テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
233
78
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
Side健治
病室の前で立ち止まり、酷く緊張しながら、ドアをノックした。
「はい、どうぞ」と美緒の声が聞こえて来る。
先日、美緒が取り乱した時以来になる久しぶりの対面。
お見舞いに行く足が遠のいていたのは、仕事が忙しかったのもあるが、俺に対する拒否反応を目の当たりするのが怖かったから。
謝罪や美緒の体調を伺うメッセージは送っていたものの、美緒からの返事をもらえる事はなかった。だから、まだ、俺に対して怒っているのだろうと容易に想像がついた。
再び、罵倒される覚悟でドアを開けた。
「美緒……」
ベッドの上にいる美緒と目が合うとなんだか気まずい。
「具合はどう?痛みは引いた?」
「健治……来てくれたんだ。だいぶ、良くなって週明けに退院が決まったの」
そう言って、美緒は以前のように穏やかに話しかけてくれた。その様子にホッとして、緊張がとける。
「そうか、やっと退院できるんだな。退院の時には会社休んで迎えに来るよ。あっ、そうだ、前に言っていたジェルマット買って置こうか?」
俺の言葉に美緒は、複雑な表情を浮かべた。
「私……。家を出る事にしたの。もう、新居も決めたから」
「えっ……?」
キッパリと言い切る美緒。俺は突然の出来事に思わず言葉を失った。
「だって、健治が自分で言ったんだよ。もしも健治が私を裏切るような真似をしたら、その時は私から健治に三下り半を突き付けていいんだって。だから、一緒には暮らせないの」
「美緒……もう一度だけチャンスをくれないか?」
俺の言葉を聞いた瞬間、美緒が顔を歪めうつむいた。
そして、涙を堪えているのか、鼻をすする音がする。
暫しの沈黙の後、美緒がゆっくりと話しだした。
「別居を簡単に決めた訳じゃない……健治が、私のために動いてくれているのも知ってるの……」
「美緒、俺が本当にバカだったんだ。本当に反省している」
「そうだよね。バカな事して反省しているんだよね……」
そう言って、顔を上げた美緒の瞳は、涙で濡れていた。けれど、その瞳は強い意思を示し、俺を見据える。
「でもね。反省したとしても、もう、無理。私は、健治が遅くなるたびに浮気しているんじゃないか、また裏切られるんじゃないかって、不安におびえながら過ごすのは嫌なの」
「もう、二度と裏切らないと約束する。だから……」
と、言いかけたところで、美緒が叫ぶように言った。
「そんな軽い約束はいらないっ!」
「美緒……」
「約束したって、どうせまた破るんでしょう?だって、私にバレなきゃいいって思っているんだよね。だから、果歩とホテルに行ったんだし、何度も会ってたんだよね。……私は健治の事が信じられないの。信じるなんて無理なの。こんな状態で、一緒になんて暮らせない」
美緒の瞳から流れ落ちた涙が、ぽたりと落ちる。
俺は、それを拭おうと手を伸ばしたが、美緒は俺を睨みつけたまま後ずさった。
もう、涙を拭う事も許されない存在に、俺はなってしまったのだ。
腕を宙に浮かしたまま、身じろぎ出来ずにいる俺に更なる衝撃のセリフが聞こえた。
「お願いします。私と離婚してください」
頭を殴られたような衝撃が走る。
「離婚……?」
今まで美緒から離婚を言い出した事は無かった。
それに美緒は、俺の事を学生の頃からずっと好きだと言っていたから、俺の中では、やり直せるはずだと思っていた。
「私……夫婦って、支え合うものだと思っているの。それはどちらか一方が、我慢を続けて行くものでは無く、お互いが支えたり、支え合ったりする対等な存在。でも、私たち、対等じゃなかったよね」
「そんなはずない。これまでだって、俺たちは支え合って来ただろ?」
「ううん、昔から好きなった方が負けって言うじゃない。私も悪かったの。健治の事が好きで、嫌われるのが怖くて、言いたい事も言えずにため込んで……健治の意見に従うばかりだった。だから、健治に軽く見られていたんだと思う」
美緒を軽く見ていた?
そんなはずは無いと言いたかった。
けれど、”俺の事を好きな美緒なら、何をしてもゆるしてくれる”という甘い考えが頭の隅にあったのは否めない。
「私は、好きな人に裏切り続けられて、それでもずっと好きで居られるほど、寛大な気持ちにはなれないの。もう、傷つきたくない……。だから、もう、健治とは一緒に居られない」
自分を拒絶する言葉を、これ以上聞きたくなくて、美緒から俺は突き出された封筒を受け取り、病室を後にした。
その封筒の中には、離婚届が入っている。
「離婚……か。浮気なんかするんじゃなかった」
つぶやいた言葉が宙に溶けていく。
美緒から離婚を切り出されるなんて……。
いまさら悔やんでも悔やみきれない。
果歩のような女と関わってしまったばかりに、俺の人生が狂ってしまった。
イラついた気分で車を走らせ、アクセルを踏み込んだ。
途中、ガードレールにガリッと車を擦り「チッ」と舌打ちをする。
それでも、なんとか自宅マンションに戻り、駐車場に車を停めると、そのままハンドルにうつ伏した。
自分自身が原因だというのは、百も承知だ。
それでも、美緒との離婚を心が受け止めきれない。
離婚を言い出した時の美緒の瞳は、これまで見たことがないほど真剣だった。
そこにあるのは、俺が慣れ親しんできた従順さは消え、強い決意が灯っていた。
「あの時、もっと美緒を大切にしていれば……。本当に、別れるしかないのか……」
このまま、車を降りて部屋に向う気になれない。
「おかえりなさい」と、柔らかな声が聞こえることも無く、美味しい家庭料理が並ぶことも無い薄暗い部屋。
美緒と暮らしていた痕跡に、”独りなんだ”と余計に思い知らされるだろう。
ハンドルに伏せたままの俺の耳に、コンコンとガラス窓を叩く音が聞えた。
なんだろう?と思い顔を上げると、一番会いたくない女が微笑んでいた。
野々宮果歩は、何事もなかったかのように、俺に話し掛けてきた。
「健治、ねえ、飲みに行かない?」
ネイルが施された指先で髪をかきあげ、紅い唇が微笑んだ。
人の妻を階段から突き落としたくせに、まったく悪びれる様子のない果歩に、ザワッと鳥肌が立つ。
そんな果歩からわざと視線を外した。
すると、フロントガラスの端にあるドライブレコーダーが目に入る。
今ついて居るドラレコは、動体検知録画ついているタイプだ。
つまり、停車後であっても車に近づくモノがあれば、録画機能が作動するのだ。だから、いま現在の様子も録画されている。
「明日、用事があるから今日は無理なんだ」
「あら、わざわざ来て上げたのに付き合いが悪いのね。|あの女《美緒》は、入院していて居ないんでしょう。少しぐらいいいじゃない」
「なあ、野々宮。お前……俺が美緒と別れるって言ったら、美緒に手を出さないと誓えるか?」
俺の言葉に野々宮は肉食獣のような瞳を輝かせた。
「ふふっ、あの|つまらない女《美緒》をとうとう捨てる気になったのね。そうね。どうしようかしら、あの女が余計な事をしなければって、条件なら、手を出さないわ」
と言った後、果歩はハッと口元を押さえた。
すかさず、俺は探りを入れる。
「”余計な事”って、なんの事だ?俺が美緒と別れるんなら、それでいいんだろ?」
果歩は、訝し気に目を細めた。
「ねえ、|あの女《美緒》と別れるって、本気なの?」
本気も何も、お前のせいで離婚を突き付けられているんだ。と、果歩に怒鳴りたいのをグッと堪え、薄く笑う。
「ああ、別れることになりそうだ」
「そう……。なら言うけど、昔から|あの女《美緒》の事が気に入らなかったのよね。地味で平凡なクセに、いろいろな物を手にして……だから、チョット驚かそうと思って押したら落ちちゃったのよ」
と果歩がケロリと言う。
罪悪感の欠片も無い様子に、カッと頭に血がのぼるが、果歩の自白を引き出すために何でもない風の表情を作った。
でも、苛立ちを隠しきれずに、声が低く出てしまった。
「美緒が階段から落ちたのは、果歩……お前のせいだったんだな」
俺の苛立ちに果歩は気付かずに、言い訳とも言えない事を言い出した。
「あら、わたしはチョットしか、押していないわ。|あの女《美緒》が、勝手に落ちたのよ。だけど、大げさにケガしたでしょう。それで、わたしのせいにして騒がれると迷惑なのよ。あんまり騒ぐようなら、ねえ……。わたしも黙っていないわ」
「何をするって言うんだ?」
「そんなの決めてないわよ。それより、こうして話をしているなら、飲みにつれて行ってくれてもいいんじゃない?」
倫理とか、道徳観とか、何か大切な物が果歩の心から抜け落ちているんじゃないかと思う。
果歩と飲みに行く気など更々ない俺は、眉尻を下げ申し訳なさそうな振りをしながら言った。
「悪いが、アポなしで来られても……明日は予定があるって、さっきも言ったろ。早く休まないといけないんだ。また、連絡する」
俺の言葉に、果歩は不貞腐れ気味に唇の口角を下げた。
「……今日は勘弁してあげるけど、今度は絶対よ」
「ああ、おやすみ」
果歩は踵をかえし、スポーツタイプの高級車に乗り込んだ。
プッとクラクションを短く鳴らし遠ざかっていく。
俺は車の中で、「はぁー」っと深く息を吐き出し、心を落ち着けた。
そして、ドライブレコーダーからSDカードを取り出す。
「償いには足りないが、果歩の自白が取れた……」