コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その日は見事な秋晴れで、道路や街角に植えられている街路樹が黄色や赤に色づく上に澄みきった青い空が広がっていて、行き交う人々の顔も心なしか明るく浮かれたものになっていた。
だが、夏と比べればやはり太陽が隠れる時間が早くなっていて、何となく夕暮れの空気が漂い始めた空の下、急ぎ足で帰る人々の姿をカフェから緊張気味に見ているのは、黒い巻き毛と茶色の双眸を持つ中近東にルーツを持つことが一目で分かる青年で、落ち着きなく足を組み替えたり、残り少なくなっているカップに視線を落としたりと、身体のどこかを常に動かしていた。
周囲の客がその様子に訝る気配を見せると青年がその視線に気付いて顔を少しだけ赤らめて会釈したため、不審者扱いというよりはデートか何かの待ち合わせだろうと好意的に捉えてくれ、制服警官に遠くから様子を見守られたりすることもなかった。
客が少ないことを利用したカフェの店員が青年の席にやって来てお代わりはどうと笑顔で声を掛けてくれるが、ああ、ありがとう、水をいっぱいくれないかと外見がどうであれ流暢なドイツ語で受け答えをされたため、留学生か何かかと店員が問いかける。
「ああ、いや、商談でこの街に来たのだけど、大都市のはずなのに何だかゆったりとした街で居心地が良い」
「そうね。大きな田舎町と言われることもあるわ」
「大きな田舎町。確かにそうかも知れないね」
商談は無事に終わって後一つの懸念を解決すれば国に帰るが何度も来たくなる街だと笑う青年に店員が頷いて店内に戻っていくが、水と一緒に小さな手作りらしいクッキーがソーサーに載せられていて、青年が顔を上げると笑みを残して店内に戻ってしまう。
本当に居心地の良い街だと独り言を風に乗せた青年は、その一杯の水で心が平穏になったのか、夕暮れの色が少しだけまた増してもまだ澄んでいる空を見上げて目を細める。
両親の死からあっという間に時間が過ぎてしまいようやくここに来られたのが今になってしまったが、父から引き継いだ会社の分裂の危機を幼馴染みを筆頭に父や己の友人達の力を借りて何とか乗り越え、父の頃の良き伝統を継承しつつも己の手腕で出来るところまでやってみたいという野心から経営者としての一歩を踏み出した青年だが、その彼の脳裏に今浮かんでいるのは常々父が語っていた言葉だった。
『学がないために人に利用され大切な息子を喪った。そんな思いはもう十分だ。だからお前は勉強をして人に利用されないようになりなさい』
その言葉を金科玉条のように奉ってきた彼は父や母が望むように母国でも名の通った高校に進学し、海外留学で見聞を広めて両親の元に戻り、父の下で会社の経営について学んで来たのだ。
父や母はあまり多くは語らなかったが、青年が生まれる前、父と母は青年にとっては祖父母に当たる人たちと共にドイツに渡り、そこで不法滞在を続けていたようだった。
その滞在中に大切な息子、彼にとっては兄に当たる子どもを事件で喪い、その遺体を引き取ることも出来ずに失意のまま帰国したのだが、その一年後に彼が生まれたのだ。
彼の誕生は両親にとっては喜ばしいことと同時に亡くした子どもの面影をどうしても重ねてしまうものだったようで、可愛がられ愛されていることを理解しつつも、写真でしか見ることの出来ない兄の影を己の中に見出さざるを得なかった。
両親に対して屈折した思いを内包しつつもそれでもやはり親に対する愛を胸に期待を力に変えて彼は努力し、両親が感心するほどの良い子は周囲も感心するほどの孝行息子に成長していた。
その孝行息子が両親の不慮の死を何とか乗り越え二代目として会社を経営していくことになったとき、母が遺した手記から兄を喪った事件の真相を知り、その時に大層迷惑を掛けただけではなく世話にまでなった人に会いたいという思いが突如芽生えた。
兄、ハシムが命を落とした事件の時、兄以外にも何人かの男女が死んだそうだが、唯一生き残った子どもがいたこと、その子どもは兄と同年代で、その子どもの相手をさせるために知己があった男女から半ば強引に言いくるめられた結果兄が連れて行かれたことを知り、詳しい事情が知りたくなった彼は、両親と一緒にドイツに渡っていた人を探し、当時のことを少しずつ聞き出していた。
その時に判明したのは知己があったヴォルフとマリアという男女が身代金目当てに誘拐を考えていること、誘拐するのは子どもだが、その子どもの相手として身代金が入れば幾許かの金を渡すかわりにハシムが連れて行かれた事実だった。
不法滞在という弱みを握られて逆らえずにハシムを預けた結果無残な最期を迎えてしまったが、事件の規模を思えば不思議なことに報道であまり取り上げられない中、誘拐された子どもの親からの使いだという弁護士が両親の元を密かに訪れ、有無を言わさない口調で事件について今後一切口外しないこと、ドイツを離れることを条件に口止め料とも取れる多額の金を息子を喪った両親の前に積まれたことも知り、悲しむ両親の心を思うと腹の底に冷えた熱が生まれそうだった。
だが、何故口止め料を払ってまでも両親をドイツから追い払うようなことをしたのか。
事件関係者の顔を見たくもないからドイツから出て行けという心情ならば理解出来る。だが、そこに何故金銭の支払いが絡んでいるのかが納得出来ず、納得出来ないことがあればとことんまで追求したくなる為に商談を利用してここにまでやって来たが、この街にやって来た最大の理由は事件の唯一の生き残りである子どもに会って事情を聞くことではなく、彼が今でも花を手向けてくれている-と先日教えられた-兄の墓を母国に移すことだった。
両親が死んだ今、遺された唯一の家族として出来ることは異国の地で二十年以上も一人で眠っている兄を両親の隣に眠らせてあげることだけだった。
その思いから関係機関に連絡を取り、事件現場となり兄が眠っている小さな教会が取り壊されるとの連絡を受けて動いていたのだ。
兄を両親の元に連れて帰りたい一心でここまでやって来たようなものだったが、果たして上手くいくのだろうかという不安が顔を覗かせたとき、ジャケットの胸ポケットから微かに振動が伝わってくる。
「アロー」
『アロー、tatlimメスィフ』
少し遠く聞こえる声の主は幼馴染みであり会社を支える重要な柱の一人でもある青年で、まだこちらに帰って来ないのか、会えない日が続いて寂しいと零されて苦笑する。
「俺も寂しいと思っている。お前と同じだ。でももう少しだけ我慢してくれ」
『分かった。で、ヘル・バルツァーには会えたのか?』
「いや……あと少しで会えるが、二人きりで会うことは出来ないそうだ。もう一人、彼が信頼する人も同席することになっている」
それは多分先日警察署で言葉を交わしたリオンと呼ばれていた刑事だと告げると、幼馴染みの口から溜息が零れるが、刑事が一緒ならば問題があっても大丈夫だろうと己に言い聞かせているような口ぶりに青年も少しだけ安堵する。
『ハシムを連れて帰る手続きは済んでいるんだろう?』
「ああ。そちらはもう大丈夫だ。後はヘル・バルツァーの返事次第だな……」
携帯でのやり取りをしつつ足を組み替えたときにテーブルを蹴り上げる形になってしまい、思わず悲鳴を上げると遠く離れた母国で心配の声が上がる。
『メスィフ!?』
「大丈夫だ。あと少しで会えると思うと緊張するな」
『まあ、な……。お前の話をちゃんと理解してくれる人なら良いな』
「ああ……なあ、イム」
『どうした、ドストゥム。不安なら今すぐ飛んでいこうか?』
トルコからドイツまで最短の手段が飛行機だというのがもどかしいが、今すぐ行こうかと問われて微苦笑を浮かべた青年は、大丈夫だ、総てが終われば連絡をするから待っていてくれと告げて返事を待つ。
『分かった。お前がそう言うのなら大人しく待っている』
だから早く総てを終えてトルコに、俺たちの元に帰ってこいと囁かれ、ああと短く返した青年は、夏を思えば日没が早くなった為に辺りが徐々に暗くなり始めたことに気付き深呼吸を繰り返す。
『俺の、俺たちの大事な心、メスィフ。命までは取られない。だから落ち着いて行ってこい』
「そうだな――サオール、イマーム」
お前の存在がいつもいつも俺を助けてくれている、これから起こるであろうことについても遠く離れているトルコから上手くいくことを神に祈ってくれと告げて一度目を閉じる。
「行ってくる」
『行ってこい』
ドイツとトルコで交わされる互いを励ます言葉に二人の親友がほぼ同時に通話を終え、席を立って一つ伸びをした青年、メスィフ・デミルは、クッキーをおまけにくれた店員に丁重に礼を言い、待ち合わせをしているホテルへの道を再確認も込めて聞くと、店のポストカードを片手に出て行くのだった。
メスィフ・デミルが待ち合わせに指定されたホテルは、この大きな街でも老舗と呼べるホテルで、部屋数が少ない代わりに家庭的なサービスをモットーに長年続けているホテルだった。
そのホテルのラウンジは宿泊客以外でも利用出来るため、ウーヴェはリオンと時々食事に訪れたり一人になりたいときに利用したりもしていた。
そのホテルの前でエーリヒが運転する車から降り立ったウーヴェだったが、レオポルドからウーヴェの様子を逐一報告しろと命じられていることを何となく察し、微妙な顔で車の傍に立ち尽くす彼に苦笑すると、今リオンと一緒にいるから大丈夫だ、エーリヒにはこのまま帰って貰うことを父の携帯に直接電話を掛けて-これも事件後初めてのこと-有無を言わさない強さで伝えて片目を閉じる。
「ありがとう、エーリヒ。気をつけて帰ってくれ」
「はい。ですが、リオンはまだ……」
「ああでも言わないと納得しないだろう。だからそこは話を合わせてくれ」
リオンがもうすぐ来ることを先程メールで教えられたと肩を竦めるウーヴェに安堵の笑みを浮かべたエーリヒは、ではこれで失礼しますと頭を下げて車に乗り込む。
その車が車列に紛れて見えなくなった頃、一台のAMGがホテルの前にやって来たかと思うと、運良く空いていた駐車スペースにいささか乱雑に停められる。
「ハロ、オーヴェ!」
待たせて悪かったと手を上げつつ車から降り立ったリオンが小首を傾げた後、ウーヴェの額にそっと手を宛がう。
「リーオ?」
「顔が赤いからさ、熱でもあるのかなーって」
ウーヴェの顔が緊張に強張っていることを見抜いているがもしかして体調不良という形で現れているのかと問われ、己の様子を窺うように首を傾げたウーヴェは、大丈夫だと答えてリオンの手首をそっと握り、優しい温もりをくれる掌にキスをする。
「……首、大丈夫か、見てくれないか……?」
父や兄との関係が良い方に変化をしたとは言え過去からの声に引き摺られるように浮かぶ痣がまた出ていないかと、アスコットタイに隠れている首筋を見えるように顎を上げ震える声で問われたリオンがニッと笑みを浮かべて逆にウーヴェの手の甲にキスをする。
「大丈夫だ、オーヴェ。俺がいる。だから痣が出ていてもすぐに消える」
いつかも話したがこんな痣なんか早く消えてしまえと思う俺がいるのだから大丈夫だと頷かれて安堵したウーヴェは、ホテルのラウンジが見える窓へと顔を向けて深呼吸を繰り返すが、リオンの左手を軽く握って引き寄せる。
「行こうか」
「ああ、……あ、もう先に来てるみたいだな」
ウーヴェの決意を秘めた小さな声にリオンがいつもと変わらない声で頷くが、ウーヴェのおかげで来ても気後れすることのなくなった高級感溢れるラウンジの奥の席に、先日初めて言葉を交わしたトルコからの客人がいることに気付く。
ラウンジのスタッフに軽く会釈をし、人と待ち合わせをしていることを伝えると、程よく混み合っているラウンジの一番奥、通りの景色が最もよく見える席で人が軽く手を上げたことからそこに待ち合わせのメスィフ・デミルがいることを知る。
スタッフの案内を笑顔で断ったウーヴェは、すぐ後ろにリオンがいることから無限の安堵感を得て不安をそれで掻き消すと、同じく緊張気味に立ち上がっている青年の前にゆっくりと歩いて行く。
「ヘル・バルツァー? ようやく、お目にかかれましたね」
「……ヘル・デミル。あなたの手紙を受け取ってから返事が出来ず、無駄に時間を掛けてしまったこと、許して欲しい」
テーブルを挟んで立ったままの会話は周囲の客の視線を集めかねないものだと気づきリオンがウーヴェの肩に手を置いて着席を促すと、メスィフもそれに気付いた様に二人に椅子を勧める。
「やはりあなたがいらっしゃると思っていました」
「俺はオーヴェの付き添いだから気にしないでくれ」
それと、俺は刑事の立場とオーヴェの一番の理解者としての立場から事件については聞いているが、刑事は今日はもう店じまいをしたと断りを入れたリオンは、メスィフがすでにコーヒーを飲んでいることに気付くとすぐ傍にいたスタッフにウーヴェと己のカフェオレを注文する。
「分かりました。では、ヘル・バルツァー、この度はお会い下さりありがとうございます」
リオンの言葉に納得した顔で頷いたメスィフは、ウーヴェに軽く向き直ると同時に頭を下げ、思い出したくないことを思い出させることは心苦しいがどうしてもあなたにお話ししなければならないことがあると切り出すと、ウーヴェが腿の上でそっと手を動かし、それを察したリオンが左手をウーヴェの腿に載せて安心させる。
その様子はメスィフからも見えているが驚きを軽く示しつつも特に何も言わずに目を伏せ、まずはあの事件からずっと兄の墓に参ってくれていることへの礼を口にする。
「それは……」
つい先日、ウーヴェがハシムの墓に参る本当の理由が暴露されたばかりだったが、そんなウーヴェの心の軌跡を知る由もないメスィフにしてみれば、忘れたいはずの事件の加害者である兄の墓に参ってくれていることはただ頭が下がる思いだった。
「その兄の墓ですが……」
先日両親が亡くなり私自身の身内がいなくなったこと、両親も兄の墓のことをずっと気に掛けていたことを少しだけ緊張した声で告げたメスィフは、ウーヴェの眼鏡の下の双眸を真っ直ぐに見つめ、兄を両親の横で眠らせてやりたいのですと告げると意味を理解した目が見開かれ、墓をトルコに移すのですかと小さな声で問われて頷く。
「はい。事件から二十年以上経っていますし両親も亡くなりました。いつまでも兄一人をこの国で眠らせているのも可哀想に思います」
だから兄をトルコに連れて帰ることを認めて欲しいと言われて更に驚いたウーヴェは、私の意志よりもご家族の意思を尊重して欲しいと答え、運ばれてきたカフェオレで口を少しだけ潤すが、本当ならば事件の後ハシムを連れてご両親が帰国できれば良かったが、そこまで出来なかったと目を伏せると、あなたが悪い訳ではないとメスィフが語気を強める。
「ヘル、あなたはあの事件の被害者だ。あなたは何も悪くない」
「……」
父と母の不法滞在という弱みを握られて兄を連れて行かれたことについてあなたに責任は何もないのだからと苦しげに伝えると、リオンが口の中でなにやら言葉を転がすが、出てきたのはやるせない溜息一つだった。
「……やっぱり不法滞在をネタに強請られてたのか」
「はい。それだけではないとは思いますが、それが一番の理由だと思われます」
当時、何故ハシムが事件に荷担していたのかが分からなかったが、リオンが事件の調書を初めて見たときに得た違和感と疑問が正鵠を射ていたことに気付き、感心するよりも己の出自から来る感慨がやるせない溜息となって再び零れ落ちる。
「不法滞在してるぐらいだから生活も苦しいよな。そこをつけこまれたってことか」
「……あなたは、事件についてどこまで……」
リオンの独り言はメスィフにとっては驚きのものだったのか、どこまで事件について知っていると問われて一つ肩を竦めると、背後を通ったスタッフに水を二つ注文する。
「さっきも言ったけど、俺が知ってるのは調書から得た情報とオーヴェから聞かされた話だけだ」
ハシムの親が不法滞在していた事実は知っているが、それをネタに強請られることや利用されることなどスラムに暮らす者にとっては日常茶飯事だと感情のこもらない声でメスィフの疑問に答えると、今度はウーヴェの手がリオンの腿に載せられる。
その手の甲を愛おしむように何度も撫でたリオンは、だからマザーみたいな人が必要なんだなとも呟くと詳しくは言えないがハシムの両親と似た境遇の人たちを嫌と言う程見てきた、皆生きていく為に必死だった、今日や明日の食事のために何でもして生きていたと苦笑する。
「だから……あんたの親の生き方や当時のやり方を非難したり否定したりするつもりはねぇよ」
それをしなければ自分たちが死ぬのだからとも答えるとウーヴェの頬を手の甲で撫でた後、さすがにそれには驚きを隠さないメスィフの前でたった今撫でたばかりの頬にキスをする。
「それと同じで、オーヴェも事件の時は自分の身を守るのが精一杯だった」
ハシムを庇う余裕も思いやる余裕ももちろん無かったとウーヴェが絶対に口にしない思いを伝えると、メスィフの拳が握りしめられるが、何度か肩が上下した後、もちろんそれは分かっていますと答える。
「事件の時、兄をどうして助けてくれなかったのか、そんなことはもう……思いません」
「……」
事件当時の感情についてはすでに己の中で己の中に兄の面影をずっと見ていた両親の中でも昇華されているが、その時の兄の様子を知りたいのですと今度は打って変わった顔でウーヴェを見つめる。
「兄はどんな様子でしたか? 苦しんではいませんでしたか?」
両親が知りたがっていたことをようやく口に出来た安堵にメスィフは胸を撫で下ろすが、ウーヴェの握りしめられている手が小刻みに震えていることに気付き、その顔を見て己の言葉がもたらした衝撃に目を瞠る。
穏やかで丁寧な口調と初めて聞いただけなのに己が抱えているものを総て吐き出させてくれそうな妙な予感を抱く声に驚いていたが、ウーヴェの顔が蒼白を通り越して真っ白になり、アスコットタイで隠れている首の白い素肌が赤黒く色づいていることに気付き、大丈夫かと口を開こうとするが、それよりも先にリオンが大丈夫だよなーと場違いな明るい声でウーヴェに笑いかけ、その一言でウーヴェの頬に僅かに血色が戻る。
「彼、は、ハシムは……事件で色々辛いはず、なのに……」
いつも笑っていたと時間を掛けて何とか答えたウーヴェにメスィフが安堵に目を細める。
「笑っていましたか?」
「ああ。彼が、明るくしてくれた、から……、俺も気持ちが、楽だった……」
悲惨な状況下でも笑みを絶やさずにいた彼が傍にいてくれたおかげでどれほど助けられただろうかと微かに身体を震わせつつもメスィフを見つめて思いを伝えたウーヴェは、事件の最中、諦め以外の感情を喪っていた己を傍にいることで力づけてくれていた、そんな彼を助けられなかったことは本当に心苦しいとも告げるとメスィフの顔に更に安堵の色が浮かび上がる。
「そうですか……」
「だから、ではないが……彼の墓には参らせてもらっている」
「ありがとうございます。でももう良いのです、ヘル・バルツァー」
兄が死んで二十数年、その間あなたはその苦しみの中にいたがもう良いのですと、いつまでも兄の最期が自分のせいだと思わないで下さいとテーブルに置かれているウーヴェの拳に手を重ねて目を見つめたメスィフは、リオンの視線に気付いて慌てて手を戻すが、振り払われたりしなかったことに気付きもう一度その手に手を重ねる。
「ヘル・バルツァー、私が知りたかったのは当時の兄の様子で、最期の姿ではありません」
それを思い出させてしまうことは心苦しいが兄の様子を知ることが出来て良かったと笑みを浮かべ、先程の話だが兄を両親の元に連れ帰っても良いだろうかと問われて考え込むように目を伏せたウーヴェだったが、どうぞご両親の元に連れて帰ってあげて下さいと緊張に震えながらも己の言葉でしっかりと伝えるとウーヴェの横から安堵の溜息が零れる。
「ありがとうございます……!」
これでようやく私の家族が母国に揃いますと涙すら浮かべかねない勢いで感謝の言葉を並べ立てるメスィフに、ウーヴェが彼を母国に帰すことが思い浮かばなくて申し訳ないと小さな声で謝罪をしメスィフの黒髪が左右に揺れる。
「ヘル・バルツァー、何事にも時が必要なのです」
その時間が二十数年という長きに及んだことは神の思し召しであり必要不可欠なものだったのだとメスィフの信条を感じさせる言葉にウーヴェが驚くが、二十数年という歳月と隣で少し嬉しそうに水を飲んでいるリオンがいなければこうしてここで辛い過去を共有することも、その過去から脱却しようとする事も無かったと気づき、時というのは偉大なものだと穏やかな声で告げる。
「そうですね。時間は最良の医者だと聞いたことがあります」
「そう、ですね」
時が経てば許せなかったことも許せるようになるとのメスィフの言葉に頷いたウーヴェは、いつハシムを連れて帰るのですかと問いかけ、間もなく私も帰国するのでチャーターしている貨物便に載せて帰ることを教えられて貨物と呟くが、メスィフが仕方の無いことですと肩を竦める。
「ただ、チャーター便は私の会社の所有なので、兄も許してくれると思います」
「会社を経営されているのですか?」
「はい。小さな輸入専門の会社ですが、父が興した会社の後を継ぎました」
異国の地で悲しい思いをした両親だったが、母国でそれこそ身を粉にする働き方をしてくれたおかげでその会社を受け継ぐ事が出来ましたと答え、あなたの家と比べれば小さなものですがと頭に手を宛がうとウーヴェがゆっくりと頭を左右に振る。
「バルツァーの会社と私は関係ありません」
「そうなのですか?」
「はい。私は……事件の影響もあり長年家を離れていました。この街で今は医者として働いていますが、会社のことについては何も知りません」
だが大小関わりなく事業を興す人の苦労は少しだけ理解出来るため、若くても頑張っている事は分かりますと、この時初めて小さな笑みを浮かべたウーヴェは、メスィフの顔が少し赤味を帯び兄とそっくりな瞳に強い光が浮かんだ事にも気付くと、重ねられていた手を逆に握り、ハシムを連れ帰るときには声を掛けて下さいと頭を下げる。
「明後日、兄の棺を運ぶ予定をしています。立ち会われますか?」
「私が立ち会いをしてよろしいのですか?」
「もちろんです」
メスィフの力強い頷きにウーヴェも無意識に安堵し何かを思い出したようにジャケットの胸ポケットから封筒を取り出し、メスィフが見守る前で封筒から古い写真を一枚取り出す。
「それは……私があなたに送った兄の写真ですね」
「はい。……これをいただいた時は酷く取り乱してしまいましたが……」
今、落ち着いて改めてこの写真を見れば、当時の彼も同じ顔で笑っていたことを思い出しますと目を伏せたウーヴェは、黒い巻き毛でくるくると表情を良く変化させていた少年の顔を思い出しつつ指先で撫で、もし我が儘を一つ許してもらえるのならとメスィフを見つめる。
「何でしょうか」
「ハシムがいたから私は生き延びることが出来ました。その感謝はどんな言葉でも表せません。今までのように彼に会いに行こうと思っていますが、トルコに帰国してしまうと時間的に厳しくなります」
ウーヴェが何を言わんとするのかをある程度察しているメスィフだったが、己の口で語ってくれるのを期待してじっと耳を傾けていると、この写真とは別にハシムの写真を一枚戴けないかと聞かされて目を細める。
「写真、ですか?」
「はい。墓に参ることが難しくなるのであれば自宅に飾りたいと思います」
今自分達が暮らす家のリビングの一画、暖炉の上に忘れる事の出来ない人たちのゆかりの品や写真が並べられているのだが、そこにハシムの写真を並べたいと伝えると、メスィフがこの日一番の笑みを浮かべて何度も頷く。
「ありがとうございます。兄も喜ぶと思います」
事件の中での出会いと悲惨な最期だったが、一時でも心を通わせたあなたにそう思ってもらえることは嬉しいことだと笑ったメスィフにウーヴェが安堵に頭を上下させる。
「良い、か、リーオ……?」
「お前がそうしたいのなら」
「そう、したい」
「分かった」
この写真も良い顔で笑っているがまだ他にもあるのなら写真立てを新しくしてそこに飾ろうと笑うリオンにウーヴェがただ頷くと、墓の掘り起こしの時間はいつだとメスィフに向き直る。
「午後の早くになると思います」
「では向こうでまたお目にかかれますね」
「はい。その時に写真を用意しておきます」
二人が穏やかな声で明後日の予定について話し合うのをぼんやりと見ていたリオンだったが、ウーヴェの声に怯えも不安も何もないことを察して胸の裡でのみ安堵したあと、何気なくこの後の予定を問いかけて頬杖を付けば、外を行き交う人々の身なりを目にしたメスィフが祭りでもあるのかと小さく笑い、ここからさほど離れていない広場でビール祭りが行われているがもうすぐ終わるとリオンが答えるとビール祭りと呟いた青年の顔の笑みが深くなる。
「ビール、好きか?」
「ええ」
「……宗教的に問題はねぇのか?」
「はい」
「そっか」
ビールが好きならヴィーズンに一度行ってみればどうだとリオンが頬杖をついて笑いかけるが、メスィフが首を傾げて考え込んだあと、一人で行って楽しめるでしょうかと悲しそうな顔で問い返したためリオンの蒼い目が強く光る。
「オーヴェ、メスィフがヴィーズンに行きたいって言ってるからさ、一緒に行こうぜ」
「……お前がただ行きたいだけじゃないのか?」
「ヘル・バルツァー? あなたは行かないのですか?」
リオンとウーヴェの会話を顔を僅かに動かして聞いていたメスィフだったが、素朴な疑問を口にすると、人が多い所はあまり好きではないとウーヴェが返す。
「なー、行こうぜー」
「……」
この街に住んでいてどうして毎年恒例のヴィーズンに行けないんだと今にも泣きそうな顔でウーヴェの肩を掴んだリオンは、過去の出来事を思い出すこの季節が嫌いでウーヴェがこの街を離れていたことをよく知っているが、今年こそは一緒に行くと決めていた為、満面の笑みを浮かべメスィフに向き直る。
「メスィフ、あんたも行きたいよな?」
「……初対面の人をあんたと呼ぶなと何度言えば分かるんだ、リオン?」
「へへーん。残念でしたー。この間警察署で会って話してるもんねー」
だから初対面ではないし本人も嫌そうな顔をしていないからファーストネームを呼んでも大丈夫だと胸を張ったリオンは、突如生まれた痛みに小さく悲鳴を上げ、ゴメンナサイと謝罪を繰り返す。
その痛みはリオンの左耳から発生していて、それを生み出しているのがウーヴェの手であることに呆然としたメスィフだが、言いにくいことだがそのビール祭りに二人が一緒に行ってくれるのであれば是非とも参加してみたいと答えてリオンの顔を笑み崩れさせる。
「ダメでしょうか、ヘル・バルツァー?」
「……少し、考えさせて貰っても良いでしょうか」
「はい。あと、……彼が言うように、私のことはメスィフと呼んで下さい」
少し顔を赤らめつつよければ異国に住む貴重な友人になって貰えないかと断られる不安と緊張に声が震えているが、リオンが口笛を吹いて俺はもう友達だと答えるとウーヴェが何ともいえない顔で頭を一つ振るが、俺の事もウーヴェで良いと告げてメスィフに手を差し出す。
「トルコのこと、手紙をくれた街のこと、ご両親のことも教えて欲しい」
「喜んで」
緊張を覚える話が終わりリオンが投げかけた一言から関係性を変化させた三人だったが、ここで生まれたこの関係は終生変わることのないもので、ウーヴェとリオンのことをドイツの兄と呼ぶようになったメスィフとその幼馴染みであるイマームも後に加わり大騒動を引き起こすことになるのだが、今は芽生えたばかりの友情をどのように暖めて育んでいこうかと三人それぞれが思案するのだった。
あの後、明後日の予定を再確認し合った三人だったが、ウーヴェが呼んだタクシーでホテルに戻ったメスィフ・デミルは、無意識に緊張を覚えていたことをはだけたシャツが湿っていることから気付き、微苦笑しつつシャワーを浴びるためにバスルームのドアを開ける。
先ほどビール祭りのことを教えてもらったばかりだったが車窓の景色にそれらしき雰囲気が溢れ、ホテルのロビーもこれから祭りに出かける装いの人々が彼方此方にいた。
それを思い出し、明後日の最も重要な用事を済ませた後に祭りに三人で出かけることが出来れば良いと思案しつつシャワーを浴びて心身共にさっぱりとする。
バスローブを身にまといベッドに投げ出した携帯を見れば着信履歴があり、冷蔵庫のビールを開けて外が見える椅子に腰を下ろす。
電話の相手は見なくても分かっている為に喉の渇きを先に潤した彼は、己のためにどこまでも心配し気遣ってくれる幼馴染みを安心させるために電話を掛ける。
「アロー、イム」
『アロー、メスィフ。話は終わったのか?』
聞こえてくる声はただただメスィフを案ずるもので、先ほどのウーヴェとの話を掻い摘まんで説明し、兄が当時笑っていたこと、墓の移設を快く認めてくれるだけではなく家に飾るための写真が欲しいと言われたことも伝えると、軽い驚きが電話の向こうから伝わってくる。
『驚いたな』
「ああ。俺の手紙を見ただけで精神的に不安定になったと聞いていたのにな。写真を飾ってくれると言って貰えるとは思わなかった」
先ほどの話し合いでの様子を脳裏に描きつつ素直な感想を口にすると、どんな心境の変化があったのだろうかという疑問が投げかけられ、今分かることはそれが自分たちにとって良い変化だったということだけだと笑うと、確かにその通りだと朗らかに笑われる。
「ああ、イム、この街で開催されているビール祭りに行けるかも知れない」
『何だって!? ああ、本当に今から行こうかな』
「おいおい。会社を任せているのに何を言うんだ」
『お前一人がビール祭りに参加するなんてずるいぞ、メスィフ! 俺にも飲ませろ』
「ははは。今回は土産話で満足してくれ、イム。……明後日、兄の棺をチャーター便に乗せる」
己と同じにビールが大好きな幼馴染みが悲鳴じみた声を上げるのに笑い声を発した彼は、帰ったらすぐにいつもの店で飲もうと笑い、声音を変えて重要な話を伝えると、携帯の向こうの気配も一瞬で引き締まる。
それを好ましく思いながら兄のために飛ばすチャーターだから父さんも母さんも喜んでくれるだろうとも告げると、両親への屈折した思いも葛藤もすべて知っている幼馴染みが優しい声でお前は孝行息子だと褒めてくれる。
「ありがとう、イマーム」
『本当に早く帰ってこい』
「分かっている。また連絡をする」
『そうしてくれ。――おやすみ、メスィフ』
今は離れていても気持ちは同じ場所にあり同じ方を向いていることを伝え合って通話を終えたメスィフは、椅子から立ち上がったときに今日は朝食以外何も食べていないことを思いだしてホテルのレストランで軽く食べることを決め、つい先ほど友人になったウーヴェとリオンとの会話や二人のやりとりを思い出し、己と幼馴染みと同じかそれ以上の絆の深さを感じ取ったことも思いだし、レストランに向かうための支度を手早くするのだった。