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唯由が去ったあと、すぐに戻らなければならないのに、蓮太郎は今日は持っていたスマホを取り出す。
直哉に電話した。
「どうしたんですか、仕事中でしょう、蓮太郎様」
「……俺は褒めるところのない人間か」
ええっ? となにか用事をしながら、直哉は訊き返してくる。
「ちょ、ちょっとお待ちください。
少し時間をください」
単に急いでいたから、そう言ったのだが、蓮太郎は、やはり、直哉にも褒めるところがないのか、と落ち込んだ。
人に対する思いやりが足りなかったのだろうかな、と悩みながら、研究棟に戻ると、リラクゼーションルームでマッサージチェアに座っている紗江が見えた。
いや~、極楽極楽、という顔をしている彼女の前に立つ。
「紗江さん」
「あー、れんれん」
と笑顔を向けてきた紗江に言う。
「お疲れでしょう。
肩でもお揉みしましょうか」
「えっ? いいよっ。
今、機械が揉んでくれてるから」
「珈琲でも淹れましょう」
「どうしたの、れんれんっ。
誰か来てーっ。
れんれんが壊れた~っ」
と紗江はマッサージチェアから身を起こす。
その頃、唯由はちょうど誰もいなかったエレベーターの中で、ひとり悩んでいた。
まず真っ先に褒めるべき、雪村さんのいいところって何処かな?
……なんか考えれば考えるほど、何処もいいところな気がしてきて選べないっ、と苦悩していたとき、ちょうど扉が開き、作業着姿の男が乗ってきた。
「お疲れ様ー。
どうしたの? 蓮形寺さん」
苦悩するクマのように頭を抱えている唯由を見て、驚いたように言う。
いつぞや、社外の友人たちとコンパしてるところを見られた村井だった。
「あっ、お疲れ様ですっ」
と慌てて挨拶すると、
「お疲れ。
なに悩んでるの?
あ、もしかして、この間のコンパのとき、手をつないで帰ってた人のこととか?」
と笑って言ってくる。
そこで、唯由はふと気がついた。
「……村井さん。
そういえば、あのとき手をつないでた……
いや、私の手を引っ張ってた人、うちの会社の人だったんですけど」
「えっ? そうなの?」
「雪村さんって言うんですけど、ご存知ありませんか?」
村井は考えるような顔をし、
「えー、知らないなあ」
と言う。
エレベーターだからというわけではなく、足元が不安定になったかのように唯由は感じた。
もしや、ここは異世界?
雪村さんが存在しない世界とか。
蓮太郎の笑顔や真顔や脅しつけている顔が走馬灯のように浮かんでくる。
いや、笑顔意外、ロクな表情ではないので、懐かしんでいいのかわからないのだが……。
でもでもっ、
『蓮形寺』
と呼ぶ雪村さんの声まで頭にまざまざと浮かぶのにっ。
ここが異世界でないのなら、雪村さんは実は研究棟に住んでいる霊っ!?
……まで唯由の思考が飛んでしまったとき、道馬が乗ってきた。
「お疲れ」
「あっ、道馬さん。
雪村って人、この会社にいましたっけ?」
と村井が訊いている。
「……雪村?
雪村蓮太郎か? 研究室の」
あ~、と村井が声を上げる。
「研究室の。
なんだ、研究棟の人なら知らないよ。
あの人たち、あんまり外出てこないから」
と村井は唯由を向いて笑った。
「紗江さんなら知ってるけどね。
結構ウロウロしてるし、美人だし。
でも……」
『でも』の続きが気になったが、村井と道馬は目を合わせて笑っている。
「『でも』、だよな~」
と言って。
なっ、なんなのですかっ、気になるのですが、と唯由は思ったが、二人は、ははは、と笑い、話を終わらせてしまった。
村井が、
「じゃあ、蓮形寺さん。
そうだ。
うちの連中が今度秘書課の人とコンパしたいって言ってたんだ。
今度、よろしくね」
と言って道馬にも挨拶し、降りていく。
おう、と道馬は村井に手を上げたあとで、こちらを向いた。
「いや~、君、よく蓮太郎と付き合ってるね~」
「は?」
「いい奴なんだが、変わってるから。
じゃあ、蓮太郎をよろしくね。
……蓮太郎、月子ちゃんとは見合いしないみたいだし」
と言って、にんまり笑う。
「月子ちゃんって、おとなしいよね」
ええっ? 誰がですか、と口から出そうになった。
「……そ、そうなんですか」
「いや、そうなんですかはおかしいよね」
と言う道馬と話していて降りそびれた。
では、失礼します、と降りる道馬に頭を下げたあとで、
あっ、私、今のところで降りるんだったと気がついたのだ。
そのまま社長室のフロアまでエレベーターが呼ばれて行ってしまう。
ひっ、誰が呼びましたっ!?
と焦った瞬間、扉が開いた。
社長がいた。
でっぷりとして貫禄はあるが、人の良さそうな社長だ。
唯由は社長に頭を下げ、エレベーターの端に避ける。
社長の背後にいた秘書の大野美菜が、
「一階」
と唯由に言う。
唯由は一階のボタンを押し、開くのボタンを押した。
うむうむ、という感じに笑顔の社長が乗ってくる。
「蓮形寺くん、会社には慣れたかね」
と社長が話しかけてくるのに、はい、と返事をする。
あ、ありがとうございますっ、と唯由は美菜に感謝した。
うっかり社長室のフロアまで用もないのに上がってしまい、社長と出くわしただけなのだが。
美菜が一階と言ってくれたおかげで、唯由がボタンを押すために、そこにいたかのようになったからだ。
途中のフロアで扉が開き、唯由の同期の男性社員、平田が乗ってこようとした。
社長に気づき、ビクッとする。
「まあ、乗りなさい」
と社長が笑顔で言い、平田は怯えながら乗ってきた。
「君は新入社員かね」
「は、はい」
「会社には慣れたかね」
「はいっ」
社員と交流をはかりたい社長からの質問の嵐に平田はやられていた。
側に来た美菜がぼそりと、
「イケニエ」
と言う。
ぷっと笑ってしまった。
「大野さん、ありがとうございます」
と小声で言うと、いやいや、と美菜は言う。
「そもそも、あんたが最初に冷静に対処したから、調子合わせられただけだから。
間違って上がってきたの、顔に出さずに頭下げて、すっと避けたじゃない。
さすが、研究棟のヤンバルクイナを入社早々捕まえる奴は肝が据わってるわ」
ひっ、と唯由は固まる。
三人とも一階で降りていったが、唯由は三人に頭を下げ……
いや、平田には下げなくてよかったのだが、一緒にいたので下げ、
そのままエレベーターに乗って上に上がっていく。
振り返り、ふっと笑った美菜から逃げるように。
雪村さんは、会社の皆さんにヤンバルクイナとか呼ばれていたのか。
……希少な生物だからかな。
そう思いながら、唯由はエレベーターの中から急いでメッセージを送った。
そういえば、蓮太郎を褒めてないままだと気づいたからだ。
「すみません。
いつもなんだかんだでお褒めいただいていたのに、私、雪村さんを褒めないままで。
思いついたら、すぐ送りますね」
しばらく仕事をして、スマホを見ると、
「いや、別にいい。
俺にいいところなんて、きっとない」
というメッセージが入っていた。
……珍しく謙虚だな、と唯由は思ったが、蓮太郎は落ち込んでいるだけだった。
「そんなことないです。
ありすぎて、答えられなかったくらいですから」
そう送ると、そのまま返事はなかった。
なんだろう。
なにか怒っているのかな、と思いはしたのだが。
忙しかったので、そのあとはもうスマホを見ることはできなかった。
「蓮形寺くん、仕事はもう慣れたかね」
帰り際、エレベーターホール近くで社長と出くわして、そう言われた。
それ、朝も訊かれました、と思いはしたのだが。
社長、新人みんなにそう言って歩いてるんだろうな。
他に会話、急に思いつかないのに、一生懸命話しかけてくれてるんだろうな。
ありがたいことだ、と唯由は思っていた。
実家の関係で会社の偉い人たちはよく見るが、どんな立場になっても謙虚な人もいれば、横柄な人もいる。
いい社長でよかった、と唯由が思ったとき、いきなり、横にあったエレベーターが開いた。
蓮太郎が現れる。
「本当に早く終わったぞ。
さあ、帰ろう、蓮形寺」
と大股にやってきて、唯由の手をつかんだ。
「ヤ、ヤンバルクイナがっ」
と唯由は思わず、叫んでしまう。
なんで研究棟からここまで来たんですかっ、と言いたかったのだが。
頭の中で、滅多に見かけない絶滅危惧種なのに、こんなところまで出てくるとかっ、と思っていたせいで、口からついて出てしまったらしい。
「ヤンバルクイナ?」
と蓮太郎と社長に同時に訊かれ、
すみません、すみません。
なんでもございません、と唯由は呪文のように繰り返す。
ぺこぺこしていると、頭の上から聞こえてきた。
「蓮太郎、なにしにここまで来たんだ」
社長が蓮太郎に訊いているようだった。
やはり、親戚なのか。
同族経営だって言ってたもんな、と唯由が思ったとき、
「俺の愛人を迎えに来たんだ」
と蓮太郎が言った。
「愛人?」
そう、と蓮太郎は唯由の肩を抱き寄せかけて、何故か手を離し、少し距離を置くと、唯由を手で示した。
「愛人だ。
じいさんにもよく言っておいてくれ」
「……ずいぶん、よそよそしい愛人だな」
社長はそう言ったあとで、唯由に深々頭を下げてきた。
「入社早々、蓮太郎が迷惑をかけているようで」
「いっ、いえっ、そんなっ。
とんでもないですっ」
と唯由もペコペコ頭を下げる。
離れたトイレから出てきた美菜が蓮太郎に気づき、
「うわっ、同期なのに久しぶりに見た~」
と呟くのが聞こえてきた。