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#🐟️×🍇
ねぎ茶
27
二年前のあの現場を、舜太は今でも鮮明に覚えている。
キャリアの中でも数少ない、大型キャンペーンの仕事だった。
フリーランスとして駆け出しの自分に、これだけの規模の案件が回ってきたこと自体が奇跡に近かった。
そして、組むことになったモデルは──柔太朗。
既に業界内では名の知れた存在で、雑誌の表紙を飾ることも珍しくない人物だった。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
挨拶は形式的なものだった。
柔太朗にとって、駆け出しのカメラマンと組むのは初めてのことではない。
ただの、いつもの仕事相手の一人。
舜太の方も、それを分かっていながら、内心では緊張を隠しきれずにいた。
撮影は、序盤からうまくいかなかった。
クライアントが求めているのは、資料にある完璧な一枚。
柔太朗は求められた表情を的確に作り、プロとして期待に応え続ける。
けれど、ファインダー越しに見るその顔は、どれだけ整っていても、舜太にはどこか作り物のように映った。
「もう一回、お願いしていいですか」
「はい」
何度シャッターを切っても、しっくりくるものが撮れない。
焦りだけが募っていく。柔太朗の方は表情ひとつ変えず、ただ淡々と指示に応じ続けていた。
流れが変わったのは、休憩時間だった。
機材のセッティングをやり直す間、柔太朗は少し離れた場所で、誰に見せるでもなく窓の外を眺めていた。
作られた表情ではない、ただぼんやりと物思いに耽る横顔。
柔らかい光が差し込む角度も相まって、その一瞬だけ、空気がまるで違って見えた。
反射的に、舜太はシャッターを切っていた。
「──あ、すみません。今の、良かったら使わせてもらってもいいですか」
振り返った柔太朗は、少し驚いた顔をしていた。
自分が今、どんな顔をしていたのか、本人にも分かっていない様子だった。
「別に、いいけど。何を撮ったの」
「なんか、自然な感じが良くて。うまく言えないですけど」
その一枚は、結果的にクライアントから高く評価され、キャンペーンのメインビジュアルとして採用されることになった。
「この写真は、柔太朗さんがいたから撮れたんです」
クライアントからの連絡を受けたあと、舜太が興奮を隠しきれない様子でそう言った。
世辞でも建前でもない、ただ純粋な感謝と喜びが滲む言い方だった。
柔太朗は、その言葉に一瞬、返す言葉を失った。
今まで、良い写りをする被写体として褒められることは何度もあった。
けれど、こんなふうに真正面から、まるで自分自身の存在そのものを喜ばれたことは、思えばなかった気がする。
かつて一度だけ、同じように踏み込んできた相手がいた。
プライベートでも会うようになり、特別扱いされているのだと、最初は素直に信じていた。
けれど関係が深まるほどに見えてきたのは、自分ではなく、”人気モデルと付き合っている”という肩書きに向けられた熱だった。気づいた時には、もう随分と心を許してしまっていて、終わり方はひどく後味が悪かった。
それ以来、誰かに深く踏み込まれることを、警戒すらしていると思う。
だからこそ、舜太の言葉は厄介だった。
写真を褒めているだけなのに、まるで自分自身を見てくれているような、剥き出しの温度を感じてしまう。
もう一度同じ過ちを繰り返したくない、という防衛線と、もっと近づきたいという気持ちが、同時に胸の中で鳴っていた。
「……そう。それは、良かったね」
素っ気ない返事しかできなかったけれど、その夜、柔太朗は珍しく、その一言を何度も思い返していた。
それから、二人が現場を共にする機会は自然と増えていった。
舜太は仕事を心から楽しむ人間だった。
うまく撮れた時は本気で喜び、悔しい時は素直に悔しがる。
その裏表のなさに、柔太朗は警戒が解れているのも感じていた。
「今日のカット、めっちゃ良かったですよ。柔太朗さんの目の使い方、さすがっすわ」
「大袈裟」
「大袈裟とちがいます。ほんまに」
それは最初、ただの好意的な感覚に過ぎなかった。
けれど仕事を重ねるごとに、少しずつ輪郭を持ち始めていく。
──この人を、もっと喜ばせたい。
この人に撮られるのが、好きだ。
それは、この人に見られるのが好きだ、という感覚に変わっていた。
そしてさらにその先で、この人に見つめられている時間そのものが、手放しがたいものに変わった。
撮られている時間、カメラ越しに見つめられている時間は、いつからか、大切な時間になっていた。
仕事が終わらなければいいのに、とすら思う。
撮影が終わって、機材を片付けが始めるたび、胸の奥で、同じ言葉が小さく鳴った。
──イカナイデ。
声に出したことは、もちろん、一度もない。
言葉にすればきっと、簡単なことかもしれない。
言葉にすることの先にある責任や、変わってしまうかもしれない関係の重さを、知らないほど若くはない。
だから、今の心地よさを壊せないまま、気づかないふりを続けることだけが、せめてもの優しさのように思えた。
大人になってしまったことが、こんな時だけ、少しだけ恨めしかった。
コメント
1件
読了しました……このエピソード、すごく切なくて優しい時間が流れてた気がします🥀 舜太が撮った“自然な横顔”の一枚、あれがきっかけで二人の距離が変わったんだなって思うと胸がじんわりしました。特に柔太朗の「自分自身を見てくれているような剥き出しの温度」に気づきながらも、踏み込めないもどかしさ──大人になっちゃったことが恨めしいって台詞、すごく刺さりました。好きだからこそ言葉にできない、その慎重さが愛しい……次が気になります😢🤍