〜第3話〜
翌日。
スタジオの扉を震える手つきで押し開けると、そこにはまだ朝の肌寒い空気が残っていた。照明は全部ついているのに、妙に薄暗く見える。昨日の重たい残滓が、俺の周りにだけ、いつまでもまとわりついているかのように感じた。
ギターを膝に乗せ、軽く音を出す。楽器自体の響きは悪くない。でもその音は、自分の心には全く届かなかった。全然落ち着かなくて、胸騒ぎが収まらない。
…でも昨日、言ったんだから。「明日話す」って。
深呼吸をして、少しでも胸を落ち着かせる。
昨日からずっと、二人の前で何も言えなかった自分が、嫌で嫌で仕方なかった。今日は…言わなきゃいけない。言わなきゃ、何も戻らない。わかってるのに、ひどく体が震える。
その時、扉の音がして、若井が入ってきた。ひと呼吸遅れて、涼ちゃんも。二人とも、普段通りに見えて、どこかぎこちない笑顔をしていた。
「…おはよ」
とりあえずそれだけ言う。二人から返ってくる「おはよ」も、いつもの温度じゃなかった。
軽い打ち合わせを済ませ、スタッフさんたちが別室に移動していく。三人だけになった途端、室内の温度が一気に下がったように感じた。
空気が沈む。昨日の続きが、そのまま床に落ちているみたいだった。
今日は、俺が言わないと。俺のせいなんだから。…ちゃんと、しないと…
壁と向き合ったままギターのネックを握りしめ、ついに口を開いた。
「…あの、さ」
すぐに言葉に詰まってしまう。
二人の顔を見れていないのに、二人がこちらを見てきているのが嫌でも伝わってきて…その視線に押しつぶされそうになるのに耐えるので精一杯になってしまう。
…だめだ、続けなきゃ。怖がるな。
「…昨日さ…俺…その…」
言葉が出てこない。これでもかというほど考えてきたはずなのに、全部、抜け落ちていく。
「…一人で…いろいろ考えてて。その…考えてるうちに…気づいたら…落ち込んでて…」
自分でも何を言っているのかわからない。でも止まれなかった。止まったら、また言えなくなりそうで。
「…二人に、怒ってた、とかじゃ、なくて…」
「なんか…なんか俺…勝手に…自分で自分を、変に追い込んで…このままじゃ、うまくいかないような、気が、して…」
俺の言葉が途切れた。それだけで沈黙が一気に広がる。
それでも、逃げたくなくて、続けた。
「昨日のリハも…本当は…俺が一番、ズレてたのに…音も…気持ちも。なのにそれ、言えなくて…」
「…二人に、心配…かけたくなくて…でも、結局…かけちゃってて…」
こんな意味のわからない、情けないことを言うなんて、もうやめたいのに、胸の奥から勝手に言葉が漏れ出てくる。
「…その…とにかく、…ごめん」
「…ほんとに、ごめん…」
はっきりと言えたのは、最後の一言だけだった。でも、それだけで十分だった。
それっきり、三人とも黙ってしまったけど、今までよりかは軽い沈黙だった。二人を一瞥すると、若井は目を伏せて、指先でピックを弄んでいた。涼ちゃんは少しだけ俯いて、でも俺の方を見失わずにいた。
少しして。
静寂を破ったのは、若井だった。
「…まあ、俺らも言えなかったしね。元貴だけが悪いわけじゃないと思うよ」
軽い言い方なのに、胸の奥に真っ直ぐ届いた。涼ちゃんも、静かに息を吐きながら言った。
「…俺も。昨日、もっと素直に言えばよかった。何も言えなかったの…俺もだと思う」
重く張りついていた空気が、少しだけほどける。
と、そこでまた沈黙が戻る。さっきより浅いけど、まだ濁った色が残る沈黙。そうして数十秒ほどしてから、若井が言った。
「…ゲームしない?三人で」
「は?」
思わず声が裏返ってしまった。
若井は何事もなかったようにギターを持ち上げ、涼ちゃんに向かって顎をしゃくる。
「三人で同時にコード弾いて、合うかどうか。…それだけ」
涼ちゃんが小さく吹き出した。
「ゲームじゃん、それ」
「ゲームだよ。だからそう言ってんじゃん。もし合わなかったら…まぁそれはそれで、今の俺たちの音ってことで」
…しょうもない。
でも今は、そのしょうもなさが、すごくありがたかった。
「やる?」
若井が聞く。涼ちゃんが頷く。
俺も、気づけば頷いていた。三人で向き合い、適当にコードを決める。
「じゃあ…せーの、で」
「うん」
呼吸をそろえる。昨日はそろえられなかった呼吸が、今日は自然に揃った。
「せーの」
三人の指が同時に音を奏でる。
…結果は、見事なまでの不協和音だった。
涼ちゃんが苦笑しながら言った。
「待って、二人とも何にしたの?」
「普通にD」
と若井。そして
「俺Em」
と涼ちゃんが続き、二人が俺の方を見た。俺は少し目をそらしながら言った。
「…F#dim7…」
「はぁ!?」「えぇ!?」
そりゃあ合わないわ、と二人が文句を垂れる。
少し不満げな二人だが、わずかに、でも確かに。昨日までの重さが溶けていく。俺もいつの間にか、ふざけられるくらいにはリラックスできていた。
コードをもう一度鳴らす。
C、E、G。
揃ってはいないけど、さっきよりもずっと綺麗に響いた。
若井が言う。
「ほらな。弦が切れても、ちゃんと張り直してやれば鳴るんだよ」
その言葉を聞いて、ふっと自分の肩の力が抜けたのがわかった。
威張っているみたいだけど、その奥には若井なりの気遣いがあるんだろう。ほんと、こういうとき機転利くんだよな、こいつ。
涼ちゃんも。いつもの明るい笑顔に戻っている。少し…いや、かなり不器用だけど、誰よりも優しい人。
そんな二人と三人で鳴らした音は、どこかぎこちなくて…でも、温かかった。
…ここからまた、始めればいい。昨日じゃなくて、今日からでいい。
そう思えるくらい、俺らの音は、ただの音じゃなくて、一つの「音楽」になっている。
朝、一人で鳴らしていたギターの音。空っぽだったその音は、今度はちゃんと、俺の心に深く響いていた。
スタジオを出る直前。
振り返ると、スタジオの蛍光灯が、俺の目にはさっきより少しだけ明るく映った。
それでもまだ、 胸の奥のどこかで、震えそうになっているのは確かだけど。…このざらつきが 完全に消えるのには、もう少し時間が必要なんだと思う。
でも、なぜだろう。大丈夫な気がした。たぶん、 今日の音たちが、…その震えごと、俺を包み込んでくれたから。
…この気持ち、忘れないようにしよう。
そう胸に刻んで、スタジオのドアを開く。
そして、朝より一段明るくなった空の下へと、大きく足を踏み出した。
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