家に帰ったのぞみは、もう専務寝てるかな? と思いながら、メールを打とうとした。
「着きました。
おやすみなさい」
素っ気ないな、とその文面を見て思う。
絵文字でも入れようか。
これだと素っ気なさすぎて、なんだか喧嘩売ってるようにも見えるから。
絵文字、絵文字……と絵文字の一覧を眺めながら、人気のないリビングをウロウロしていたのぞみの目にハートマークが入る。
そういえば、いつぞや、永井さんが言ってたな。
「男にメールとか送るときは、ハートマークとか入れてごらんなさいよー。
少しこっちに気がありげな男ならイチコロよー」
「それは永井さんだからですよー」
とみんなが笑って言うと、
「まあ、イチコロとは行かなくても、結構嬉しいものらしいわよ」
と万美子は言っていた。
……イチコロ。
い、いや、専務をイチコロにしたいわけではなく、送ると喜ばれるらしいからな。
うん……。
だが、押そうとする手が震える。
ハートマークとか、よく考えたら、恥ずかしいな。
色も形も可愛いので、入れたら見た目がぐっと華やぐとは思うのだが。
実際、女同士なら、
「ありがとう~」
とかいう文章のあとによく入れる。
……そう、女同士なら。
うう。
押すべきか、押さざるべきか。
「あら帰ってたの、のぞみ。
早くお風呂入んなさいよ。
おやすみ」
と風呂から出て来た浅子が言ってくる。
「おやすみー」
と顔も上げずに言う娘がクマのようにウロウロしているのを放って、母は寝た。
どうしよう。
イチコロか。
いや、専務をイチコロにしたいわけでは、決してないのだが。
っていうか、ハートマークなんか送ったら、私が専務にイチコロになってるみたいに見えないだろうか?
余計な心配をしながら、ハートマークひとつ押せずに、のぞみはのたうちまわる。
押せない。
どうしても……。
かと言って、このままでは、素っ気なさすぎる。
いい文句も浮かばないしなー。
だが、ハートのついたメッセージを見た京平が、蔑むような表情をし、ふっと鼻で笑う幻が何度も頭をよぎる。
教師時代から京平を知るが故のトラウマだ。
ああっ、どうしたらっ、と更にのたうっていると、先に、京平からメールが入ってきてしまった。
『まだか?
着いたら、連絡しろ』
遅かったので心配になったらしい。
すっ、すみませんっ、とのぞみは慌てて送信する。
ハートマークのないままに。
『おやすみ』
と返ってきて、それきりだった。
……男の人のメールってなんでこんなに素っ気ないんだろうな。
自分を棚に上げ、のぞみは思う。
貴方もハートマークのひとつくらい打ってみませんか? ねえ……、と思いながら、のぞみは寂しくスマホを置いて、洗面所に向かった。
「坂下、今日は忙しいのか?」
月曜日、専務室に行くと、京平はそう訊いてきた。
また坂下に戻ってますが、昨日、ハートマークをいれなかったからですか?
と思いながら、のぞみは言った。
「今日は、新人の歓迎会ですから。
あ、そうか。
役員の人は来られないんでしたね。
せっかくマイボール、マイシューズを持ってらっしゃるのに」
「持ってないぞ……」
「すみません。
私の頭の中ではもう専務がマイボール、マイシューズでボウリング場に立ってました」
と白状すると、京平は、勝手な妄想をするなよ、という顔をする。
「では、失礼します」
とファイルを手に出て行こうとすると、
「会が終わったら、寄り道しないで早く帰れよ」
と京平は顔も上げずに言ってくる。
いつか聞いたセリフだなーと思ったら、放課後、校庭などで京平と遭遇したとき、よく言われていたセリフだった。
『お前ら、寄り道しないで早く帰れよー』
ほんのちょっと前のことなのに、なんだか今はすごく遠いなー、と高校時代を思い出しながら、
「わかりました。
失礼します」
と頭を下げ、のぞみは出て行った。
なんでこんな日に限って早く終わるんだ。
職場を出た京平はひとり、街中を歩いていた。
暇になってしまったじゃないか。
今までなら、よし、今日くらいは、ゆっくりするかと思うところだが。
……落ち着かんな。
坂下……いや、のぞみ。
今頃、若い社内の男たちとチャラチャラしているのだろうか。
京平の頭では、ボウリング場で、自由の女神のようにボウリングのピンをかかげたのぞみが男たちにかしずかれていた。
のぞみが居たら、
「いや、ですから、専務。
私、そんなモテませんので」
と言うところだろう。
そのとき、ふと、視界に入った。
あののぞみと行ったのと同系列のショールームが。
なんとなく入ると、奥の方から、また樫山が出てきた。
「なんだ。
京平、今日はひとりか」
と言ってくる。
「あの可愛い彼女は今日は一緒じゃないのか」
「……可愛い?」
と眼光鋭く訊き返すと、
「なんだ、可愛くないのか?」
と樫山は笑って訊き返してくる。
いや、のぞみは可愛い。
だが、他の男がのぞみを可愛いと言うと、嬉しいような不安になるような。
樫山、今までロクでもない奴だと思っていたが。
いいレストランも教えてくれたし。
俺たちの心配もしてくれたし。
実は、こいつ、いい奴なんじゃないのか?
お坊っちゃんだし、ルックスもいいし、頭もいいし、仕事もできる。
もしかして、こいつ、申し分ない奴なんじゃ……。
そんな樫山が、のぞみを可愛いと言うなんてっ。
のぞみが樫山を好きになってしまったらどうしようっ、と思っていると、樫山が笑って言ってきた。
「この間、俺と居た秘書の仙道も、あの子可愛いですねって言ってたぞ」
「その秘書はクビにしろ」
「は?」
「いや、二度と坂下が視界に入らぬ島にでも飛ばせ。
戻ってくるのに、二、三日かかるような島にな」
二、三日かかるって、そこは日本か?
という顔を樫山はする。
ああ、こんなつまらぬことを言ってしまうのも、のぞみが俺に気がないように見えるからだ。
なんで俺があんな小娘に振り回されなきゃならんのだ、と悶々と考え続けていると、
「どうした、京平。
大丈夫か?
実は、彼女と上手くいってないとか?」
と樫山が言ってきた。
いつもなら、そんなわけあるか、と強がるところだが、なんだか今日は気弱になっていた。
「まあ、今度、呑みにいこうじゃないか」
と背中を叩かれ、
「……今日がいいな」
と言ってしまう。
えっ? 今日っ? と驚いた樫山だったが、ただごとではないと思ったのか。
「わかった。
ちょっと待ってろ。
一度、社に戻ってくるから。
ほら、サークルの帰りにみんなで寄ってた店あるだろ。
あそこで待ってろ」
と言ってくる。
「……樫山っ」
と京平は樫山の手を握り、肩を叩いた。
「お前、いい奴だったんだな。
鼻持ちならない気障野郎とか長年思ってて悪かった」
と言うと、樫山も、
「大丈夫だ。
俺もお前のことをそう思ってたから」
そう言って強く手を握り返し、京平の肩を叩いてきた。
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