テラーノベル
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稲村ヶ崎での撮影は、思いのほか順調に進んだ。
朝焼けが、ゆっくりと海と空を染めていく。淡い光が静かに広がって、世界が少しずつ目を覚ますようだった。
その光に包まれて撮れたカットは、きっと誰が見ても綺麗だと思う。
あれから岡崎は、まるでいつもと変わらないように、そこにいた。
冗談を飛ばしながら、巻きで終わった撮影の調整を、慣れた手つきで進めていく。
その姿は頼もしくもあり、どこか遠くにも感じた。
こちらに踏み込んでくることはなかった。視線すら、必要以上に交わらない。
けれど不思議と、気まずさはなかった。
だから、こちらもそれに倣った。
ただ、仕事を進めるパートナーとして、丁寧に、淡々と。
すべての撮影が終わったあと、ロケバスでそのまま東京へと戻る。
帰り道、岡崎と何度か資料の確認を交わし、それ以外は、疲れのせいか深く眠ってしまっていた。
バスを降り、岡崎たちと別れてその足でオフィスへ向かう。
報告書と素材管理の確認に取りかかりながら、急に現実が押し寄せてきた。
空調の効いたビルのフロアは、ひんやりと冷たくて、さっきまで感じていた潮のにおいや湿気の熱とは、まるで違う世界のようだった。
東京に戻ると、日常がすぐに追いついてきた。
岡崎とのやりとりも、以前と変わらず淡々と続いていく。
スケジュールの確認、チェックバック、差し戻し、資料の修正──
必要なやりとりだけが、簡潔に、丁寧に交わされていく。
その中に、感情が入り込む余地はほとんどなかった。
──それでも。
ふとした瞬間に、記憶が揺れる。
何気なく開いた送信履歴。
静まり返ったオフィスに、グループチャットの通知音がひとつだけ響いたとき。
それだけで、指先が止まり、胸の奥の静かな水面がほんの少し揺れた。
もうとっくに過ぎたはずのこと。
閉じ込めたはずの想い。
それなのに、あの潮風がまだ、どこかで吹いている気がした。
波の音も、夜の生ぬるさも、手放したはずなのに──
引き潮の後の砂浜のように、感情の痕跡だけが、心に淡く残っていた。
あのとき、言えなかったこと。
言わずに胸の奥でしまい込んだ言葉たち。
それらは今もまだ、形を持たないまま、
誰にも聞かれることなく、静かに沈み続けている。
あれから約2ヶ月が経った。
都心の高層ビルの間を、秋の風が静かに吹き抜ける。
ガラス張りのロビーから見下ろす夜景には、夏の名残がまだ淡く残っていた。
今夜ここで開かれるのは、新たな観光PRサービスのローンチを祝うお披露目会。
主催は、観光とITを融合させたサービスで注目を集めている企業グループ。
自治体やメディア、広告会社など、多くの組織が連携して進めてきたプロジェクトだった。
LIVELは主催ではないが、制作面で協力した関係から、関係者枠で招待されていた。
立場はあくまで“ゲスト”。肩の力を抜いていられるのが、少しだけ救いだった。
岡崎が、このプロジェクトの実働メンバーに名を連ねているのは知っていた。
共有された招待メールの中に、その名前を見つけたときの、小さな動揺も思い出す。
今夜、ここで再会する可能性がある──
そう思うだけで、心の奥に淡い緊張がじわりと広がっていった。
鏡の前で選んだリップの色。
ほんの少し整えた髪。
気まぐれに見せかけたその仕草の裏に、気づかないふりをした期待があった気がする。
見つけてほしい、なんて──
言葉にすらならない想いが、静かに心の底で息をひそめていた。
受付で名前を伝えると、透明なホルダーに入ったネームプレートが手渡される。
軽く会釈をして、会場の中へと一歩踏み出そうとした、そのとき。
「お、藤井じゃん」
少し低く響いた声が、背後からふっと届いた瞬間。
胸の奥がふいに揺れ、思わず足が止まった。
ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは──岡崎。
わかっていたはずだった。
リストにその名があることも、今夜会うかもしれないことも。
なのに、声を聞いてしまっただけで、思いがけないほど強い緊張が体の奥を駆け抜けていく。
そんな感情の波に気づく様子もなく、岡崎はいつものように落ち着いた声で受付に応じながら、軽口を挟むのも忘れない。
「はいはい、フェリクスの岡崎です。ん?みどり?あ、それ“ろく”って読みます、そう、“ろく”です、はい、あ、どーも」
いつもの口調、いつものテンポ。
ネームプレートを受け取ると、自然な動作で首にかけるその姿に、目が無意識のうちに惹きつけられていた。
ダークグレーの細身のスーツに、淡いグレーのシャツ。
黒に近いネイビーのネクタイは、控えめな色合いながらも品があり、全体の印象をきちんとまとめていた。
胸元にさりげなく光るフェリクスの社章も、よそ行きの装いに馴染んでいた。
髪も、いつもより丁寧に整えられていて、束感がほのかに残る程度のセット。
見慣れているはずの姿に、どこか特別な空気がまとわりついている気がした。
気づけば、その姿に目を奪われていた。
遅れて、静かに胸が高鳴り始める。
「…あれ?あなた。今日はなんか印象違うじゃん」
腕を組み、上から下までじろじろと見てきた岡崎の一言に、思わず眉をひそめる。
「……どういう意味よ」
「いやいやいや、珍しく今日は女の子らしい格好してらっしゃるなって。ほら、いつも藤井、スーツでビシッと決めてるイメージだし。いいじゃんって褒めてんですよ」
「……岡崎こそ、なんかいつもより格好つけてんじゃん。髪の毛とか整えちゃって。らしくない。それにそれなに?スピーカー?」
女の子らしい。いいじゃん。
その言葉に、頬がわずかに熱を帯びる。
FELIX PROMOTION
SPEAKER|岡崎 禄
胸元に提げられたプレートを指さすと、岡崎が小さく笑った。
「あ?これ?このあと、試写会のあとにちょっとだけスピーチあるらしくてさ、俺、なんかしゃべらされるっぽい。で、これ、渡された。やだけど」
「へえ、スピーチ…てか嫌なんだ。岡崎得意そうだけど。そういうの」
「や、いつものミーティングとかなら全然いんだわ。けどこんなお偉い様方がいっぱいみてる中で話すの、普通に嫌ですよ。緊張する。 昨日とかずっと何話そうかで頭いっぱいだったからね。でな?俺なりにこう話そうとか色々考えてたわけよ?したらさっき部長が、岡崎くん台本これね。とか言ってきて。いまさらかい!おいそれ早く言えやっていう」
ベラベラと冗談を交えながら話す岡崎の声が、絨毯の敷かれたフロアに穏やかに吸い込まれていく。
高い天井、落ち着いた音楽、少しだけ背筋を伸ばす空気──その中で、ふたりの距離だけがほんの少しだけ近づいた気がした。
「フェリクスプロモーションの岡崎様、岡崎禄様はいらっしゃいませんか?」
「──あ、呼ばれた」
少し先にいたスタッフの声に、岡崎が軽く手を上げて応じる。
「俺、ちょい行ってくるわ。藤井、あとでな」
短く手を振り、会場の奥へと姿を消していく背中。
その後ろ姿が遠ざかっていくのを見つめながら、胸の奥にかすかに残った温もりが、静かに息づいていた。
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