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ホテルのカーテン越しに、淡い光が差し込んでいる。目を開けた瞬間、かすかに潮の匂いがした。
窓をわずかに開けたまま眠っていたことに気づき、湿った空気を肌に感じながら上体を起こす。
カーテンを開けると、昨夜の雨はすっかり止みきらきらと光る海岸沿いの景色が、やけに眩しく目に飛び込んできた。
窓際にかけてあるグレーのシャツを手に取って思い出す。
突然降ってきた雨。
あの時岡崎は、放心しているこちらの手首をつかんで走れと言った。
ふりしきる土砂降りの雨に髪が濡れないよう腕で庇おうとするとフワッと頭に軽い感触。顔を上げると 岡崎がいつのまにか羽織っていたシャツを脱いで、かぶせてくれていた。なにも言わずに。
色んな感情が頭の中を掻き乱していて、 ありがとうを言いそびれてしまった。
あれから特に大した話もしないまま、
各自の部屋に戻った。
あのまま岡崎の話を聞き続けていたら
自分はどういう顔をしていただろう。
そして今日はどういう顔をしていればいいのだろう。
岡崎はどうしてあんな話をしてきたのだろう。
化粧水を叩く手が、いつもよりわずかに速い。
ファンデーションのスポンジが、頬の上を何度も行き来する。
手を止めて鏡の自分を見つめた。
いつも通りにしていないと。
ロビーに降りると、すでに何人かのスタッフが朝食を終えていて、談笑しながらコーヒーを飲んでいた。
その輪の中に、岡崎の姿もあった。
昨日行ったテラスモールのUNIQLOで「これでいいや」と適当に手にしていた、白いTシャツにカーキ色のハーフパンツ。髪は軽く寝癖がついたまま。
紙コップを片手に、何か冗談を言っているようだった。
周囲が笑顔の中、本人はあまり笑っていない。
それでも場の空気を壊すことはなく、どこかぼんやりと、でも穏やかにそこにいる。
視線が重ならないように、 エレベーターの前に立った。
「おはよ」
声がして、振り向くと、いつのまにか岡崎がいた。
思っていたより近い距離。
「あ、おは…よ。…あっそうだっ。岡崎これ、ありがとね」
出そうとした声が少し遅れてしまい、語尾が浮いたのは気にしないでおく。手に持っていた岡崎のグレーのシャツを返す。
「あー。なんもなんも。忘れてたや。てか雨、止んでてよかったな。今日ロケハン、予定通り午前中で終わるみたいよ」
「うん。良かったねほんと。…靴もぎりぎり乾いたし、気にせず動ける」
「まじ?俺、スニーカーびっしょびしょでさ。今ホテルの乾燥機で回してて、もう時間だし乾いてなさそうだけど取りに行こうと思って。しゃーないからこのサンダルだけそこの売店で買ったわ。サイズなくてちっちぇーのこれ」
そう言いながら足をひょいっとくの字に曲げて見せてくる。
なんの変哲もない普通の黒いビーチサンダル。
それは災難だね、と軽く笑って、
それ以上は何も言わなかった。
沈黙を破ったのは、エレベーターの到着音。
扉が開いて、ふたり並んで乗り込む。
数字のボタンを押す指が、わずかに触れそうになったけれど、どちらも何も言わなかった。
閉じかけたドアの向こうで、スタッフの笑い声が続いていた。
この狭い箱の中だけ、静けさが濃くなる。
藤井。
と名前を呼ばれ肩を小さく動かしてしまった。
「……昨日、変なこと言って悪かったな」
ぽつりと落とされた言葉に、目を向けることはできなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、胸が痛くなる。
「そんな……別に。変なことなんて、何も」
「いや。ほんと、俺ちょっと酔ってたからさ、湿っぽい話、しちゃったなーって。まぁ、忘れてください」
言い終えたあとの、短い間。
たったそれだけで、話をそこで終わらせようとしているのがわかった。
笑ってごまかすことも、できなかった。
視線を合わせなくても、その声のまっすぐさだけで、まるごと伝わってくる。
だからこそ、なにも言えなくなる。
階数を告げる電子音がして、エレベーターのドアが開いた。
先に出た岡崎の背中を、ひと呼吸遅れて追いかける。
足元にあたる光の温度が、昨夜とはまるで違っていた。
なのに、胸の奥に残っていたものは、あのときと何ひとつ変わっていなかった。