由樹は天賀谷展示場に到着すると、慌てて事務所に駆け込んだ。
「お疲れさまです!」
事務所にいた紫雨と林が振り返る。
「お疲れー」
紫雨がにやにやと由樹を見つめる。
「お前、携帯忘れたんだって?」
由樹は荒い息をつきながら、靴を脱いだ。
「そうなんですよ!八尾首展示場から連絡ありませんでした?」
「…………」
紫雨が林を見る。
林も冷たい目で紫雨を見る。
「え、ありました?」
由樹の目が2人の間を往復する。
「いや、俺が用があって電話したら、お前の携帯置きっぱなしだって言われた」
「それから連絡はないですか?」
「ねぇよな?」
紫雨が林を見ながら笑う。
「さあ、俺はわかりません」
その時展示場の電話が鳴った。
紫雨がチラリと目で確認して、受話器を上げすぐに下ろした。
「え?今の着信じゃないんですか?」
由樹が驚いて覗き込もうとすると、
「さっきから間違い電話がひでぇんだよ。FAXだと勘違いした会社から、自動再送してくんだよな。鳴りやまねぇの」
紫雨が笑いながら由樹をつきとばしたところで、展示場のドアが開いた。
「あ、新谷君。来たね」
秋山が微笑む。
「はい!お待たせしてすみません!」
「どうぞ。もう柴田さん来てるから」
「はい!」
由樹は紫雨が準備してくれたスリッパに履き替えると、展示場に入っていった。
その後ろでまた着信が鳴る。
紫雨は今度はディスプレイも見ないままに受話器を上げて、また下ろした。
◆◆◆◆◆
「くっそ!なんで電話に出ねえんだよ!天賀谷展示場は!」
篠崎はインターチェンジのど真ん中でアウディのハンドルを殴った。
新谷が出発してからそろそろ2時間半が経とうとしている。いくら下道で向かったといえ、そろそろ天賀谷展示場に到着しているころだ。
一方篠崎は、高速を飛ばしてもあと30分はかかる。
その間にもし、開発部との契約が済んでしまえば―――。
『篠崎さんのお気持ちは嬉しいですが、引き受けた手前、太陽光発電に関しては、できるだけのことをやってきます!』
―――うわ、あいつ言いそう……。
『全力を尽くすことが、お客様の幸せにつながると信じて……』
―――はいはい、そうだよな。そう思って引き受けようとしてるんだろ。
『そしてそれを勧める営業マン、紫雨さんや、渡辺さんや、そして他の誰でもない、篠崎さんのために。俺、頑張ってきますね!』
――――。
『こんなことを言うのはおこがましいのですが、俺が開発を終えてまた営業マンとして戻ってくるのを……待っていてもらえますか?』
「……待つわけねえだろうが、この馬鹿が!!!」
篠崎は妄想の中の新谷に怒鳴った。
「お前は!これからも!黙って俺のそばにいろよ!」
防音性の良いアウディの中で、閉じ込められた篠崎の声が割れる。
口から出たばかりの言葉が、鼓膜に飛び込んでくる。
――そうか。
自分はそう言って、怒りたかったのだ。
思いきり、怒鳴ってやりたかったのだ。
身を退くなんて、
我慢するなんて、
諦めるなんて―――。
「らしくなかったな……!」
篠崎はハンドルを握りしめ、アクセルを踏みこ――もうとしたところで、正面に立っている人物に気づき、慌ててブレーキを踏んだ。
◆◆◆◆◆
由樹は和室で柴田と向かい合って座った。
秋山も由樹の隣に座る。
目の前には林が淹れてくれた緑茶が3つ並んでいた。
「今回の話を受けていただき、誠にありがとうございます」
柴田は数日前にあった時よりもさらに柔和な顔で、新谷に笑いかけた。
「開発部では君のような電気電子の知識もあり、開発の経験もあり、なおかつ豪雪地帯で現場経験を積んだ人員を求めていて、この間の説明会は、まさに運命の出会いだと思っているんですよ!」
柴田は興奮に鼻の穴を膨らませて言った。
「いえいえ、こちらこそ勿体なすぎるお言葉と機会をいただき、光栄です」
新谷が一礼すると、秋山はニコニコと笑いながら、柴田と由樹を交互に見た。
「じゃあ、さっそく………いいのかな?」
柴田が秋山をちらりと見つめる。
「ええ、どうぞどうぞ。新谷君、判子持ってきてるよね?」
「あ、はい」
慌てて鞄から印鑑セットを出す。
「じゃあ一応、今回の採用に当たっての概要からご説明します」
由樹は背筋を伸ばして、柴田が出してきたファイルを見つめた。
「開発部、太陽光はつで――」
「ちょっといいですか?」
柴田が話し出そうとしたところで、登場した人物に皆が顔を上げた。
そこには紫雨が林と並んで立っていた。
「し………ぐれさん?」
新谷が見上げると、紫雨は笑いながら柴田の前に座った。
「実は、うちのスタッフが近くでお好み焼きを買ってきまして……」
「は、はぁ。お好み焼き?ですか?」
柴田が林の持っている箱の中身を覗き込む。
戸惑っている林に代わり、紫雨は有無を言わさず、テーブルに並べた。
「社員の数も数えられない残念な部下のせいでたくさん余っているので、消費にご協力ください」
その言葉に林がジロリと紫雨を睨む。
とんでもないタイミングでお好み焼きを出してきたマネージャーを、秋山も眉間に皺を寄せながら見上げるが、紫雨は気づかないふりをして、一礼した。
「それでは失礼します!」
紫雨は何か言われる前にと小走りに退散し、林もそれに続いた。
「……本当に失礼されましたね」
秋山がため息をつく。
「すみません、柴田さん」
言うと、柴田は笑いながら手を振った。
「いえいえ、私は―――」
グ――――。
秋山と柴田が由樹を見る。
「す、すみません……。朝から緊張して何も食べてなくて……その……ソースの匂いを嗅いだら、つい」
2人は項垂れる由樹を見て微笑んだ。
「ちょうど小腹が空いていたところなんです。いただきましょう」
柴田が言いながら箱を開ける。
秋山と由樹も顔を見合わせ、弱く笑いながらそれにならった。
◆◆◆◆◆
篠崎の車の前には、雪の中、老婆が一人、立っていた。
ギアを再びパーキングに入れ、運転席の窓を開けると、老婆はこちらに足を引きずるように歩いてきた。
(………なんだ?ヒッチハイクか?車のトラブルか?どっちにしたって……)
篠崎は素早く駐車場に目を走らせた。
家族連れもいる。女性同士の団体もある。
そんな中で、なぜ黒塗り外車に一人乗っている自分に、声を掛けたのだろう。
「あなた、天賀谷の人?」
老婆は嬉しそうに微笑んでいる。
「駅まででもいいから送ってほしいの。車が故障して動かなくなってしまって」
老婆が指さす先を見ると、新谷の物よりもさらに小さなコンパクトカーが、半分雪に埋もれて見えなくなっていた。
「駅まで送ってもらったら、タクシーに乗って帰って、家の人にお金を払ってもらうので。どうかお願いします!」
相当長い時間天賀谷ナンバーの車を探し駐車場を彷徨っていたと見える女性は、赤くかじかんだ手を擦り合わせながらこちらに懇願して見せた。
「いいですよ。助手席にどうぞ」
「ありがとうございます!」
言うと、老婆は嬉しそうに助手席に乗り込んだ。
「安全運転は心がけますが……」
篠崎はいそいそとシートベルトを締める老婆を見下ろすと、微笑んだ。
「スピードは出しますので、しっかり座っててくださいね?」
「え、あ……」
篠崎はスピードを緩めることなく、名前も知らない老婆を乗せて走り出した。
外車特有の重低音に揺られながら、老婆が言葉を失った。
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