※去りきら番外編
デートなんかしようものなら、最後は山に捨てられると思っていた。輪ノちくわ、23歳。彼女は今、人生の佳境に立っている。
──の、だろうか。
光のバイト代が貯まったから何となく二人で出かけようという話になったのが一週間前のLIME。それから高揚と動揺のあまり眠れない夜を過ごし、当日の日曜日になってもちくわは寝不足でふらついていた。
『いい加減にしろよ』と怒られるかと思ったが、光は普通に心配してくれた。
「大丈夫?今日はやめとくか」
「いやいや、どうか私のことはお気になさらず。それじゃしゅっぱーつ!」
空元気に腕を上げて電車に乗り込む。揺れがいつもより気持ち悪かったが、ドアに寄り掛かって何てことないふりをした。時折ちらちら光が見てきたが、景色を眺め気付かないふりをした。
行き先は特に決まっておらず、とりあえず駅前の商業施設で降りた。休日だから人混みが凄い。ただでさえ普段外に出ない上に体調も悪いので、台風に飲まれるかのように目眩がする。人とぶつかってよろめきかけた時、光にすっと腕を引かれた。
「あっ、ごめん」
気まずさからすぐに腕を引き抜いたのだが。
「いや、ほんとに大丈夫?」
心配しつつも、光がどこか名残惜しそうに腕を持て余していることを察して、ちくわは「じゃあ一応お願い」と自分から腕を絡ませた。
「ちょっ……」
密着度が高かったようで、光は逆に気まずそうに身をよじらせ、普通に手を繋ぐ形となった。どうせなら恋人繋ぎにしてやろうかと思ったが、手が触れ合っているだけで思いの外緊張が高まり、全身が熱くなってきた。そのまま歩いていると、まるで自分たちが台風の“目”になったかのように、不思議と周りのことも気にならない。
デートとはこういうものなのだと、ちくわは全体像を理解した気になり、この時点でかなり満足してしまった。おかげで特に入りたい店もなく、人の流れに沿って1階の端まで到達した。折り返しても仕方ないのでエスカレーターで2階に昇る。それと同時に自然と手も離れる。
「……お腹空かない?」
一段上で前を向きながら、光がおもむろに尋ねてくる。
「うん、空くかも」
ちくわは一段下で適当に返事をしながら、そういえば今日も変わらず朝食を食べていなかったことを思い出した。時刻は午後1時。昼食時なのでフードコートも混んでいる。
「……やめとく?」
沢山の家族連れで騒がしい光景を見て、光は今更立ち止まる。彼自身が嫌なのではなく、これもちくわを気遣ってのことだろう。特に楽しそうな家族という点において、ちくわがジェラシーに苛まれると思ったのかもしれない。知らないけど。
「あ、私クレープ食べたい」
ちくわも気を遣って咄嗟に目についたクレープ屋を指差し、特に食べたいわけでもないが早足で向かった。
「おー、じゃあ俺は……」
ちくわが苺クレープと二人分の紙コップの水を持って席に着くのと同じ頃、光はたこ焼き6個セットを持って戻ってきた。
「あ、一緒にレジ行ってベリベリ財布見ればよかった」
ちくわが残念がると、「どんだけだよ」と呆れながらも、光はリュックのサイドポケットから一瞬だけ財布を見せてくれた。それはそれでよく分からないが。
「えーベリベリもさせてよ」
「いいから食え」
「はーい……」
ちくわは拗ねてみせつつも、外見だけで百均のあの商品だと特定したので、後でこっそり買ってお揃いにしようと企んだ。
それにしても、空腹な割には二人共食事量が少ない。一日一食の生活に慣れているちくわは正直夜まで食べなくても平気なのだが、光もそんな具合なのかもしれない。
にもかかわらず、光は人の心配ばかりしてくる。というか、心配を口実に突っ掛かってくる。
「別にいいけどさ、そんなもんばっかじゃ倒れるぞ」
「光くんこそ、余裕で12個セットくらい頼みなよ」
適当にあしらおうとすると、「じゃあもう1セット買うからそれ食べたら」と論点をずらして強引にでも食べさせようとしてくる。仕方ないのでたこ焼きを1個貰うことにした。
爪楊枝で口に放り込む。普通に美味しい。飲み込み、少し考えた後。唐突に身を乗り出して、光の目の前にクレープを差し出してみる。
「うわびっくりした、何?」
迷わずかぶりつけばいいものを、いちいち戸惑って尋ねてくるのが焦れったい。
「お返し」
逃げられないように、鼻にクリームがつきそうなほど近付けていく。
「いや……」
それでも椅子を引こうとするので、もういいや、とヤケクソの意味でクレープを口に押し付けた。
「んぐっ」
──はずだったが、誤って眼鏡に衝突してしまった。
「えっ」
動揺したちくわは退けたクレープをたこ焼きのトレーの上に置いた。光はクリームまみれの眼鏡で放心した後、真顔で静かに言った。
「いい加減にしろよお前」
結局その台詞で怒られてしまった。目が見えなくとも鋭い視線が突き刺さってくるようだ。
「……ごめん……」
ちくわは流石に態度を萎縮させながらいそいそとポケットティッシュを出した。光の横に回り、中腰でそっと眼鏡に近付く。光は動こうとしないので拭いた方がいいのだと解釈し、次は目に激突しないように気を付けながら丁寧に拭く。それでもベタつきが取れないので、まだ飲んでいない水にティッシュの先端を浸けて拭き取った。
綺麗になるまで掛かった時間は約3分。静かになるまでそれほど掛かれば校長先生はキレるだろう。その間光は前を向いたまま静止している為、ちくわはどんどん不安になり、手も若干震えていた。
「これでいいでしょうか……」
敬語で恐る恐る確認すると、光はようやく「まぁいいんじゃない」とたこ焼きに目線を下ろした。
ちくわは一旦ほっとして席に戻り、先端が削れたクレープを、何事もなかったかのように食べ始めようとした。
「むぐっ」
その時、いきなり唇にたこ焼きが、飛んでくるように押し付けられた。『何』と言おうとして口を開けば、そのまま口いっぱいに押し込まれる。時間が経って丁度いい熱さになっていたのが幸いだ。喋れないので急いで噛んで飲み込むと、わんこそばのごとく続けてもう一個押し込まれる。
「んんっ、もー!」
せめて味わわせてほしいと思い反抗の声を出すと。光は透き通った眼鏡の奥で目を細め、愉しそうに笑っていた。
──あの時の、初めて目線を交わした時のような笑顔だった。ちくわはまだ噛めていないタコを思わず飲み込んだ。口の中にあるものがどうでも良くなるほど、吸い込まれるように見惚れた。
光くん、格好良い──そんな安直なことを心の中で呟きながら、好きほど安直な感情はないかもしれないとも思った。
じっと見入っていると、睨まれていると勘違いしたらしく、光は焦ったように笑うのをやめた。
「いやごめん、やりすぎた」
「ううん、これくらいが丁度いいよ、私には」
名残惜しさを感じつつ、ちくわも微笑んでみせる。あの時の心地良さは健在で──加えて周りの喧騒に混じって、あの時よりも純粋な楽しさがある気がした。
「私、加減が分からないからさ」
「うん」
「友達と出かけたこともないし」
「うん」
「デートとかしたら100%嫌われると思うんだ」
「その前に秒で嫌われると思う」
「ひどい」
光の淡白な返しに冗談めかして嘆きつつ、気付けば後ろ向きな発言ばかりする自分をちくわはしっかり“酷い”と嫌悪する。歩いている時くらいは歩いていることに集中したい。食べ終わった後は、どちらからともなくゲームセンターに向かっていた。
可愛めのくまのぬいぐるみのUFOキャッチャーを見つけた途端、ちくわはテンションを持ち直すようにはしゃいだ声を上げた。
「あっあれ欲しい!取って取って取って」
「早速加減を見失ってるじゃん。ほんとに要るの?」
「要る要る要る」
全く要らないが、ぴょんぴょん跳ねて子供のように騒ぐのが止まらない。
「はいはい」
可笑しそうに百円を投入する光を見て、「わーい」と間延びした声で喜んでみせる。
それほど盛り上げようと気を遣っているのだろうか、とちくわは内心自分を冷めた目で見下ろす。子供の時からこのように、どこか演技じみているというか純粋さに欠ける節があった。
空虚で中身がない、だからちくわ。──嫌な罵倒がちらつき、気を紛らわそうと目の前の光景に集中する。
光は真剣な眼差しで色んな方向から位置を定めた後、意を決したように一気にレバーを動かした。
「おお」
いけそうな雰囲気があり、ちくわも目を見張ったのだが。やはりアームは弱く、ぬいぐるみを一度持ち上げた後、同じ場所に降ろしただけとなった。
「惜しい〜」
何も惜しくないのに惜しさを感じさせ、何度も繰り返させて金を搾り取る為のゲームだということを分かった上で、ちくわはそれに見合った反応をする。だが光は諦めたように台から身体を離した。
「え、もうやめるの?」
「一回で十分でしょ。ぼったくられた気分を味わう行為なんか」
大いに盛り上がりに欠ける。たかが百円を無駄にしただけで不機嫌そうだし、このゲームがそもそも好きじゃなかったらしい。
「分かった分かった、じゃあ私がやるから。何欲しいとかある?」
ちくわは慌てて前に出て、張り切るように腕まくりした。
「いや、特にないけど。ていうか君、ぬいぐるみが欲しかったんじゃ?」
「あー要らない要らない」
「やっぱそうじゃん」
より不機嫌そうに顔をしかめる光に、言い訳するように人差し指を立てる。
「こういうのは手段を楽しむことが目的だから。結果なんて考えなくていいんだよ」
自分で説明しながら、まるで人生みたいだなとちくわは思った。結果がどうであれ、過程が楽しければそれでいいと思いたい。終わり悪くても全てよしといったところか。まぁそういう都合の良い思考さえ上手くいけば苦労しないのだが。
「あーそうですか」
「そうなんですよ」
相槌を打ちつつ、千円を百円玉に両替する。
「あ、とりあえず食べ物なら食べれるからよさそう」
そう言って○ッキーのBIGサイズの箱が積まれた台に駆け寄る。今にも落ちそうな位置に設置してあり、アームでつつくだけで楽勝そうに見えるが、これも決してそう上手くはいかないのだろう。取れなくても苛つかず楽しむことが大切だ。そう踏まえた上で、気楽な気持ちで百円を投入した。
一回目、失敗。二回目、失敗。三回目、失敗。四回目──
「ちょ、そろそろやめたら?」
「いや、10回はやる」
だが光の懸念通り十回目も失敗。すると引くに引けなくなり、すぐさまもう千円を両替した。これほど上手くできないものかと、ちくわは結局苛ついていた。
常人なら10回もやれば取れるのではないか。こういう些細な敗北こそ、自分が劣っている何よりもの証拠になるのではないか。失敗だらけの人生の中、せめてこれくらいは成功させたい。どれだけ金と時間が掛かろうが、諦めることだけはしたくない。諦めたらそこで人生終了なのだから。
そんな具合に何やら熱のこもった手でレバーを握り締め、一心不乱に動かし続ける。しかしガチャガチャが欲しい物ほど出ないように、集中すればするほど箱は変な位置にずれる。
「チッ、なんで……」
思わず感情を顕にしながら、壊れることも厭わずガチャガチャレバーを揺らす。すると、「あーもう貸して」と痺れを切らした光にレバーを奪われた。
「あーっ」
不満げな声を上げつつも、実はちくわはこの時を待っていた。光は何でも『だるい』と面倒がりがちな性格だから、今回くらいは自分から積極的に動いてほしかったのだ。先程無理矢理クレープをお返ししようとしたのもその為だ。一緒に楽しまないとデートの意味はない。自分一人で取ったぬいぐるみはその瞬間の達成感だけで、結局すぐ捨てることになる。
光は黙ってレバーを動かす。心なしか先程より真剣に見える。
「ぼったくられたくないんじゃなかったの?」
ちくわが横から煽ると、「ぬいぐるみよりはいけると思う」と豪語する。
ちくわがつつきまくって僅かながら移動させた甲斐あってか、箱はすぐに容易く落ちた。
「ほらね」
まるで全てが自分の成果であるかのように、光は片手で鷲掴みにした箱を見せつけてくる。
「わーすごい!ありがとー」
それでもちくわはいち恋人らしく、純粋なふりをして受け取ってみせた。思い出とはこうして、多少の演技によって鮮やかに彩られるのだ。
「食べよ食べよ」
「帰ってからな」
箱を抱え弾んだ足取りでゲームセンターを出るちくわを、光は呆れつつも明らかに嬉しそうに横目で眺める。取ってもらえたことより、ちくわはそれを見るのが嬉しいと思った。同時に、やはり終わり良ければ全て良しかもしれないとも思う。
「後はどこ行く?」
そう問われ、ちくわはつい「うーん、もういいかも!」と口にした。すると光は立ち止まり、じっと目を合わせてきた。
「……ほんとにこれでいいの?」
「え?」
不意に鼓動が早くなる。まだ帰りたくないという主張、というよりは、嘘をついていないか確認されているようだ。本当は色々と、自分でも気付いていないことまで見透かされている気がして、目を逸らしたくなる。本当の自分の気持ちなんて、いざ問われるとよく分からなくなる。本当なんてそもそもどこにもありはしないのかもしれないし。
「え、えっと……」
ちくわにしては珍しく誤魔化しが効かず、頷けもせず戸惑っていると、光は黙って歩き出した。光こそ何を考えているのか分からない。優しいのかぶっきらぼうなのか、割と不安がっているのか。何にせよ、残念ながら性格は多分かなり悪い方だ。
追い詰められると本性が出るというが、光の場合は周囲に攻撃的になり、ちくわのことも容赦無く傷付ける。それすらちくわは愛おしいと思い、いっそいくところまでいってしまえと十字架のごとく両手を広げて自ら的になってしまうのだが。
後ろをひょこひょこついていきながら、どこに行くのだろうと期待と不安でドキドキしていると。光は出口から外に出てしまった。拗ねて帰るつもりだろうか。自分でもういいかもと言ったくせに、もう終わりか、とちくわは物寂しさを覚える。
だが光は商業施設に隣接する古めのビルの方に入った。そこでちくわは何となく行き先を察した。
二人は共通して、意外と歌うのが好きだ。一緒に生活していた時、ちくわ同様、光が風呂で度々小さく歌を口ずさんでいるのが聞こえてきていた。本当はもっと歌いたいが、近所迷惑を気にして声を潜めているのだろう。ちくわももし金があり、部屋を防音仕様にするかカラオケに高頻度で通えれば、歌配信をメインにしたかもしれない。
いつか誰かと一緒に歌えれば、楽しいに違いないと思っていた。カラオケの看板を目にする度に、そのいつかは一生訪れないものだと思っていた。
だがいざその日が訪れると、大袈裟に捉えていたことが馬鹿らしくなるほど呆気なかったりする。カラオケ屋の一室に入ると、光は黙ったまま奥の席に座った。そしてタッチパネルもそのままに、真っ先に紙のメニュー表を見始めた。
「え?」
ちくわが立ち尽くしていると、『お前が歌え』と言わんばかりに、メニューに目線を落としたままタッチパネルの画面を向けてくる。少々ムカついたちくわは、勝手に連れて来られたのだから確実に奢らせようと思いながら、黙々と歌うことにした。そういえば『黙々と歌う』って、意味が矛盾しているような。
曲は無難なヒットソングを選んだ。音程やテンポは外れないが、高いところは小さい裏声になり声も間延びしているのでまずまずの出来。光は何か頼むのかと思いきや、メニューとモニターで視線を行ったり来たりさせている。構わず歌い終えると、「おー」と一応拍手が返ってきた。反応が薄い為、歌声が聴きたかったかどうかは定かではない。
光が声を発したので、ちくわは「どうもどうも」とお辞儀をしながら座ると、次の曲を歌うのをやめてもう一つのマイクを渡した。
「はい、交代」
「いや俺はいい」
「よくない」
クレープの時同様、顔につきそうなほどマイクを近付けると、自分で来たにもかかわらずだるそうに受け取ってのそりと立ち上がる。多分歌いたかったのは事実だろう。
光も可もなく不可もなくといった感じだった。だが歌声を聞くのが新鮮で、ちくわは高揚して手を合わせた。
「光くん格好良い〜」
甘い声でいかにもわざとらしいが、これは本心だ。最初から光のことは普通に格好良いと思っている。
「嘘つけ」
「ううん、普通に格好良いよ」
たとえお世辞に思われようが、繰り返せば喜びを覚えてくれるはずだ。光はドライなようで結構分かりやすい──その証拠に、まさかの続けてもう一曲歌ってくれた。その曲はちくわが歌いたかったやつだったが。
そうだ今がチャンス、と思い立ち、ちくわも一緒に歌い始めた。光は一瞬戸惑ったようにちくわを見たが、少し声を大きくして歌い続けてくれた。ちくわも負けじと声を張った。普段歌わないからもう掠れそうになったが、懸命に喉に力を込めた。
ハモリはできないが、ちゃんとデュエットになっていた。二人しかいないが、合唱をしている感じがした。あの時自分だけ参加できなかった合唱コンクールを、今ここで開催しているように思えた。
──我ながら大袈裟すぎて嫌になるが、きっと合唱コンクール優勝を目指すあの頃の生徒たちにも、それなりの情熱があっただろう。所謂普通の人間だって、結構異常なほど感受性が高かったりするのだ。
歌い終わると、疲労よりもっと歌い続けたい気持ちの方が勝った。時間が無駄にならないようすぐにタッチパネルを引き寄せ、「ねぇ何歌う?」と一緒に歌う前提で尋ねる。
「何でもいいよ」と言いつつ、光も画面を覗き込む。好みは分からないが、今は何を歌っても楽しい気がする。適当にスクロールしていると、お気に入りの曲が目に止まった。
これは結構暗めの歌詞だが、それに反した明るい曲調で、何をしても何も感じず、好きな曲を聴けば逆に苛つくようなどうしようもない時でもよく聴いていた。少なからず励みにしてきたと思う。
「あ、これ……」
差そうとした指が、光の指と触れた。顔を上げると、目が合った。気が付くとかなり近い距離にあった。
「あ、聴いたことある?」
多分同じく近さに動揺しつつ、光が聞く。
「うん」
身体を離そうかと思ったが、マイナーな曲にもかかわらず知っていたことが嬉しくて、ちくわは目を合わせたまま頷く。
「これ、良いよね」
ちくわが見つめ続けるせいか、目を泳がせつつも逸らせないまま、誤魔化すように光が言う。
「うん、すごく好き」
誤魔化しようもなくそう返した瞬間、ちくわは自然と腰を浮かせて近付いていた。瞬時に応えるように、光も身体を傾けた。唇が重なり、さっきのたこ焼きの感触と比べそうになり、流石にそれは違うかと思い留まり、2秒ほど遅れてようやく、今キスをしているのだと脳が認識した。しようと思ってするはずが、気付いたらしている感じだった。
まるで自殺みたいだな、と、こんな時でも最低の喩えがよぎる。そういえばキスで死ぬのは楽しい死に方に当てはまるかもしれない。今はやらないが。
今はこのおかしい思考も、快楽の一部となって、脳からどこかへとろけていく。
離れる時も無意識的だった。突然ドアが開いた音で我に返り、びくりと肩を揺らしたが、その時にはもうそれぞれ前を向いていた。店員の手にはいつの間にか光が頼んでいたドリンクとポテトがあった。
「あ、ありがとうございまーす……」
ちゃんとお礼を言いつつも、声が尻すぼみになるちくわ。
ドアが閉まり、数秒の沈黙が流れた後。ちくわは「ふふ」と口元を緩め、感心したような口ぶりで言った。
「なんか、阿吽の呼吸って感じだったね」
「……それな」
普段あまり使わないような言葉でぼそりと賛同しながら、光は何事もなかったかのようにタッチパネルの操作に戻った。
そして二人が好きな曲が流れ始めた。これ以上しないということは、これでいいということなのかと、少し迷いながらちくわはマイクを持った。Aメロが終わっても、二人きりになりたくてここを選んだのか、このパートがないと満足しなかったのか、今のがクライマックスだったのか、とやたら真意について考え込んでいた。
確かにちくわも本当は、ずっと、もっと、こうしたかったのかもしれなかった。絶望したとて、わがままで、強欲で、『もういいかも』などと言ってみても、何だかんだ、いつまでもこうしていられるのかもしれなかった。
もしデートで山に捨てられたら、そいつを呪い殺して道連れにするに違いなかった。
サビに入り、一番気に入っている部分が流れた。『クライマックスはまだ先みたい』という歌詞。理由は不確かだが、惹かれるものがあるのだ。
やっぱり歌うことはキスにも負けないくらい気持ち良かった。その分、歌い終わるのはあっという間だった。「いえーい」と締めながらちくわが椅子に腰を落とすと、光もマイクを持ったままぱちぱちと拍手する。
なるほど、そうやると音が響くのか。と気付いてから、ちくわは何となく、光が誰かとここに来るのはこれが初めてではないように思った。カニが出る家には『すごい』くらいしか思わないくせに、こんな些細なことには嫉妬しそうになる。このままでは一生他に友達ができないだろう。正直カラオケは大人数の方に憧れているのだが。
「どの歌詞が好き?」
椅子にぐたりと寄り掛かり、ポテトを啄みながらちくわが聞くと、
「うーん、全部かな」
と答えて光はオレンジジュースを啜った。ここでも頼むくらいオレンジジュースが本当に好きらしい。好きなものに忠実だとすれば、適当に答えているようには見えない。自分も全部が好きだと言われてみたかったな、とちくわは無謀な妄想を捗らせた。
その後何曲か歌った後、喉が終わりそうだったので延長せず一時間で出た。
「喉ヤバい、しばらく配信休もうかな」
「そんなに?」
「嘘、サボりたいだけ」
「好きな時やればいいじゃん」
「そうなんだけどさ。これくらいは継続しないとかなって」
「それ以前に睡眠や食事を継続した方がいいと思うよ」
「それはごもっともです」
「まぁ頑張って」
「ん。そっちもね」
他愛ない会話をしながら、ゆっくりエスカレーターで降りていく。光は下の階の薬局で買い物があると言うので、ちくわはそこで別れることにした。もう特に一緒にいたそうではなかったし、今回はこの辺でいいと判断した。念の為『楽しかった?』と確認したかったが、わざわざ口にすることじゃないと思いやめておいた。感情は鬱陶しい。光を見習ってなるべくドライにいきたいところだ。
「じゃあまた」
「うん、また」
手を振りながら背を向ける。一言だけの挨拶は素っ気なくなりそうなものだが、不思議とそうは感じない。親しくなれているということだろうか、と未だに自信のない問いが空虚に浮く。一人でもう一つ下の階に下りながら、『また』という言葉を勝手に心の中で反芻する。もうまたなんて要らないほど、デートというものを、これ以上ないほど満喫できたと思っていた。
──はずなのに。未だ慣れないホームの黄色い線ギリギリでぼうっと立ち尽くし、一人を実感した途端、ちくわは無性に寂しさに襲われた。いつものように普通に、もうすぐ来る電車に轢かれたいとも思った。
俯き、伸びた影を見つめる。邪魔だから消したいという衝動に駆られる。楽しくしていて馬鹿みたいだったなと、訳の分からない後悔をする。
どれだけわがままなのだろう。もしかすると希死念慮も一種のわがままだったのかもしれない。脱しようと今日のことについて思いを巡らせようとするが、上手く頭が回らない。無理やり忘れていた眠気も強く押し寄せてきている。
足元がふらつき、いかにも線路に飛び込もうとしている人みたいになる。今死んだら光に猛烈に嫌われるだろう。どうせ死ぬなら好かれたままがいい。
早く帰って寝よう。そう結論付け、ちくわは無事電車に乗ることを選んだ。
揺れは気持ち悪いが、窓から丁度差し込む夕日は、眩しいというよりもあたたかい。夕日があたたかいということを初めて知れたことで、少し気分が良くなる。固くしていた身体を緩め、眠気に任せて目を閉じる。意識が揺らぎ、嫌いなはずの電車と一体化したような気持ちになる。
微睡みの中、ちくわはふと、またデートがしたいと思った。心中デートとかではなく、些細な日常を過ごせれば、それに越したことはなかった。わがままを言ってしまえば、本当に美味しいカニにも、きさらぎ駅にも、まだ辿り着けていないのだから。
──どうやらクライマックスは、まだ先みたいだった。
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幸せを出せるように頑張りました