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脳死で書きましたのと、下書き程度なんでちょっと読みにくいです!
雨の音が、窓を静かに叩いていた。
病院の廊下はいつもと変わらない。
消毒液の匂い。
遠くから聞こえるナースコール。
規則正しく鳴る機械音。
毎日見ている景色なのに、なぜか今日は少しだけ重く感じた。
俺はカルテを見つめながら小さく息を吐く。
患者名 りうら
15歳
急性白血病
俺の担当になって、一週間。
まだ中学生だ。
本来なら友達と遊んで、学校で笑って、将来の夢なんかを話している年頃。
それなのに。
この子は、最初に会った日から一度も笑っていない。
「……」
カルテを閉じる。
そろそろ回診の時間だ。
俺は立ち上がり、病室へ向かった。
コンコン。
「失礼します。」
病室に入る。
窓際のベッド。
そこに、りうらはいた。
雨が降る窓の外を、ぼんやり見つめている。
俺が入ってきたことに気づいているはずなのに、振り向かない。
ただ、静かに雨を眺めていた。
「体調はどう?」
声をかける。
数秒の沈黙。
「……普通。」
小さい声。
それだけだった。
「熱は?」
「ない。」
「食欲は?」
「別に。」
会話が続かない。
でも、それは今に始まったことじゃない。
この一週間、ずっとそうだった。
必要最低限しか話さない。
自分から何かを言うこともない。
質問されたことにだけ答える。
まるで、自分のことに興味がないみたいに。
俺は少し考えてから、隣の椅子に座った。
「雨、好き?」
りうらがようやくこちらを見る。
「……なんで?」
「いや、ずっと見てるから。」
すると彼はまた窓へ視線を戻した。
「好きじゃない。」
「そっか。」
「でも嫌いでもない。」
「うん。」
「どうでもいい。」
その言葉に、胸が少し痛んだ。
どうでもいい。
それは雨のことじゃない。
きっと。
何もかも。
どうでもいいと思っているような声だった。
俺は知っている。
その声を。
その顔を。
その目を。
――昔、見たことがある。
「先生。」
急に呼ばれて顔を上げる。
「なに?」
「俺、死ぬ?」
……
心臓が止まったような気がした。
あまりにも突然で。
あまりにも静かな声だった。
「どうしてそう思う?」
「白血病だから。」
「……」
「ネットで調べた。」
今の時代、誰でも簡単に病気について調べられる。
それが良いことでもあり、残酷なことでもある。
いろいろな情報を見て、不安になる人も多い。
りうらも、その一人なんだろう。
「死ぬ人もいるって書いてあった。」
「そうだね。」
俺は嘘をつかなかった。
「でも、治療で元気になる人もたくさんいる。」
「……」
「今は昔より治療も進んでる。」
「……そう。」
返事はそれだけ。
希望を持った顔もしない。
安心した顔もしない。
ただ。
そう。
とだけ答える。
そして。
「別に、死んでもいいけど。」
俺は息を止めた。
その瞬間だった。
りうらが、ゆっくりこちらを見る。
その目。
何も映していないような瞳。
全部を諦めてしまったような顔。
その瞬間。
俺の脳裏に、ある人の顔が浮かんだ。
――姉だ。
俺の姉。
五歳年上だった。
優しくて。
よく笑って。
いつも俺の手を引いてくれた人。
でも。
姉も白血病だった。
最初は違った。
「大丈夫。」
って笑っていた。
「絶対治るよ。」
って言っていた。
俺も信じていた。
小さかった俺は、病気なんて治るものだと思っていた。
だって姉は強かったから。
いつだって笑っていたから。
だけど。
少しずつ。
少しずつ。
笑顔が減っていった。
窓を見る時間が増えた。
外へ行きたいと言わなくなった。
絵を描かなくなった。
そしてある日。
俺は病室で姉に聞いた。
「お姉ちゃん、何見てるの?」
姉は窓を見たまま言った。
「何も。」
その時の目。
今でも忘れられない。
全部を諦めた目だった。
生きることを、もう手放してしまったような目だった。
俺は怖かった。
すごく。
すごく怖かった。
だけど、何もできなかった。
子どもだった俺には、何も。
そして。
その後。
姉は静かに亡くなった。
俺は泣いた。
たくさん泣いた。
どうして。
なんで。
もっと何かできなかったんだろう。
何度も思った。
だから俺は決めた。
医者になるって。
同じ目をした人を救いたい。
生きることを諦めてしまった人に、少しでも寄り添える人になりたい。
そう思って、ここまで来た。
なのに。
今。
目の前にいる。
りうらの目は。
あの日の姉に、あまりにも似ていた。
「先生?」
我に返る。
「……ごめん。」
「なんか変。」
「そうかな。」
「うん。」
りうらは俺を見る。
そして。
「先生、疲れてる?」
少しだけ心配そうに言った。
俺は驚いた。
自分のことはどうでもいいと言った子が。
俺を気遣った。
ほんの少しだけ。
「大丈夫。」
そう答えると、りうらは小さく頷いた。
また窓の外を見る。
雨はまだ降っていた。
静かな病室。
その横顔を見ながら、俺は思う。
この子は、本当に生きたいと思っているんだろうか。
それとも。
もう全部諦めてしまっているんだろうか。
もし、後者なら――
俺は。
今度こそ。
何かできるんだろうか。
窓を打つ雨音だけが、静かに響いていた。
雨の音が、静かな病院の窓を叩いていた。
ぽつ、ぽつ、と一定のリズムで降り続ける六月の雨。
俺は小児病棟のナースステーションでカルテをめくりながら、小さく息を吐いた。
時刻は午後四時過ぎ。
外は曇り空のせいで、もう夕方のように暗い。
病院という場所は、天気の変化に敏感だ。
晴れの日は少しだけ明るい空気になる。
逆に雨の日は、みんな少し静かになる。
患者も、家族も、医療スタッフも。
理由なんてない。
ただ、なんとなく。
雨には人の気持ちを沈ませる力がある。
「ないこ先生、次のお部屋お願いします。」
看護師に声をかけられ、俺は顔を上げた。
「あぁ、ありがとう。」
手渡されたカルテを見る。
表紙に書かれた名前。
――りうら。
十五歳。
急性白血病。
俺は、その文字を見つめたまま少しだけ動きを止めた。
担当になって一週間。
けれど、いまだにあの子のことが分からない。
食事は最低限。
会話も最低限。
痛いとも、苦しいとも、寂しいとも言わない。
同年代の子なら、不安になって当然だ。
泣く子もいる。
怒る子もいる。
将来のことを心配する子もいる。
だけど、りうらは違う。
何も言わない。
何も望まない。
まるで……。
「……全部諦めてるみたいなんだよな。」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
俺は立ち上がる。
カルテを抱え、病室へ向かった。
廊下を歩く。
白い壁。
白い天井。
規則正しく並んだ病室。
この景色には、もう慣れた。
医者になって七年。
何人もの患者を見てきた。
助かった命。
救えなかった命。
笑顔で退院していく子。
最後まで病室で過ごした子。
どれも忘れられない。
医者は、命に慣れてはいけない。
命に慣れてしまったら、きっと大切なものを見失う。
だから俺は、一人ひとりを覚えている。
……覚えているはずなのに。
それでも、どうしても忘れられない人がいた。
姉だ。
俺の五歳上の姉。
白血病だった。
俺が十歳の時に亡くなった。
今でも鮮明に覚えている。
病院の匂い。
窓の外の空。
姉の笑顔。
そして――最後の目。
あの目だけは、何年経っても忘れられない。
生きることを諦めてしまった目。
絶望している目。
「もういいや」と全てを手放した目。
その目が、今。
りうらと重なる。
俺は病室の前で立ち止まった。
コンコン。
「失礼します。」
扉を開ける。
個室。
窓際のベッド。
そこに、りうらはいた。
今日も窓を見ている。
雨の降る空を、ぼんやりと。
俺が入ってきたことにも気づいているはずなのに、振り向かない。
「こんにちは。」
「……こんにちは。」
小さな返事。
俺はベッドの横へ行く。
「体調はどう?」
「普通。」
「熱は?」
「ない。」
「ご飯は?」
「食べた。」
「気分は?」
「普通。」
相変わらずだ。
短い返事しか返ってこない。
俺は苦笑した。
「りうらってさ。」
「……何。」
「会話、苦手?」
すると、りうらがゆっくりこちらを見た。
「別に。」
「じゃあ、話したくないタイプ?」
「……別に。」
「『別に』が多いな。」
「そう?」
「うん。」
すると、少しだけ。
本当に少しだけ。
りうらの口元が動いた。
笑った……のかもしれない。
けれど、それは一瞬だった。
すぐに無表情へ戻る。
そして再び窓を見る。
「雨、降ってる。」
「そうだね。」
「嫌だな。」
「雨嫌い?」
「ううん。」
「好き?」
「ううん。」
「じゃあ?」
「……どうでもいい。」
その言葉に、胸が痛んだ。
どうでもいい。
それは雨のことじゃない。
きっと。
色んなものに対して。
りうらはそう思っている。
俺にはそう見えた。
病室が静かになる。
雨音だけが聞こえる。
すると、りうらが突然言った。
「先生。」
「ん?」
「俺、死ぬ?」
思わず息を止めた。
静かな声だった。
怖がっているわけでもない。
泣いているわけでもない。
ただ、天気を聞くような口調。
「どうしてそう思う?」
「ネット。」
「調べたんだ。」
「うん。」
りうらは窓を見たまま続ける。
「白血病って死ぬことあるんでしょ。」
「……そうだね。」
俺は嘘をつかなかった。
医者だからこそ、希望だけを語ることはできない。
「でも、治療で元気になる人もたくさんいる。」
「ふーん。」
「今は治療も進歩してる。」
「そう。」
返事は、それだけ。
何も響いていないようだった。
そして。
「別に、死んでもいいけど。」
その瞬間。
俺の頭の中で、何かが弾けた。
あの日だ。
あの日の病室。
白いベッド。
窓から差し込む夕日。
姉が言った。
『ねぇ、ないこ。』
『何?』
『もし私がいなくなっても、泣かないでね。』
『え?』
『だって、疲れちゃったから。』
その時の目。
窓の外を見ていた。
何も映していなかった。
生きることを諦めていた。
絶望していた。
俺は何も言えなかった。
十歳の子どもだった。
何もできなかった。
何も。
そして。
数か月後。
姉は亡くなった。
俺は泣いた。
何度も何度も考えた。
どうして気づかなかったんだろう。
どうして何もできなかったんだろう。
どうして。
どうして。
その答えを探したくて。
救いたくて。
俺は医者になった。
もう二度と、同じ後悔をしないために。
「先生。」
声がして、現実へ戻る。
目の前には、りうらがいた。
「……ごめん。」
「大丈夫?」
俺は驚いた。
今。
この子は俺を心配したのか。
「先生、顔色悪い。」
「そんなことないよ。」
「ある。」
真っ直ぐな目。
いや。
違う。
真っ直ぐじゃない。
その目の奥には何もない。
空っぽだ。
なのに、他人を気遣う優しさだけが残っている。
それが余計につらかった。
俺は椅子に座った。
「りうら。」
「何。」
「死んでもいいって、本当に思ってる?」
沈黙。
数秒。
十秒。
雨音だけが響く。
そして。
「……分かんない。」
小さな声。
「分かんない?」
「うん。」
りうらは窓を見る。
「治るかもしれないって言われても、実感ない。」
「……。」
「学校にも行けない。」
「うん。」
「友達とも遊べない。」
「うん。」
「先のこと考えるの、疲れた。」
俺は何も言えなかった。
十五歳。
まだ子どもだ。
それなのに。
この子は、もう疲れている。
未来を考えることに。
生きることに。
「先生。」
「ん?」
「俺ね。」
りうらは少しだけ笑った。
寂しそうに。
「昔は、プロゲーマーになりたかった。」
「そうなんだ。」
「ゲーム好きだったから。」
「今も好き?」
「……分かんない。」
「そっか。」
「全部、分かんなくなっちゃった。」
その言葉に。
俺の胸が締め付けられた。
夢が分からない。
好きなことが分からない。
生きたいかも分からない。
それはきっと。
病気そのものよりも苦しい。
俺は、ゆっくり息を吸った。
そして。
「りうら。」
「何。」
「俺、君に生きてほしい。」
りうらが目を見開いた。
「……なんで?」
「医者だからっていうのもある。」
「うん。」
「でも、それだけじゃない。」
「……。」
「君はまだ十五歳だ。」
俺は真っ直ぐ彼を見る。
「まだ見てない景色がたくさんある。」
「……。」
「まだ知らないことも、楽しいことも、いっぱいある。」
「……。」
「だから、簡単に諦めないでほしい。」
沈黙。
雨音だけが聞こえる。
そして。
りうらが小さく聞いた。
「先生。」
「ん?」
「……俺、本当に生きたいのかな。」
その声は。
今にも消えてしまいそうなくらい小さかった。
俺はすぐに答えられなかった。
代わりに。
静かに言った。
「それを、一緒に探そう。」
「……一緒に?」
「うん。」
「そんなの、医者の仕事じゃないよ。」
俺は少しだけ笑った。
「そうかもしれない。」
「変な先生。」
「よく言われる。」
すると。
本当に少しだけ。
ほんの少しだけ。
りうらが笑った。
数秒にも満たない、小さな笑顔。
だけど。
俺には、それが何より嬉しかった。
窓の外では、まだ雨が降っている。
けれど。
灰色の空の向こうに、少しだけ光がある気がした。
俺は思う。
今度こそ。
今度こそ、諦めたくない。
あの日の姉にはできなかったことを。
目の前にいる、この子には。
少しでも。
生きたいと思える未来を見せたい。
そう、強く思った。
次の日。
俺はいつもより少し早く病院へ来ていた。
六月の雨は止み、窓の外には薄い青空が広がっている。
けれど、俺の頭の中にあるのは昨日のことばかりだった。
『……俺、本当に生きたいのかな。』
りうらの、あの声。
今にも消えてしまいそうな、小さな声。
俺は何度も患者に「生きたいですか」と聞かれてきた。
逆に、「生きたくない」と言われたこともある。
けれど、「生きたいか分からない」と言った子は少なかった。
それは、「生きたい」と「諦めたい」の間でずっと揺れているということだから。
誰よりも苦しい場所にいる。
俺はコーヒーを一口飲んだ。
……苦い。
眠気なんてとっくに飛んでいる。
「ないこ先生。」
声を掛けられ、振り向く。
看護師の一人が、カルテを持って立っていた。
「おはようございます。」
「おはよう。」
「今日も早いですね。」
「ちょっとね。」
すると看護師は、少し笑った。
「りうらくんのことですか?」
俺は驚く。
「……分かる?」
「分かりますよ。」
小児病棟の看護師たちは、驚くほどよく見ている。
「先生、ここ数日ずっと気にしてますから。」
「そんなに?」
「そんなにです。」
俺は苦笑した。
否定はできない。
気になっている。
かなり。
もちろん患者だからというのもある。
だけど、それだけじゃない。
あの子を見ると、姉を思い出す。
忘れたことなんてないのに、より鮮明に。
あの日の病室を。
あの日の後悔を。
「……俺、少し怖いのかもしれないな。」
「え?」
「なんでもない。」
俺は立ち上がった。
「回診行ってくる。」
「はい。」
廊下を歩く。
朝の病院は少しだけ慌ただしい。
朝食の片付け。
検査の準備。
看護師たちの足音。
患者の家族の話し声。
そんな音の中を歩いていく。
そして。
りうらの病室の前で止まった。
コンコン。
「失礼します。」
扉を開ける。
すると、いつもと違う光景が目に入った。
「あ。」
思わず声が漏れる。
りうらが窓を見ていなかった。
ベッドの上で、何かを書いていた。
小さなノート。
黒い表紙。
俺に気づくと、慌てて閉じる。
「……見た?」
「いや、何も。」
「嘘。」
「ほんと。」
すると、りうらは少しだけ睨んだ。
昨日より表情がある。
それだけで、少し安心する。
「おはよう。」
「……おはよう。」
「体調どう?」
「普通。」
「熱は?」
「ない。」
「ご飯は?」
「食べた。」
「よし。」
いつもの会話。
だけど。
今日は少し違う。
りうらの目に、昨日よりわずかに光がある気がした。
俺は椅子に座る。
「さっき何書いてたの?」
「秘密。」
「そっか。」
「聞かないの?」
「秘密なんでしょ?」
「……そうだけど。」
なぜか少し残念そうな顔をした。
俺は内心、少し面白くなる。
「じゃあ、気が向いたら教えて。」
「……。」
「無理にとは言わない。」
「……うん。」
沈黙。
すると。
「先生。」
「ん?」
「先生って、子どもの頃の夢あった?」
唐突な質問だった。
「夢?」
「うん。」
俺は少し考える。
「小さい頃は、ケーキ屋。」
「え。」
「え?」
「意外。」
「なんで。」
「医者って感じ。」
思わず笑ってしまう。
「最初から医者になりたかったわけじゃないよ。」
「そうなんだ。」
「りうらは?」
りうらが窓を見る。
「……昨日言った。」
「プロゲーマー?」
「うん。」
「ゲーム好きなんだ。」
「前は。」
「今は?」
「……分かんない。」
また、その言葉。
分かんない。
最近のりうらの口癖になっている。
でも。
俺は思う。
本当にどうでもいいなら、夢の話なんてしない。
本当に諦めているなら、「前は」と過去形で悲しそうに言ったりしない。
この子の中には、まだ何か残っている。
それが小さすぎて、自分でも見えなくなっているだけだ。
「先生。」
「ん?」
「なんで医者になったの?」
俺の手が止まった。
その質問をされるたびに、胸が少し痛む。
「……大切な人が病気だったから。」
「家族?」
「うん。」
「今は元気?」
俺は少し黙った。
そして。
「亡くなった。」
静かな声で答えた。
りうらの目が大きくなる。
「……ごめん。」
「謝らなくていいよ。」
「でも……。」
「大丈夫。」
大丈夫。
そう言えるようになるまで、ずいぶん時間がかかった。
子どもの頃の俺なら、絶対に言えなかった。
「姉だった。」
「……。」
「白血病。」
病室が静かになった。
りうらが、俺を見る。
「……俺と同じ。」
「そう。」
「……。」
「優しい人だったよ。」
気づけば、自然と話していた。
「よく笑って。」
「うん。」
「絵を描くのが好きで。」
「うん。」
「俺のこと、すごく可愛がってくれてた。」
懐かしい。
本当に。
今でも、昨日のことみたいに思い出せる。
「でも、病気が進むにつれて……笑わなくなった。」
りうらが静かに聞いている。
「最後は、窓ばっかり見てた。」
「……。」
「何を考えてたのか、俺には分からなかった。」
「……。」
「でも、一つだけ分かった。」
俺はゆっくり息を吸う。
「すごく苦しかったんだと思う。」
沈黙。
しばらくして。
りうらが小さく聞いた。
「……先生。」
「ん?」
「先生のお姉さんも……生きたいか分かんなくなってたのかな。」
その言葉に、胸が締め付けられる。
俺は答えられなかった。
だって。
俺もずっと考えているから。
姉は最後まで生きたかったのか。
それとも、疲れてしまったのか。
本当のことは、もう誰にも分からない。
「……分からない。」
俺は正直に答えた。
「そっか。」
「でも。」
俺はりうらを見る。
「姉が生きてた証は、今も残ってる。」
「……証?」
「うん。」
「何。」
俺は少し笑った。
「俺。」
「え?」
「姉がいたから、俺は医者になった。」
「……。」
「姉がいたから、今ここにいる。」
「……。」
「だから、いなくなっても、全部消えるわけじゃない。」
りうらは何も言わなかった。
ただ、じっと俺を見ていた。
その目に。
昨日より少しだけ。
何かが宿っているような気がした。
そして。
りうらは、ゆっくり黒いノートを見つめた。
小さく。
本当に小さく。
「……そっか。」
そう呟いた。
その意味を、俺はまだ知らなかった。
そのノートの名前が
『命願日記』だということも。
そして。
その中に、りうらが誰にも言えなかった願いを書き始めていたことも。
この時の俺は、まだ知らなかった。
それから数日が経った。
六月の雨は相変わらず続いていた。
窓を叩く雨音にも、俺はすっかり慣れてしまった。
けれど、一つだけ変わったことがある。
りうらが、少しずつ話すようになった。
「先生。」
「ん?」
「今日の給食……じゃない、ご飯、まずかった。」
「病院食だからなぁ。」
「前より薄い。」
「栄養考えてるんだよ。」
「俺、退院したらラーメン食べたい。」
俺は思わず顔を上げた。
「ラーメン?」
「うん。」
「味噌?」
「醤油。」
「こだわりあるんだ。」
「ある。」
少しだけ、得意げな顔。
それがなんだか嬉しくて、俺は笑った。
たったそれだけの会話。
だけど、一週間前なら考えられなかった。
以前のりうらなら、「どうでもいい」と答えていたはずだ。
今は違う。
ラーメンが食べたい。
そんな小さな願いを口にできるようになった。
それだけで、大きな前進だった。
「先生。」
「何?」
「笑ってる。」
「そう?」
「うん。」
「りうらが話してくれるから。」
すると、りうらが少し目を丸くした。
「……そんなことで?」
「そんなこと、じゃないよ。」
俺は言った。
「話してくれるの、嬉しい。」
「……変なの。」
そう言いながらも、りうらは少しだけ笑った。
本当に、少しだけ。
けれど、その笑顔を見るたびに思う。
この子はまだ、生きることを完全には諦めていない。
そう信じたかった。
その日の夕方。
俺は病室へ向かった。
コンコン。
「失礼します。」
返事がない。
寝ているのだろうか。
そう思いながら扉を開ける。
すると。
りうらは窓際に座っていた。
手には、あの黒いノート。
真剣な顔で何かを書いている。
「お、執筆中?」
声をかけると、びくっと肩を揺らした。
「……先生。」
「ごめんごめん。」
「ノックした?」
「したよ。」
「聞こえなかった。」
珍しい。
それくらい集中していたのか。
りうらは慌ててノートを閉じた。
「秘密?」
俺が聞くと、
「……うん。」
と頷く。
そして、少し考え込むように下を向いた。
「でも……。」
「うん?」
「先生なら、いいかも。」
そう言って、黒いノートを見つめる。
「見せてもいい。」
俺は驚いた。
「いいの?」
「……うん。」
りうらはゆっくりとノートを差し出した。
俺は受け取る。
黒い表紙。
何も書かれていない。
ページを開こうとした、その時。
「待って。」
「ん?」
「……笑わないで。」
その声は、少し震えていた。
俺はノートを閉じる。
そして、りうらを見る。
「笑わないよ。」
「ほんと?」
「うん。」
「絶対?」
「絶対。」
数秒。
りうらは俺を見つめた。
そして、小さく頷いた。
「……じゃあ、見て。」
俺はゆっくりページを開いた。
一ページ目。
そこには、少し丸い字で書かれていた。
『命願日記』
生きてたらしたいことを書くノート。
もし死んでも、やりたいことがあったって忘れたくないから。
俺は、言葉を失った。
ページをめくる。
・ラーメンを食べる
・ゲームをする
・友達とカラオケに行く
・海を見る
・夜に星を見る
・桜をもう一回見る
一つ一つ。
本当に小さな願い。
だけど、その文字を見た瞬間。
胸が熱くなった。
「……先生?」
りうらが不安そうに俺を見る。
俺は慌てて顔を上げた。
「ごめん。」
「変だった?」
「いや。」
「子どもっぽい?」
「違う。」
「じゃあ……。」
俺は、ゆっくり首を横に振った。
「すごく、いいノートだと思う。」
「……ほんと?」
「うん。」
りうらが少し目を見開く。
「笑わない?」
「笑わない。」
「変じゃない?」
「全然。」
すると。
りうらの目に、うっすら涙が浮かんだ。
「……そっか。」
その声は、小さかった。
俺はノートを見つめる。
そして、気づく。
この子は、「死んでもいい」と言っていた。
でも、本当は違う。
生きていたらやりたいことが、こんなにもある。
海を見たい。
桜を見たい。
友達と遊びたい。
ラーメンを食べたい。
全部。
生きていなければ、できない。
つまり。
このノートは。
生きたい気持ちの証なんだ。
「りうら。」
「……何。」
俺はノートを閉じた。
「君、ちゃんと生きたいって思ってるよ。」
沈黙。
「……え?」
「本当に何も思ってなかったら、このノートは書けない。」
「……。」
「やりたいことがあるってことは、生きたいってことだ。」
りうらは、何も言わなかった。
ただ、ノートを見つめる。
長い沈黙。
やがて。
「……俺。」
小さな声。
「俺……生きたいのかな。」
俺は微笑む。
「うん。」
「……。」
「少なくとも、俺にはそう見える。」
りうらが唇を噛む。
そして。
ぽろっ。
一粒、涙がこぼれた。
「……っ。」
慌てて目を擦る。
でも、止まらない。
ぽろ、ぽろ、と涙が落ちていく。
「りうら……。」
「っ……。」
震える肩。
ずっと我慢していたんだろう。
ずっと。
一人で。
「……怖かった。」
消えそうな声。
「怖かったんだ……。」
俺は何も言わず、隣へ座った。
「死ぬかもしれないの、怖かった……。」
また、涙がこぼれる。
「でも……怖いって言ったら……もっと怖くなると思って……。」
声が震える。
「だから……考えないようにしてた……。」
俺は静かに聞いていた。
「諦めたほうが……楽だと思った……。」
そうか。
そうだったのか。
この子は最初から諦めていたんじゃない。
諦めることで、自分を守ろうとしていたんだ。
怖かったから。
苦しかったから。
だから。
「……俺、死にたくない。」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の胸がいっぱいになった。
りうらは泣きながら、もう一度言った。
「俺……まだ、生きたい……。」
窓の外では、雨が止み始めていた。
二年が経った。
窓の外では、桜の花びらが風に乗って舞っている。
あの日、黒いノートを俺に見せてくれた十五歳の少年は、十七歳になった。
そして俺は、二年前と同じ病室の前に立っている。
コンコン。
「入るよ。」
「どーぞ。」
少し掠れた声。
俺は扉を開けた。
「……おはよう。」
「おはよ、先生。」
ベッドの上で、りうらが笑った。
少し痩せた顔。
短くなった髪。
細い腕。
前よりずっと小さく見える体。
だけど。
目だけは違った。
二年前の、何も映していなかった瞳ではない。
今のりうらの目には、ちゃんと光があった。
「今日は桜、綺麗だよ。」
俺が言うと、りうらは窓を見た。
「ほんとだ。」
「満開。」
「……二年前、日記に書いたなぁ。」
俺は笑う。
「書いてたね。」
『桜をもう一回見る。』
命願日記の一ページ。
小さな願い。
その願いは、叶った。
一度だけじゃない。
去年も見た。
そして今年も。
「先生。」
「ん?」
「俺、結構頑張ったよね。」
その言葉に、胸がぎゅっとなる。
「……うん。」
「俺、最初、死んでもいいって思ってた。」
「うん。」
「でも、今は違う。」
りうらは窓の外を見つめる。
「死ぬの、嫌だ。」
静かな声だった。
「もっと生きたい。」
「……うん。」
「もっとゲームしたいし。」
「うん。」
「ラーメンも食べたい。」
「うん。」
「十八歳になりたい。」
俺は返事ができなかった。
できるわけがなかった。
分かっているから。
医者だから。
検査結果も。
数値も。
今の状態も。
全部。
りうらに残された時間が、長くないことを。
もう……そう遠くないことを。
分かっている。
「先生。」
「……何?」
「泣きそう。」
俺は慌てて笑った。
「泣いてない。」
「嘘。」
「嘘じゃない。」
「先生、嘘下手。」
ふふっと、りうらが笑う。
その笑顔に救われる。
いつだってそうだった。
二年前。
死ぬことを諦めようとしていた少年に、俺のほうが救われていた。
生きたいと言ってくれた。
怖いと言ってくれた。
その言葉が、俺の後悔を少しずつ癒やしてくれた。
「そうだ。」
りうらがベッドの横を探る。
「はい。」
差し出されたのは、あの黒いノートだった。
『命願日記』
少し角が擦れている。
何度も開かれた証拠。
「見る?」
「いいの?」
「うん。」
俺はゆっくりページをめくった。
一ページ目。
そこには二年前と同じ文字。
『生きてたらしたいことを書くノート。』
そして次のページ。
願いの横に、丸がついていた。
『ラーメンを食べる ○』
『ゲームをする ○』
『友達とカラオケに行く ○』
『海を見る ○』
『夜に星を見る ○』
『桜をもう一回見る ○』
全部。
全部、丸になっていた。
俺は息を呑む。
「……全部叶ったんだ。」
「うん。」
りうらが少し誇らしそうに笑う。
「先生といっぱい叶えた。」
「そうだね。」
「楽しかった。」
「……うん。」
「すっごく。」
ページをめくる。
すると、最後のページだけ新しい文字があった。
『先生とまた桜を見る ○』
『十七歳になる ○』
『生きたいって言えるようになる ○』
その下。
最後に、一文だけ。
『俺、生きててよかった。』
視界が滲んだ。
文字がぼやける。
「先生。」
優しい声。
「泣いてる。」
「……うん。」
否定できなかった。
「俺、生きててよかったよ。」
りうらが言う。
「病気になってよかった、とは思わないけど。」
「うん。」
「でも、生まれてこなければよかったとも思わない。」
「……うん。」
「二年前の俺、そんなこと思ってた。」
窓から春の風が入る。
桜の花びらが一枚、病室へ舞い込んできた。
「先生。」
「何。」
「俺、怖い。」
その声は震えていた。
「やっぱり、怖い。」
俺は椅子から立ち上がり、ベッドの横へ行く。
そして、そっと手を握った。
細い手。
温かい。
「うん。」
「俺、いなくなりたくない。」
「……うん。」
「もっと生きたい。」
「うん。」
何度も頷く。
それしかできない。
医者なのに。
何もできない。
昔と同じだ。
姉の時と同じ。
救いたいのに。
どうにもできない。
そんな俺に。
りうらが笑った。
「先生。」
「……何。」
「その顔、だめ。」
「え?」
「俺ね。」
りうらはゆっくり息を吸う。
「前に言ったじゃん。」
「……?」
「いなくなっても、全部消えるわけじゃないって。」
俺の目が見開く。
二年前。
確かに俺が言った言葉だ。
「先生のお姉さんがいたから、先生は医者になったって。」
「……。」
「それならさ。」
りうらが少し笑う。
「俺も、消えないかな。」
胸が締め付けられる。
「俺がいたこと、先生が覚えててくれたら。」
「……。」
「ちょっとは残れるかな。」
俺は何も言えなかった。
言葉が出ない。
すると。
りうらが小さく笑う。
「返事ない。」
「……ある。」
やっと声が出た。
「残るよ。」
「……。」
「絶対残る。」
「……ほんと?」
「うん。」
俺は涙を拭った。
「俺は、一生忘れない。」
りうらの目から、涙が一粒こぼれた。
「……そっか。」
「うん。」
「よかった。」
窓の外。
桜が舞う。
春の光が病室を照らしている。
静かな時間だった。
「先生。」
「何。」
「命願日記、あげる。」
俺は驚く。
「大事なものでしょ。」
「うん。」
「じゃあ……。」
「先生に持っててほしい。」
黒いノートを、そっと渡される。
「俺が生きた証。」
俺は両手で受け取った。
温もりが残っている気がした。
「……ありがとう。」
「うん。」
りうらは満足そうに笑う。
そして窓を見る。
「桜、綺麗。」
「綺麗だね。」
「来年も咲くんだろうな。」
「……うん。」
「先生、見て。」
俺は頷いた。
「見るよ。」
「ちゃんと。」
「うん。」
「俺の分まで。」
俺は、ゆっくり頷いた。
「約束。」
「……約束。」
春の風が吹いた。
桜の花びらが、ひらりと舞う。
俺は隣で笑う十七歳の少年を見る。
二年前。
「死んでもいい」と言っていた少年。
だけど今は違う。
「もっと生きたい」と言えるようになった少年。
それが、何よりの奇跡だと思った。
俺は黒いノートを胸に抱く。
表紙には、小さく書かれていた。
『命願日記』
そのノートは、死を願った日記ではない。
生きたいと願った、命の記録だ。
そしてきっと。
この先もずっと。
俺の中で、生き続ける。
つまんない終わり方ですみませんでした💦
コメント
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読ませていただきました。まず、こんなに素敵なお話をありがとうございます。 「死んでもいい」と言っていた少年が、少しずつ自分の「生きたい」という気持ちを取り戻していく過程が、本当に丁寧に描かれていて、何度も胸が熱くなりました。特に、黒いノート『命願日記』を見せてくれたシーンと、最後に先生に託す場面が印象的で、涙が止まりませんでした。 「つまんない終わり方」なんてとんでもないです。あたたかくて、優しくて、読後もずっと心に残る、素晴らしいお話でした。続き、楽しみにしていますね。