テラーノベル
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春の匂いが、少しだけ苦手だ。
あたたかくて、やさしくて、
全部うまくいきそうな顔をしているくせに。
こういう季節ほど、
気づかないうちに何かが変わってしまう気がするから。
これは、どこにでもいる、ある少年の恋のお話。
「らんら〜ん」
間延びした声が、静かな空気をふわっとほどく。
「……すちか」
視線を上げると、
廊下の向こうからのんびり歩いてくるすちの姿が見えた。
急いでいるわけでもなく、
かといって立ち止まるでもなく、
ただ思いついたみたいに、こっちへ来る。
「呼んだだけ〜」
「用は?」
「んー……特にないかも」
相変わらずの調子に、小さく息をつく。
その後ろから、控えめに顔を覗かせたのはみことだ。
「ごめ〜んらんらん!!すちくん、止まってって言っても止まらなくて…!」
「止めてないよねえ、みこちゃん」
「一応言ったよ、“廊下はゆっくり歩こうね”って!」
「それ止めてないって言うんだよ〜」
ふわふわした会話が、
やわらかい光の中に溶けていく。
教室の時計の針が進む音と、
遠くの運動部の掛け声。
開いた窓から入る風が、紙をかすかに鳴らす。
なんでもない、放課後。
「……で、結局なんだよ」
「らんらんの顔見たくなっただけ」
「急だな」
「なんとなく〜」
へら、と力の抜けた笑い方。
それを見て、
どうしてか、それ以上突っ込む気が失せる。
「すちくんらしいね」
みことがくすっと笑って、
いつも通りの、やさしい声でそう言った。
「らんらんも、なんだかんだ嬉しそうだし」
「は?」
「今、ちょっとだけ笑ってた」
「気のせいだろ」
否定しながらも、
完全には言い切れない自分がいる。
こういう時間が、嫌いじゃないから。
……いや、違う。
好きなんだと思う。
理由なんて、ちゃんと考えたことはないけど。
ただ、すちがくだらないこと言って、
みことがそれにゆるく返して、
その間に自分がいる、この感じが。
当たり前みたいに続いているこの時間が、
やけに大事に思える。
「らんらん?」
呼ばれて、我に返る。
すちが少し首を傾げて、こっちを見ていた。
「ぼーっとしてたよ」
「……してねえよ」
「してたね、」
みことが、穏やかに同意する。
「してたね」
「お前らな」
思わず小さく笑ってしまう。
その瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけ締まる。
――こういうのが、ずっと続けばいいのに。
そんなこと、思っても仕方ないのに。
「ねえ、らんらん」
すちの声が、少しだけ落ちる。
さっきまでと同じ調子なのに、
どこかだけ、違う。
「今日さ、ちょっといい?」
「……いいけど」
「放課後、残れる?」
「うん」
短く答えると、
みことが「じゃあ俺、先帰るね〜!」と立ち上がる。
「また明日、らんらん!」
「おう」
「すちくんも、帰り遅くならないようにね!」
「はーい」
ひらひらと手を振って、みことが教室を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。
さっきまで三人でいたはずの空間が、
急に広くなった気がする。
風が吹いて、カーテンが揺れる。
その向こうで、すちがゆっくりこっちを見る。
「……で?」
先に口を開いたのは、自分だった。
なんとなく、待っていられなかった。
するとすちは、少しだけ視線を落としてから、
「ちょっと、相談したいことあって」
すちは、小さく深呼吸をしてから言った。
「ね、俺さ、好きな人できたかも…!」
その表情は、甘酸っぱくて、
それでいてやけに輝いていて。
――ああ、こういう顔、するんだ。
一瞬、言葉が出なかった。
「……へぇ、いいじゃん」
少しだけ遅れて、なんとか声を出す。
いつも通りの調子で、って意識したせいで、
逆に少しだけぎこちなくなった気がした。
すちは相変わらずおどおどしていて、
でも、どこか嬉しそうに笑っている。
「らんらんならそう言ってくれると思ってさ、!」
その一言に、胸の奥がちくりと痛んだ。
「それでね、相談したいのがさ…」
「みこちゃんともっと仲良くなるためにはどうすればいいと思う、?」
「……みこと、か」
口が、勝手に動いた。
聞きたくなかった、なんて。
そんなの、今さら思っても遅いのに。
すちの好きな人が誰かなんて。
その相手と、どうすれば上手くいくかなんて。
本当は、考えたくもない。
なのに。
「みことって何考えてるかわからないからなぁ……、あ、もちろん良い意味でな」
少しだけ視線を逸らしながら、そんなことを言う。
「そんなことわかってるよぉ〜!」
すちがふにゃっと笑う。
いつも通りのやり取り。
それなのに、どうしてか、呼吸が少しだけ浅い。
――俺、何考えてるんだ。
頭の中が、うまくまとまらない。
すちの恋を、応援したくないのか。
それとも。
……いや、違う。
そんなの、決まってる。
「具体的なことは思いつかないけど……」
言葉を選びながら、続ける。
「俺たち、基本3人でいるだろ。」
「だからさ、俺がちょっと抜ければ、2人で話せる時間とか増えるんじゃね」
言い終わった瞬間、
胸の奥が、じわっと痛んだ。
これでいいはずなのに。
すちがうまくいくなら、それでいいのに。
なんでこんなに、苦しいんだ。
「確かに……!らんらん協力してくれるの、?」
目を輝かせて、こっちを見る。
その顔を見た瞬間、
自分がどう思ってるかなんて、どうでも良くなった。
「あたりまえだろ」
少しだけ強めに、言う。
「応援する以外、選択肢ねえよ」
できるだけ、いつも通りに。
「ありがとぉっ、!!やっぱりらんらんに相談してよかった〜!」
すちは、心から嬉しそうに笑った。
――ああ。
その顔を見てしまえば、もう十分だった。
これでよかったんだって、思える。
思わなきゃ、いけない。
好きなやつの幸せを願えないなんて、
そんなの、最低だ。
だから。
何度も、何度も、心の中で繰り返す。
これは、正しい選択なんだって。
まるで、自分に言い聞かせるみたいに。
そんなすちの恋愛相談があってから、
すちとみことは、二人でいることが多くなった。
放課後、気づけば隣にいない。
昼休みも、いつの間にか二人で話している。
周りから見ても仲がいいし、
幼なじみの俺から見れば、なおさら分かる。
――距離が、近い。
前よりずっと。
「この前みこちゃんとたくさん喋ったんだけどね〜!」
放課後。
みことがいないタイミングで、すちはいつも通りやってくる。
嬉しそうに、楽しそうに、
少しだけ弾んだ声で。
その全部が、ちゃんと“恋してる顔”で。
「すごいじゃん」
笑って返す。
「この前からちゃんと進歩してる」
わかったようなことを言って、
うまくいってるねって、背中を押す。
そのたびに。
胸の奥が、じわじわと締めつけられる。
痛い、と思う前に、
息が少しだけ浅くなる。
――こんな顔してるのに。
こんなに嬉しそうにしてるのに。
一緒に喜べないなんて。
そんなの、だめだろ。
「らんらん?」
ふいに名前を呼ばれて、顔を上げる。
「え、……あ、どうした?」
「なんか、ぼーっとしてたから」
「……あー、」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
「すちたちが、もっと仲良くなるにはどうしたらいいかなって…考えてた」
口に出した瞬間、
自分で何言ってるんだって思う。
それでも。
そう言わないと、
ちゃんと“味方”でいられない気がした。
「もう十分仲いいと思うけどな〜」
続けながら、少しだけ声がかすれる。
視線を合わせられないまま、
適当に笑ってごまかす。
「らんらんそこまで考えてくれてるの〜?優しいね〜」
のんびりした声で、すちは笑う。
――やめろ。
そんなこと、言うな。
一瞬だけ、顔を上げそうになって、やめた。
そんなふうに言われたら。
少しだけ、期待してしまうから。
勘違いしそうになるから。
わかってる。
すちが好きなのは、みことで。
その隣にいるのは、俺じゃない。
ちゃんと、わかってるのに。
どうしても、また期待したくなる。
まだ勘違いしていた頃に戻りたいと、思ってしまった。
帰り道。
3人で並んで歩きながら、
すちとみことは好きなドラマの話で盛り上がっていた。
「わかる〜!あのシーンめっちゃよかったよねぇ〜」
「わかる、俺あそこでちょっと泣きそうになった!」
「え、みこちゃん泣くの早くない〜?」
「そう?」
ふわふわしたやり取りに、思わず小さく笑う。
「いや、あれで泣きそうになるのは早いだろ」
「え〜、らんらん冷たい〜!」
「冷たくねえよ」
そんなふうに、いつも通り会話に混ざる。
どうでもいい話で笑って、
特に意味もなく並んで歩くこの時間。
――こういうの、嫌いじゃない。
むしろ、好きだと思う。
「でもさ、あの後の展開がさ〜!」
「ね!あそこ最高だったよね!」
いつの間にか、二人の会話が少しだけ速くなる。
俺が口を挟む隙もなく、
テンポよく続いていくやり取り。
「……あー、」
適当に相槌を打つ。
聞いてないわけじゃない。
入り込むタイミングを逃しただけ。
それだけのはずなのに。
二人の距離が、少しだけ近く見えた。
――あれ。
一瞬だけ、足が止まりそうになる。
でもすぐに、
「らんらんも見たほうがいいよ〜!」
すちが振り返って、いつもの調子で笑う。
「はいはい、時間あったらな」
何事もなかったみたいに返して、また歩き出す。
さっきまでと同じ帰り道。
同じ3人。
それなのに。
まるで、俺がいないみたいで、
ほんの少しだけ、
何かがずれた気がした。
「ねえ、らんらん」
少しして、すちが隣に並んでくる。
さっきまでみことと並んでいたはずなのに、
いつの間にか位置が入れ替わっていた。
「ん?」
「今日さ、ちょっと時間ある?」
「放課後?」
「うん、ちょっとだけ」
その言い方で、なんとなく察する。
「ああ、いいけど」
「やった〜」
嬉しそうに笑う顔は、
さっきと何も変わらないはずなのに。
ほんの少しだけ、違って見えた。
「また相談?」
軽く聞くと、
「えへへ、まあね〜」
少し照れたみたいに、すちは笑う。
その反応だけで、
話の内容なんて大体わかる。
「進展あったんだろ」
「え、なんでわかるの!?」
「顔に出てる」
「うそ〜?」
隣で騒いでいるすちの声を聞きながら、
前を歩くみことの背中を見る。
特別なことは何もしていない。
ただ、いつも通り歩いているだけ。
それなのに。
――あいつなんだよな。
すちが、あんな顔をする理由。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「みこちゃーん!」
すちが前に向かって声をかける。
「なぁに〜?」
振り返ったみことが、やわらかく笑う。
「今日さ、ちょっと話したいことあるんだけど〜」
「うん、ええよ〜」
迷いもなく返ってくるその言葉に、
すちはぱっと顔を明るくした。
「ほんと!?じゃあ後で!」
「うん!」
そのやり取りを、少し後ろから見ている。
――ああ。
ちゃんと、うまくいってる。
俺がいなくても。
俺が何もしなくても。
二人で、ちゃんと進んでいく。
それでいいはずなのに。
「らんらん、ありがとね〜」
不意に、すちが小さな声で言った。
「は?」
「さっきの話とかさ、いろいろ」
振り向かずに、前を見たまま。
その声は、どこかやわらかくて。
「……別に、まだ何もしてねえだろ」
そう返すのが精一杯だった。
「それでもだよ〜」
くすっと笑う気配がする。
その距離が、近い。
近いのに。
「らんらんがいると安心するし」
――そんなこと、ない。
一瞬だけ、息が止まる。
でも。
「はいはい」
軽く流すことしかできない。
そんなこと言われたら。
期待してしまうだろ。
勘違いしそうになるだろ。
わかってる。
すちが見てるのは、俺じゃない。
それでも。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
そんなことを、思ってしまった。
次の日の放課後。
教室にはもうほとんど人がいなくて、
窓の外から赤い夕日が、教室の中を明るく照らしていた。
「らんらん〜」
間延びした声と一緒に、すちが机に突っ伏す。
「ちょっと聞いてよ〜」
「はいはい」
いつも通りのやり取り。
「今日さ、みこちゃんと話したんだけどね」
「うん」
分かっていたはずの話題に、
胸の奥がわずかに強張る。
「なんかね、前より普通に話せるようになった気がするの!」
嬉しそうに顔を上げるすち。
その目は、きらきらしていて。
――本当に。
うまくいってるんだな。
「よかったじゃん」
自然に出た言葉は、
驚くくらいちゃんとしていた。
「らんらんのおかげだよ〜」
「俺は別に」
「そんなことないって!」
机に頬を乗せたまま、すちがこっちを見る。
「だってさ、らんらんがいろいろ考えてくれたから、今こんな感じになってるんだもん」
その言葉が、
ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
嬉しい、はずなのに。
「……そっか」
うまく笑えているか、自信はなかった。
「それでね」
すちが、少しだけ声を落とす。
「今度、二人で出かけることになったの」
「…っ、へぇ、」
来ると思ってた。
分かってたのに。
喉の奥が、少しだけ詰まる。
「いいじゃん」
それでも、ちゃんと返す。
「どこ行くんだよ」
「まだちゃんと決めてないんだけどね〜、カフェとかいいかなって!」
楽しそうに話す声。
その全部が、遠く感じる。
「いいんじゃねえの。みこと、そういうの嫌いじゃなさそうだし」
「ほんと!?」
「たぶん」
適当な相槌。
でも、間違ってはいないと思う。
「そっか〜……じゃあ、頑張ってみようかな」
小さく呟くその声が、やけに近くに聞こえた。
――頑張る、か。
その言葉の意味を考えて、
少しだけ視線を落とす。
「ねぇ、らんらん」
「ん?」
「俺さ」
少しだけ、間があって。
「ちゃんと伝えたほうがいいのかな」
その一言で、
空気が、変わった気がした。
「……伝えるって」
分かってるくせに、聞き返す。
「その、気持ち」
照れくさそうに笑うすち。
「こういうのって、ちゃんと言ったほうがいいんだよね?」
――ああ。
ついに、そこまで来たんだ。
「……まあ、そうじゃねえの」
声が、少しだけ低くなる。
「言わないと、伝わんねえだろ」
自分で言っていて、
何をしているんだろうと思う。
背中を押してる。
自分で、自分の首を締めてるみたいに。
「だよねぇ……」
すちが、ゆっくり頷く。
「じゃあさ」
顔を上げて、まっすぐこっちを見る。
「俺、今度ちゃんと伝えるね」
――やめろ。
「みこちゃんに、好きって」
その言葉が落ちた瞬間、
時間が一瞬だけ止まった気がした。
それでも。
「……うん」
頷くことしか、できなかった。
「頑張れよ」
ちゃんと、嬉しそうにできているか、わからない。
少し顔がこわばっているかもしれない。
それでも、いつも通りに見えていれば、それでいい。
「うん、頑張る!」
すちは、迷いのない顔でそう言った。
その横顔が、あまりにもまっすぐで。
本当に、終わるんだな。
この時間も。
この距離も。
何も言えないまま。
何も変えられないまま。
「らんらん、ありがとね!」
やわらかい声が、静かに落ちる。
「いろいろ!」
その言葉に、返す言葉が見つからなくて。
「……別に」
短く、それだけ返した。
それ以上は、何も言えなかった。
暫く経った日のこと。
生徒がまばらになった教室の中で、
「らんらん〜!」
呼ばれて顔を上げると、
すちが少しだけ緊張した顔で立っていた。
「……今日、行ってくるね、!」
その一言で、全部分かる。
「みこちゃんに」
わざわざ言わなくてもいいのに。
それでも言うあたりが、すちらしいと思った。
「…⋯そっか」
短く答える。
それ以上、何か言おうとして、
やめた。
言えることなんて、もう決まってる。
「頑張れよ」
それだけ。
それだけでいい。
それしか、言っちゃいけない。
「うん」
すちは、少しだけ笑って頷いた。
その顔は、少し不安そうで、
でもちゃんと前を向いていて。
――本気なんだな。
「らんらん、」
「ん?」
「終わったら、また話聞いてくれる?」
その言葉に、ほんの一瞬だけ詰まる。
聞きたくない、なんて。
そんなの、思っちゃいけないのに。
「……ああ」
それでも、頷く。
「いくらでも聞いてやるよ」
「ありがと」
すちは、ほっとしたみたいに笑った。
その顔を見て。
胸の奥が、静かに痛んだ。
「じゃあ、行ってくる、!」
背を向けて、教室を出ていく。
その後ろ姿を、ただ見ていた。
呼び止めることなんて、できるはずもなくて。
ただ。
「……いってらっしゃい」
聞こえないくらいの声で、そう呟いた。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
一人になった教室は、やけに静かだった。
さっきまで誰かがいたはずなのに。
ついさっきまで、ここで話していたはずなのに。
全部、嘘みたいに消えている。
「……はあ」
息を吐いて、椅子に座る。
机に突っ伏して、目を閉じた。
考えないようにしても、
勝手に浮かんでくる。
今頃、何話してるんだろう、とか。
ちゃんと伝えられてるのか、とか。
――うまくいけばいい。
そう思うのに。
胸の奥が、じくじくと痛む。
「……なんだよ、これ」
小さく呟く。
自分でも、呆れるくらいに矛盾している。
応援してるくせに。
うまくいってほしいくせに。
それでも。
「……行くなよ」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
誰もいないのに。
今さら、そんなこと。
意味なんてないのに。
言ったところで、何も変わらないのに。
それでも、止まらなかった。
「……っ」
喉の奥が詰まって、うまく息ができない。
視界が少しだけ滲む。
でも、それを拭う気にもなれなかった。
――最初から、分かってたのに。
こうなることくらい。
ずっと、分かってたはずなのに。
「……俺じゃ、ないんだろ」
誰に言うでもなく、呟く。
答えなんて、最初から出ている。
それでも、どこかで期待していた。
ほんの少しでも、可能性があるんじゃないかって。
そんなわけ、ないのに。
「……はは…」
力なく笑う。
ほんと、どうしようもない。
こんなに近くにいたのに。
ずっと隣にいたのに。
何一つ、届かなかった。
窓の外から、やわらかい風が入ってくる。
カーテンが揺れて、
机の上に置かれた小さな鉢をかすめた。
――ハツコイソウ。
いつか、すちが「かわいいね」って言って、
なんとなく置いたままになっている花。
淡い色の、小さな花。
「……皮肉だろ」
初恋、なんて。
そんな名前の花が、
こんなところにあるなんて。
指先で、そっと触れる。
やわらかくて、あたたかい。
まるで、あの時間みたいだ。
――戻れないのに。
「……終わり、か」
ぽつりと落ちた言葉は、
やけにあっさりしていた。
そのくせ、胸の奥だけがやけに重い。
しばらくして。
ゆっくりと目を閉じる。
浮かんでくるのは、
いつもの、どうでもいい時間ばかりだった。
くだらない会話とか、
帰り道のどうでもいい話とか。
なんでもない、全部。
「……好きだったんだけどな」
ようやく形になった言葉は、
驚くくらい小さかった。
誰にも届かないまま、
静かに消えていく。
風が、また吹く。
カーテンが揺れて、
ハツコイソウの花びらが、わずかに震えた。
まるで、それだけが、
この気持ちを知っているみたいに。
コメント
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ノベル書けるんすごぉ… お疲れ様!!
毎回、クオリティ高い!!がんば!
感動する🥹🥺
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