り。
左手にはアストルフォの手。
その二つの温もりが、今の衛二を現実に繋ぎ止めている。
凛が低く言った。
「衛二。絶対に魔術を使わないこと」
「分かってる」
「ここは普通の戦場じゃない。あんたが下手に無窮剣界へ接続したら、沈黙冠に逆流される可能性がある」
「分かってる」
「本当に?」
今度はアストルフォが聞いた。
衛二は彼を見る。
アストルフォの瞳は不安そうだった。
けれど、逃げようとはしていない。
その瞳を見て、衛二はゆっくり頷いた。
「本当に。今日は観測役。戦う役じゃない」
「うん」
アストルフォは少しだけ安心したように笑った。
「言えた。えらい」
「こんな状況でも褒めるのか」
「こんな状況だから褒めるの」
アストルフォは衛二の手を握り直した。
「エイジが自分で約束を守ろうとしてるの、すごく大事だから」
衛二は少しだけ息を吐く。
その一言で、胸に入り込もうとしていた沈黙が薄れる。
ユイが黒い丘を見つめながら言った。
「ここは、返事の庭の未答区域」
「未答区域?」
凛が聞き返す。
「返事が届かなかった願い。あるいは、返事そのものを拒んだ願いが集まる場所」
ユイの声は震えていた。
「昔は、こんなにはっきり形を持っていなかった。もっと小さな影だった。けれど……大きくなっている」
ミライがぽつりと呟いた。
「私たちが、目を逸らしたから」
「ミライ」
「ユイ。これは私たちの失敗」
ミライは黒い丘から目を逸らさなかった。
「返事の庭を作った時、私たちは願いに返事をした。聞こえた。忘れない。ここにいる。待っている。そう返した」
「ええ」
「でも、その返事を拒む願いがあった。叶わなければ意味がない。返事なんて慰めにもならない。聞こえたと言うなら、なぜ救わなかった。そう叫ぶ願いがあった」
ミライの声が沈んでいく。
「私たちは、それを奥へ閉じた」
白い花が揺れた。
その揺れは風ではない。
庭そのものが、過去の言葉に反応しているようだった。
ユイは痛みに耐えるように目を伏せる。
「閉じるしかなかった。あの時の私たちには、答えられなかった」
「だから私は、月蝕教団に行った」
ミライは静かに言った。
「返事で足りないなら、叶えるしかないと思った。世界を変えるしかないと思った」
「でも、それは」
「間違っていた」
ミライは自分で言った。
「分かっている。だけど、今でも分からない。返事を拒む願いに、どう答えればいいのか」
その瞬間、黒い丘の上の冠がわずかに震えた。
――答えなどない。
沈黙が言葉になる。
白い花々が一斉に伏せる。
衛二の胸が圧迫される。
呼吸が詰まる。
アストルフォがすぐに衛二の手を強く握った。
「エイジ、息して」
「……してる」
「浅い」
「分かってる」
「ボクを見て」
衛二はアストルフォを見る。
桃色の瞳。
少しだけ不安そうで、それでも明るくあろうとしてくれる瞳。
「ボクの名前」
「アストルフォ」
「うん。今ここにいるのは?」
「遠坂衛二」
「ボクの?」
「マスター」
「よし」
アストルフォは小さく笑った。
「戻ってきた」
そのやり取りを見て、ミライがわずかに目を細めた。
「あなたたちは……いつもそうやって戻るのね」
「うん」
アストルフォは振り返って言った。
「エイジはすぐ遠くを見ちゃうから。ボクが呼ぶの」
「呼べば、戻ってくる?」
「戻ってくるよ」
アストルフォは迷わなかった。
「だってエイジは、戻ってきたいって思ってるから」
衛二は一瞬、胸を突かれた。
戻ってきたい。
それは、当たり前のようでいて、実はとても大切なことだった。
神杯の願いに飲まれかけた時。
沈黙冠の夢に沈みかけた時。
衛二が戻ってこられたのは、アストルフォの声があったからだ。
だが、それだけではない。
自分自身が、アストルフォのいる場所へ戻りたいと願ったから。
それは、器にはない意思だ。
人間としての輪郭だ。
凛が黒い丘を睨む。
「こちらから不用意に刺激するのは危険ね。ユイ、封印し直せる?」
ユイは首を横に振った。
「今の状態では難しい。未答区域が肥大化しすぎている。外から封印しても、内側から沈黙が広がる」
「なら、浄化は?」
「返事を拒んでいる以上、通常の返答術式は弾かれる」
士郎が静かに問う。
「戦う相手として見た場合は?」
ユイは苦い顔をした。
「物理的に破壊する相手ではないわ。沈黙冠の残響は、願いの拒絶が形を持ったもの。壊せば、その拒絶が庭全体に散る」
「つまり、斬れない」
「ええ」
士郎は双剣を少し下ろした。
「厄介だな」
「本当にね」
凛が宝石を握りしめる。
「衛二なら、無窮剣界で願いと術式を切り離せるかもしれない。でも今日は駄目」
「母さん」
「駄目」
衛二が何か言う前に、凛は鋭く遮った。
「昨日、あれだけの過負荷を起こしたばかりよ。しかもここは沈黙冠の領域に近すぎる。あんたが固有結界を開けば、向こうは確実に入り込む」
「分かってる」
衛二は頷いた。
本当に分かっている。
今ここで無窮剣界を開くのは、戦うというより、自分の内側へ沈黙冠を招き入れるようなものだ。
だから使えない。
使ってはいけない。
しかし、それならどうする。
返事を拒む願い。
魔術で返せない。
剣で斬れない。
封印も不完全。
衛二は黒い丘を見つめた。
沈黙冠はそこにある。
何も語らない。
けれど、問いだけが重く広がっている。
――返事はいらない。
その時、庭の奥で黒い花が咲いた。
一輪。
白い花畑の中心に、ぽつりと。
全員がそれを見る。
黒い花の花弁には、文字がなかった。
返事も、願いも、何も刻まれていない。
ただ、空白。
その花が開いた瞬間、衛二の視界が揺れた。
「っ……」
「エイジ!」
アストルフォが支える。
だが倒れたわけではない。
見えたのだ。
黒い花の奥に、誰かの記憶が。
◇
雨が降っていた。
夢ではない。
記憶だ。
誰かの記憶が、返事の庭を通じて衛二の意識に触れている。
小さな女の子が、雨の中に立っていた。
年齢は六歳か七歳くらい。
白いワンピースは泥で汚れ、手には壊れた人形を抱いている。
彼女は泣いていない。
泣きすぎて、もう涙が出ないのだと分かった。
遠くで炎が上がっている。
冬木の火災。
かつて聖杯戦争の終わりに起きた大災害。
衛二はそれを直接知らない。
生まれるずっと前の出来事だ。
だが父から聞いたことはある。
母の資料にもあった。
多くの命が失われ、多くの願いが届かなかった夜。
少女は何かを待っていた。
誰かが帰ってくるのを。
母か。
父か。
兄弟か。
友達か。
分からない。
ただ、少女は壊れた人形を抱えて、雨の中でずっと待っていた。
誰も来ない。
炎は消えない。
雨は冷たい。
やがて、誰かが少女に声をかけた。
大丈夫。
もう安全だ。
聞こえているよ。
忘れないよ。
それは、優しい返事だった。
でも少女は、顔を上げなかった。
違う。
聞いてほしいんじゃない。
忘れないでほしいんじゃない。
帰してほしかった。
戻してほしかった。
ただいまと言ってほしかった。
返事なんていらない。
叶わないなら、いらない。
慰めなら、いらない。
そうして少女の願いは、白い花にならなかった。
黒い花になった。
◇
衛二は息を呑んで現実へ戻った。
返事の庭。
黒い丘。
沈黙冠。
アストルフォの手。
全部が一気に戻ってくる。
「エイジ! 大丈夫!?」
アストルフォが顔を覗き込む。
「見えた」
「何が?」
「黒い花の記憶」
ユイが表情を変えた。
「触れてしまったの?」
「たぶん。魔術は使ってない。ただ、向こうから」
「未答の願いが、あなたを見つけたのね」
凛が衛二の肩に手を置く。
「衛二、深呼吸しなさい」
「分かってる」
「アストルフォ」
「うん!」
アストルフォは衛二の両手を包んだ。
「エイジ、ボクを見て」
「見てる」
「ここは?」
「返事の庭」
「隣にいるのは?」
「アストルフォ」
「エイジは、その子じゃない」
その言葉で、衛二ははっとした。
胸の奥に、雨の冷たさが残っていた。
帰ってこない誰かを待つ感覚が、まだ心に絡んでいる。
自分の記憶ではない。
それなのに、自分の痛みのように重い。
「……ああ。俺は、俺だ」
「うん」
アストルフォは優しく頷く。
「戻ってきてる」
ミライが黒い花を見つめた。
「それは、最初の未答花」
「未答花?」
衛二が聞く。
「返事の庭が生まれた時、最初に返事を拒んだ願い。名前は残っていない。誰の願いかも、完全には分からない。ただ、その花はずっとここにある」
ユイの声が震える。
「私たちは、あの花に答えられなかった」
「返事をしたんですか?」
衛二が尋ねる。
ユイは頷く。
「したわ。聞こえている。忘れない。あなたは一人じゃない。そう返した」
「でも」
「届かなかった」
ミライが言った。
「あの花は、叶えること以外を拒んだ。失ったものを戻すこと以外、すべてを拒んだ」
衛二は黒い花を見る。
雨の中の少女。
壊れた人形。
帰ってこない誰か。
返事はいらない。
叶わないならいらない。
その痛みを、間違っていると言えるのか。
言えない。
慰めで救われない痛みは確かにある。
聞こえたと言われても、戻らないものは戻らない。
その事実を前にして、衛二は何も言えなかった。
アストルフォが隣でぽつりと言う。
「つらいね」
その言葉は、あまりにも単純だった。
でも、だからこそ胸に届いた。
「うん」
衛二は答えた。
「つらい」
「返事いらないって言いたくなるくらい、つらかったんだね」
「ああ」
「じゃあ、まずそれを認めたい」
衛二はアストルフォを見る。
「認める?」
「うん」
アストルフォは黒い花を見つめた。
「返事はいらないって言うくらい痛かったんだねって。慰めなんて聞きたくないくらい悲しかったんだねって。まず、そこからじゃだめかな」
庭が静かになった。
白い花々が、かすかに揺れる。
ユイが息を呑む。
ミライの瞳が揺れた。
凛は黙っている。
士郎も、静かにアストルフォを見ている。
衛二はアストルフォの言葉を胸の中で繰り返した。
返事をする前に、痛みを認める。
救おうとしすぎない。
慰めようと急がない。
叶えられない事実から逃げない。
ただ、その痛みがそこにあると認める。
「……そうか」
衛二は小さく呟いた。
「返事を拒む願いに、すぐ返事をしようとしたら駄目なんだ」
アストルフォが首を傾げる。
「エイジ?」
「返事はいらないって言ってるなら、まず返事を押し付けちゃ駄目なんだ」
胸の奥で、何かがほどける。
沈黙冠の問いに対する答えではない。
完全な解決ではない。
でも、入口が見えた。
「返事を拒む願いには、まず沈黙を返す」
その言葉に、ミライが目を見開いた。
「沈黙を……返す?」
「無視する沈黙じゃない。突き放す沈黙でもない」
衛二は黒い花を見た。
「隣にいるための沈黙。何も言わずに、でも離れない。答えが出せないなら、答えを急がない」
ユイが口元に手を当てる。
「それは……」
ミライが震える声で言った。
「待つこと」
衛二は頷いた。
「たぶん」
返事の花の一つに、ミライが残した言葉があった。
待っている。
彼女はその言葉を残しながら、自分が待てなかったと言った。
でも、もしかすると。
返事を拒む願いに必要だったのは、答えではなく、待ち続ける誰かだったのかもしれない。
アストルフォが衛二の手を握る。
「エイジらしいね」
「そうか?」
「うん。無理にかっこいい答えを出すんじゃなくて、一緒に悩んでくれる感じ」
「答えになってないかもしれない」
「でも、逃げてない」
アストルフォは優しく笑った。
「それってすごいよ」
黒い花がかすかに揺れた。
沈黙冠も、わずかに震える。
――返事はいらない。
また沈黙が告げる。
だが、さっきより少しだけ弱かった。
衛二は一歩前に出ようとして、凛に腕を掴まれた。
「衛二」
「魔術は使わない」
「近づきすぎない」
「分かってる」
「本当に?」
衛二は頷く。
「ここからでいい」
彼は黒い花へ向かって言葉を投げようとして、止めた。
返事を押し付けてはいけない。
なら、何をする。
衛二は口を閉じた。
そして、ただ黒い花を見た。
何も言わない。
聞こえたとも言わない。
忘れないとも言わない。
大丈夫とも言わない。
ただ、そこに立つ。
アストルフォも隣に立った。
彼も何も言わない。
いつも騒がしくて、明るくて、甘やかし上手な騎士が、今は静かに衛二の隣にいる。
凛も、士郎も、ユイも、ミライも。
誰も言葉を発しなかった。
返事の庭に、沈黙が落ちる。
けれどそれは、沈黙冠の冷たい沈黙とは違った。
そこには温度があった。
誰もいなくなった沈黙ではない。
言葉にできない痛みの隣に、誰かが座るための沈黙。
黒い花が、ほんの少しだけ揺れた。
花弁の空白に、何かが浮かびかける。
文字ではない。
返事ではない。
ただ、小さな水滴のような光。
涙にも似ていた。
ユイが震える声で言う。
「反応している……」
ミライは呆然としていた。
「返事ではなく、沈黙に……?」
衛二は黒い花を見つめ続ける。
何も言わない。
言いたいことはあった。
でも今は言わない。
その沈黙の中で、黒い花の根元に、一輪だけ白い芽が出た。
小さな、小さな芽。
花と呼ぶにはまだ早い。
返事の言葉も刻まれていない。
でも、そこに確かに生まれた。
白い芽。
ユイの目から涙がこぼれた。
「……芽が」
ミライは膝をついた。
「私たち、ずっと……言葉を探していた」
彼女の声は震えていた。
「でも、最初に必要だったのは、言葉じゃなかったの?」
誰も答えられなかった。
答えないことが、今は答えだった。
◇
沈黙は、長くは続かなかった。
黒い丘の上で、沈黙冠が大きく震えた。
白い芽が生まれた瞬間、冠の周囲の影がざわめき始める。
未答区域全体が、拒絶するように蠢いた。
――認めない。
沈黙が歪む。
――返事も、沈黙も、慰めにすぎない。
黒い丘から、影の蔓が伸びた。
それは花畑を這い、白い芽へ向かう。
凛が即座に宝石を構える。
「来るわよ!」
士郎が前に出る。
「衛二、下がれ!」
衛二は反射的に投影しようとして、アストルフォに手を握られる。
「約束!」
「……分かってる!」
衛二は奥歯を噛んだ。
魔術を使わない。
今日は戦闘役じゃない。
でも、白い芽が潰されそうになっている。
動きたい。
剣を作りたい。
無窮剣界を開きたい。
その衝動が喉まで上がる。
アストルフォが衛二の前に出た。
「ボクが行く」
「アストルフォ!」
「大丈夫。エイジは約束守って」
「でも」
「ボクを信じて」
その言葉に、衛二は止まった。
アストルフォは笑った。
「エイジはボクを守ってくれた。今度は、ボクがエイジの約束を守る」
桃色の騎士が駆ける。
黒い蔓が白い芽へ迫る。
アストルフォはその間に飛び込み、蔓を蹴り払った。
影が弾ける。
だが蔓は一本ではない。
黒い丘から次々に伸びてくる。
凛の宝石魔術が火を放つ。
火は蔓の進行を止めるが、完全には焼き切れない。
「願いの拒絶でできてる。普通の火じゃ通りが悪いわね!」
士郎が双剣で蔓を斬る。
切断はできる。
しかし、すぐに再生する。
「根元を断たないと駄目だ!」
ユイが白い芽の前に結界を張る。
ミライも震える手で術式を組み、ユイを支援する。
「ミライ!」
「私は……もう逃げない」
ミライの声は弱かった。
だが、確かに前を向いていた。
「待つと返したなら、今度こそ待つ。守る」
二人の結界が重なる。
白い芽を包む淡い光。
黒い蔓がそれを叩く。
結界が軋む。
アストルフォが走り回り、蔓を弾く。
桃色の光が返事の庭を駆け抜ける。
衛二はそれを見ているしかなかった。
拳を握る。
歯を食いしばる。
魔術を使いたい。
今すぐ剣を作りたい。
だが、使えば沈黙冠に付け入られる。
自分が約束を破れば、アストルフォの信頼を踏みにじる。
それでも。
アストルフォの頬を、黒い蔓がかすめた。
小さな傷ではない。
霊基に触れる拒絶の影。
アストルフォがわずかに顔をしかめる。
「アストルフォ!」
衛二が叫ぶ。
アストルフォは振り返らずに言った。
「大丈夫!」
「でも!」
「エイジ!」
アストルフォの声が強くなる。
「ボクを信じて!」
衛二は動けなくなった。
信じる。
守るために飛び出すことだけが、信じることではない。
相手が戦うと決めたなら、その背中を信じて待つことも必要だ。
衛二は御守りを握った。
魔術ではない。
投影でもない。
ただ、祈るように。
「アストルフォ」
小さく名前を呼ぶ。
アストルフォが一瞬だけ笑った気がした。
それだけで、彼の動きがさらに軽くなる。
凛が宝石を三つ投げる。
「士郎、左!」
「ああ!」
士郎が蔓の束を受け止め、凛の魔術がその根元を焼く。
ユイとミライの結界が白い芽を守る。
アストルフォが最後の一本を蹴り上げた。
だが、その瞬間。
黒い丘の奥から、ひときわ太い蔓が伸びた。
狙いは白い芽ではない。
衛二だった。
「衛二!」
凛が叫ぶ。
士郎が反応する。
アストルフォも振り返る。
しかし蔓は速い。
魔術を使えば防げる。
投影すれば斬れる。
でも、今日は使えない。
衛二は御守りを握った。
その瞬間、御守りが淡く光った。
魔術ではない。
祈り。
柳洞寺に積み重ねられてきた、誰かの無事を願う祈り。
黒い蔓が衛二へ届く寸前、その光に触れてわずかに鈍った。
ほんの一瞬。
だが十分だった。
「エイジ!」
アストルフォが飛び込んだ。
衛二を抱きしめるようにして横へ転がる。
黒い蔓が空を切った。
二人は白い花畑の上に倒れ込む。
アストルフォが衛二をかばう形だった。
「アストルフォ!」
「平気!」
「平気じゃないだろ!」
「ほんとに平気! エイジは?」
「俺は大丈夫」
「よかった」
アストルフォは心底安心したように笑った。
その笑顔を見て、衛二の胸が締めつけられる。
「……ごめん」
「謝るところじゃないよ」
「でも、俺」
「魔術使わなかった」
アストルフォは衛二の頬にそっと触れた。
「約束、守ったね」
「こんな時にそれか」
「こんな時だから」
アストルフォは小さく笑う。
「エイジ、すごいよ」
衛二は泣きそうになった。
怒りも、焦りも、情けなさも、全部混ざっていた。
でもその中に、確かに小さな誇りもあった。
約束を守った。
アストルフォを信じた。
自分一人で全部を背負わなかった。
それは、昨日までの衛二ならできなかったことかもしれない。
凛と士郎が蔓を押し返し、ユイとミライの結界が白い芽を守り切る。
黒い丘が震えた。
沈黙冠の影が、わずかに後退する。
白い芽は潰れなかった。
その芽の先に、小さな蕾ができた。
まだ咲かない。
まだ言葉はない。
でも、確かに蕾だった。
ユイが震える声で言った。
「守れた……」
ミライは涙を流していた。
「待てた」
その言葉に、返事の庭の白い花々が静かに揺れた。
黒い丘の影は、完全に消えたわけではない。
沈黙冠もまだそこにある。
だが、未答区域の端に、小さな白い蕾が生まれた。
それは、返事でも答えでもない。
待つための蕾。
◇
庭から出る頃には、夕暮れは夜へ変わっていた。
柳洞寺の境内には、冷たい空気が戻っている。
だが、来た時よりも音があった。
木々のざわめき。
遠くの虫の声。
石段を踏む足音。
そして鐘楼から、かすかな余韻が聞こえた。
今度は途中で消えなかった。
鳴ってはいない。
けれど、沈黙に飲まれてもいない。
宗真と柳洞悠馬が待っていた。
柳洞は衛二の姿を見るなり、少しだけ安心した顔をした。
「戻ったか」
「ああ」
「顔色は悪いが、生きてるな」
「一応」
アストルフォが横から言う。
「エイジは今日、魔術使わなかったんだよ!」
柳洞は困惑した。
「魔術?」
「あっ」
アストルフォが口を押さえる。
凛が額に手を当てた。
「アストルフォ」
「ごめんなさい!」
柳洞は衛二を見る。
「遠坂。やはり色々あるんだな」
「……色々ある」
「便利な言葉だ」
「本当にな」
柳洞は少しだけ笑った。
それから真面目な顔で言う。
「鐘の音が、少し戻った気がする」
「分かるのか?」
「寺の者だからな」
彼は鐘楼を見上げた。
「何があったのか詳しくは聞かない。だが、ありがとう」
衛二は首を横に振る。
「俺だけじゃない。みんなで何とかした」
アストルフォが嬉しそうに衛二を見る。
「エイジ、ちゃんと言えたね」
「それも褒めるのか」
「褒める!」
宗真が静かに微笑んだ。
「返事の庭で、何か見つけたのですね」
衛二は少し考えた。
「答えではないです」
「ええ」
「でも、待つことならできるかもしれないと思いました」
宗真は目を細める。
「それは、とても難しいことです」
「はい」
「だからこそ、必要なのでしょう」
衛二は御守りを返そうとした。
しかし宗真は首を横に振る。
「それは持っていなさい」
「でも」
「祈りは、返されたがっていません。持っていくべき人のところへ行っただけです」
衛二は御守りを見下ろした。
温かい。
返事を拒む願いに、祈りは届くのか。
まだ分からない。
でも、今日この御守りは衛二を守った。
魔術ではなく、祈りとして。
「ありがとうございます」
衛二は深く頭を下げた。
◇
遠坂邸へ帰る車の中、衛二は窓の外を見ていた。
街灯が流れていく。
冬木の夜が、少しずつ深くなる。
アストルフォは隣に座り、衛二の手を握っている。
今度は実体化したままだ。
凛はもう何も言わなかった。
たぶん、今日くらいは見逃してくれている。
「エイジ」
アストルフォが小さく呼んだ。
「何?」
「今日は魔術使わなかったね」
「ああ」
「すごい」
「本気で言ってる?」
「本気」
アストルフォは衛二の肩に軽く頭を寄せた。
「戦うより、我慢する方が難しい時もあるでしょ?」
衛二は言葉に詰まった。
今日の自分には、その意味がよく分かる。
剣を作る方が楽だった。
無窮剣界を開く方が早かった。
でも、それをしなかった。
アストルフォを信じた。
凛たちを信じた。
待った。
それは、確かに戦いだった。
「……ありがとう」
「うん」
「アストルフォがいなかったら、たぶん約束破ってた」
「じゃあ、ボク役に立った?」
「めちゃくちゃ」
アストルフォの顔が明るくなる。
「やった」
「最高のサーヴァントだからな」
アストルフォが固まる。
「エイジ」
「何?」
「車の中でそれ言う?」
「事実だろ」
「またずるい……」
アストルフォは赤くなった顔を隠すように、衛二の肩に額を押しつけた。
凛が助手席から言う。
「甘い空気を出すなら、帰ってからにしなさい」
「はい」
「アストルフォも」
「はい!」
士郎は運転しながら、少しだけ笑った。
ユイは静かに窓の外を見ている。
ミライは自分の手を見つめていた。
「待つこと」
ミライが呟く。
ユイが彼女を見る。
「ミライ?」
「私は、待てなかった。でも今日、少しだけ待てた」
「ええ」
「白い蕾ができた」
「ええ」
「まだ、戻れる?」
ユイは迷わず答えた。
「一緒に戻りましょう」
ミライは小さく頷いた。
その横顔は、まだ泣きそうだった。
でも、昨日までの冷たさはもうなかった。
衛二はそれを見て、胸の奥に小さな光を感じた。
返事を拒む願い。
沈黙冠。
未答区域。
黒い花。
まだ何も終わっていない。
黒い花は咲いたままだ。
沈黙冠も消えていない。
白い蕾が開くかどうかも分からない。
でも、今日一つだけ分かったことがある。
返事が届かない時、無理に言葉を押し付けなくてもいい。
隣にいること。
待つこと。
沈黙に温度を持たせること。
それも、答えを探すための一歩なのだ。
◇
その夜。
遠坂邸の自室で、衛二はベッドに座っていた。
アストルフォは隣にいる。
凛の回路チェックは終わり、今日も魔術使用は禁止継続となった。
説教もあった。
ただし、思ったより短かった。
理由は、衛二が本当に魔術を使わなかったからだ。
凛は最後にこう言った。
『約束を守ったことは評価するわ。……よく我慢したわね』
その一言は、衛二の胸に残っている。
士郎も夕食後、静かに言った。
『剣を抜かない選択も、立派な戦いだ』
それも残っている。
そして今、アストルフォはその二人以上に衛二を褒めようとしていた。
「エイジ、今日は本当にえらかった」
「もう何回目だ?」
「いっぱい言うって決めたから」
「決めてたのか」
「うん」
アストルフォは衛二の前に座り、両手を握る。
「魔術使わなかった。投影しなかった。無窮剣界も開かなかった。怖いって言えた。相談できた。ボクを信じてくれた。待てた」
一つずつ数えるように言う。
「全部えらい」
衛二は視線を逸らした。
「……褒められすぎると、落ち着かない」
「じゃあ、ぎゅーしながら褒める?」
「それは落ち着くのか?」
「ボクは落ち着く」
「アストルフォがかよ」
アストルフォは笑って、衛二を抱きしめた。
衛二も抵抗せず、腕を回す。
温かい。
返事の庭の沈黙が、まだ胸の奥に残っている。
黒い花の記憶も消えない。
雨の中で待つ少女の姿も。
だが、アストルフォの温もりがあると、それらが衛二自身を飲み込むことはなかった。
「エイジ」
「ん?」
「今日、ボクを信じてくれてありがとう」
「こちらこそ、守ってくれてありがとう」
「えへへ」
アストルフォは衛二の肩に頬を寄せた。
「ボク、エイジに信じてもらえるの、すごく嬉しい」
「いつも頼ってるだろ」
「もっと頼っていいよ?」
「これ以上?」
「うん。もっと」
「アストルフォが大変だ」
「大変でもいい」
アストルフォは少しだけ真面目な声になった。
「エイジの大変を、半分もらえるなら嬉しい」
衛二は目を閉じた。
半分。
全部ではなく、半分。
それが、今の衛二にはとても優しく聞こえた。
「じゃあ、俺もアストルフォの大変を半分もらう」
「えっ」
「嫌か?」
「嫌じゃない。嬉しい。でも、エイジもずるい」
「またそれ」
「だって、ボクが甘やかす側だったのに」
「たまには逆でもいいだろ」
衛二は少し迷ってから、アストルフォの桃色の髪をそっと撫でた。
アストルフォがびくっと反応する。
「エイジ?」
「嫌だったか?」
「嫌じゃない。すごく好き」
アストルフォは目を細めた。
「エイジのなでなで、あったかい」
「上手くないけど」
「上手いよ。気持ちが入ってるから」
「それは評価基準が甘い」
「甘くていいの」
アストルフォは幸せそうに笑った。
その笑顔を見て、衛二は思う。
返事を拒む願いに、すぐ答えは出せない。
沈黙冠の問いは、まだ重い。
でも、こうして誰かの髪を撫でる時間。
誰かと大変を半分にしようとする気持ち。
それも、問いに向き合うための力なのだろう。
「アストルフォ」
「なあに?」
「明日も、隣にいてくれ」
アストルフォは顔を上げる。
その瞳が、部屋の灯りを受けてきらきら光った。
「もちろん」
彼は少し身を乗り出し、衛二の額にそっと唇を触れさせた。
「契約、再確認」
小さく囁く。
「ボクはエイジの隣にいる。エイジが怖い時は手を握る。エイジが待つ時は、一緒に待つ。エイジが沈黙に飲まれそうになったら、ちゃんと呼ぶ」
衛二は頷く。
「俺も、アストルフォの隣にいる」
アストルフォの頬が赤くなる。
「……うん」
「アストルフォが怖い時は、俺も手を握る」
「うん」
「大変は半分」
「うん」
「好きも」
衛二は少しだけ迷ってから言った。
「たぶん、半分じゃなくて増える」
アストルフォは完全に固まった。
そして次の瞬間、顔を真っ赤にして衛二の胸に飛び込んだ。
「エイジ、ずるい!」
「それ今日何回目だ?」
「いっぱい!」
衛二は笑った。
アストルフォも笑った。
返事の庭の沈黙は、まだ消えていない。
けれど、この部屋には温度があった。
笑い声があった。
返事ではなく、待つための沈黙を見つけた夜。
衛二はアストルフォを抱きしめながら、静かに目を閉じた。
◇
同じ頃。
柳洞寺の地下。
返事の庭の奥で、黒い花は静かに揺れていた。
その根元に生まれた白い蕾は、まだ閉じたままだ。
花弁には、何の言葉も刻まれていない。
返事ではない。
答えでもない。
ただ、待っている。
沈黙冠は黒い丘の上で動かない。
しかし、その輪郭はわずかに歪んでいた。
まるで、初めて理解できないものに触れたかのように。
――沈黙を返す。
その概念が、冠の内側で静かに反響する。
沈黙は拒絶である。
沈黙は断絶である。
沈黙は終わりである。
そう定義されていたはずだった。
だが、遠坂衛二は違う沈黙を持ち込んだ。
隣にいるための沈黙。
待つための沈黙。
言葉にできない痛みを、無理に言葉へ変えないための沈黙。
沈黙冠の黒い輪郭が、わずかに震える。
問いは終わらない。
むしろ、深くなった。
――ならば、待つことを拒む願いには、どう答える。
白い蕾が、ほんの少しだけ震えた。
返事の庭は、次の問いを抱えたまま眠りにつく。
そして冬木の夜の上に、静かな月が浮かんでいた。
コメント
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もう第八話、読み終わったわ…。 今回の返事の庭の描写、めちゃくちゃ綺麗で重かった。白い花畑と黒い丘の対比が印象に残ったし、そこで咲いた黒い花の記憶が雨の中で待つ女の子の話で、グッと来たよ。 それに、沈黙冠に対して「隣にいるための沈黙」を選んだ衛二の冷静さと、アストルフォが「手を離さない」って言い続けてくれるのが本当に温かかった。戦わず、待つことの大切さをああやって描いてくれるの、すごく好きだわ。
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