岸田さんは親しみやすく、気さくな人だ。 僕達は気が付くと長時間話し込んでいたらしく、窓から外を覗けば辺りはすっかり暗闇に包まれ、均等に並んでいる街灯も周囲を照らしていた。 それもその筈、時刻を確認するともうすぐ20時になるところだ。
「もうこんな時間か。高校生をこんな時間まで留めちゃってごめんね」
「いえ、たくさん話が聞けて良かったです」
本当に様々な話を聞くことができ、有意義な時間だった。ここ最近ルイ以外の人とこんなに長く話していなかった為、今は少し不思議な感覚もする。
「思ったより話し込んじゃったね。 この栞もありがとう」
「僕は届けただけで、お礼ならルイに伝えてあげてください」
「あ、そっか。でも今日はありがとう」
岸田さんと別れ、喫茶店を出る頃には20時10分になっていた。 栞を渡してすぐ帰るつもりだったのが最終的にこんな時間になってしまった。 去り際に岸田さんから、まだ話し足りないからとお互いの連絡先を交換した。 僕のスマートフォンに新規連絡先が登録されたのはいつぶりだろうか。 今思えば、ルイとも連絡先を交換していない。まさかルイより先に岸田さんと交換するとは思わなかった。 明日の休み時間にでもルイに自慢してやろう。まぁ、ルイには自慢になるか分からないが…
翌日の学校。
午前の終わりを知らせるチャイムが鳴ると同時に教室から屋上を目掛け一目散に走り出す。その道中、通り過ぎる生徒達は僕を見て動揺を隠せずザワザワとしていた。
足音がうるさい程響く屋上への階段を駆け上り、勢いよく鉄の扉を押し開ける。 気持ちのいい空気を目一杯吸い込み彼の名を呼ぶ。
しかし彼からの返事は無かった。
どうして…?なぜ彼の姿が無い?
今までは必ず僕より先に屋上に居て、寝そべり雲の流れをじっと見ていたのに。 いや、気分屋な彼のことだ。 きっとそのうちフラフラと現れるだろう。 僕は先にフェンスの側に座り込み、持参した弁当の蓋を開け、昼食を摂る。
あれから数週間が経った今も、屋上にルイの姿は無い。
ここ最近、どうも身体が重たく感じる。何事にも意欲がわかず頭を悩ませる。
いつも二人で座っている場所で一人ぼんやり空を見上げていると、手に持っていたスマートフォンが振動を起こす。 画面を見ると、岸田さんからのメッセージが届いていた。
『久しぶり!今日の放課後、よかったら僕の店で話さない?』
メッセージと共に可愛らしい犬のスタンプが送られていた。 それを見て小さく笑いを漏らす。
『学校が終わり次第向かいます』と端的に返信した後、スマートフォンの電源を落とし、僕もそっと目を閉じた。
時間の進みは非常に遅く、やっと放課後になり岸田さんの働く本屋へと向かう。
カランコロンと音を鳴らし扉を開ける。 店内はあの時と変わらず、本のインクの匂いや、珈琲のほろ苦い香りが全身を一瞬にして包み込む。 少し奥に進むと、右にはカウンター席、左にはソファ席や窓際席など、様々な形で本を読めるスペースが設けられている。 更に植物も沢山置かれ、心做しか空気が綺麗だと感じる。
店内全体を見渡していると、カウンターから声を掛けられた。
「いらっしゃい旬くん。お好きなお席へどうぞ」
そう突然言われ、どこの席にしようか迷っていると、岸田さんがコーヒーカップを磨きながら自身の目の前のカウンター席を指差す。
「おすすめはここだよ」
はっきりとは言っていないが、指差す席に座るよう促されているような気がして、僕は素直にその席に座ることにした。
ドリンクは岸田さんイチオシのカフェラテを注文。 カフェラテを待つ間、せっかくの機会だと思い店内の壁全面に埋められた本棚から、試しに小説を一冊抜き取り、席に戻り開いてみる。
僕は普段あまり読書をしない。 嫌いという訳では無いが、好き好んで読む事もしない。 そのせいか、新鮮な気持ちでなんだか心が高鳴っている気がする。
本を読むことで気付いたことがある。
店内に流れる音楽や香り豊かな珈琲の匂い、他のお客さんが紙を捲る音などこの空間に詰まっていること全てが絶妙に組み合わさり、読書をする上でこれ以上適している環境が無いと思える程、集中して読み進めることができた。 この店内は読書の為に設計されている。
あっという間に一冊を読み終え、顔を上げると目の前には本が何冊も積み重ねられていた。その迫力に驚き目を丸くしていると、本でできた柱の影から岸田さんが顔を覗かせた。
「旬くん凄い集中力だねぇ。素晴らしい!あ、これ全部旬くんへのおすすめ」
「え、こんなに?」
岸田さんに僕の本の好みは教えていない。 それ以前に、僕自身も自分の本の好みを把握していないのにどうやってこの量を厳選したのだろう。
「僕もこんな量になるとは…ごめんね。 でも、それ読んでる旬くんすごく楽しそうだったから、おすすめ何冊か教えてあげようと思ったらあれもこれもって歯止めが効かなくなっちゃって…」
「楽しそう…?」
「うん。実はその小説、世界観に没頭しやすい話になってるんだけど、読み進めていくうちに他のことなんかすっかり忘れるぐらい夢中になれるって、他のお客さんにも評判なんだ」
確かに岸田さんの言う通り、この小説の世界観にのめり込み、ずっと考えていたルイのことをすっかり忘れていた。
視線をもう一度本へ移す。手元の表紙をじっと見詰めると、今更タイトルが書かれているのに気が付いた。そこには"悩める君へ"と書かれていた。
「…何か悩みがあるなら、僕に話してご覧?」
隣に目をやると、片手には注文したカフェラテを持ち僕が座っている席の隣に岸田さんが座っていた。
岸田さんはまるで仏のような優しい表情を浮かべている。僕の視線は彼を捉え放さない。
次第に視界がぼやけ始め、目の縁から水が滲み、両方の目尻から溢れたそれは頬を伝う。
僕は今泣いている。
声を出さずに泣いている。
人の前で包み隠さず涙を流している。
どれくらい泣いていただろう。もう体内の水分が出尽くしてしまったのでは無いだろうか。 その間、岸田さんは僕の背中を摩り続けてくれた。慰めの言葉は掛けず、ただ無言で。
永遠に湧き出る涙は突然ピタリと止まった。きっと目は充血しているだろう。 それとは裏腹に心は青空のように晴れている。
「…すみません」
「すっきりした?」
「お陰様で、」
よかったと微笑む岸田さん。
貴方はどうしてそんなに心優しいのか。皇牙 にも少し分けてやって欲しい。
岸田さんに渡された保冷剤で目元を冷やし腫れを早く治るようにする。 またしても岸田さんは何も話さない。
保冷剤が少し溶け始めた頃、僕はぽつりと呟いた。
「実は…岸田さんと会った日から、ルイと会えてないんです…」
「うん」
「ずっと見ないからすごく心配で」
「うん、」
「授業中も、寝る時も休みの日もずっと考えて…」
「うん」
「もうご飯さえも喉を通らなくて…辛いです」
「そっかぁ」
「…ルイは、どこへ行ったんでしょう」
なにかに縋りたい一心で、漠然とした疑問を口にする。 岸田さんに言ったって何も解決できる筈もないのに。
「今度の土曜日、空いてる?」
突然呑気なことを口にする岸田さん。 きっと僕を励ます為に外へ連れ出そうとしているのだろう。 特に予定も無く断る理由もない。 どうせなら甘えさせてもらおうと予定が無いことを伝えた。
「よし!じゃあ、ルイに会いに行こう!」
「……は?」
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