第七話 触れてはいけない扉
晴明は、その日、目覚めた瞬間に胸の奥で小さく何かが引っ掛かるのを感じた。
自分でも理由はわからない。ただ、昨日までと同じはずの地下室が、今日だけは“違和感”で満ちている。
明くんが出勤してからまだ一時間ほど。
部屋は静かで、空気は薄く、時計のない世界は深く沈んでいる。
晴明は膝を抱えて、天井を見つめた。
「……明くん。昨日、変だった。」
昨夜、明はいつもより優しくて、やけに触れる手が震えていた。
笑っていたのに、その笑顔の奥に「焦り」のようなものが混ざっていた。
(何か、隠してる……?)
その曖昧な予感が、今日の胸のざわつきにつながっている。
晴明は立ち上がり、薄暗い部屋をぐるりと見渡す。
この部屋には自由など一つもない。
扉は外側に電子ロック。
窓も、隙間も、道具になり得るものも置かれない。
ただ――
(昨日……音がした。)
部屋の右奥。
普段は何もないはずの壁の向こうから、“カチッ”と何かが動くような音が微かに聞こえたのだ。
晴明は壁に手を当て、息を止めて耳を澄ませる。
……沈黙。
だが、壁を撫でた指先だけが奇妙な違和感を拾った。
(……冷たい? ここだけ?)
ゆっくり撫でると、ある一点で温度が急に下がる。
違う素材……いや、空間の感触が違う。
隠された“何か”がそこにある。
晴明の喉がひゅっと音を立てた。
「……明くん。ここ……何……?」
答えてくれる人はいない。
覚悟を固めるように、ゆっくりとその部分を押した。
指が沈む。
壁が、ほんの少しだけ内側に動く。
カチッ。
その瞬間、壁が縦に割れ、細い隙間が現れた。
隠し扉だった。
晴明は目を見開く。
震える指で扉を押し広げると、中は暗い通路。
小さな明かりが足元だけを照らし、奥へ続いている。
(出口……? それとも……)
逃げられるとは思わない。
明くんがそんな甘い作りにするはずがない。
でも、じっとしていても壊れてしまう。
晴明は足を踏み入れた。
一歩。
また一歩。
進むほどに空気が変わる。
地下室の湿気ではなく、もっと乾いた、冷たい空気。
壁には傷が走っている。
爪の跡のような細い、深い傷。
(だれか……ここに?)
胸がぎゅっと締めつけられた。
通路の先には小さな部屋があった。
そこに置かれていたのは――
白い木箱。
そして、血の落ちた包帯。
晴明は息を呑む。
木箱の蓋には名前が彫られていた。
――「お兄さん」。
晴明の視界が揺れる。
(……僕?)
震える手で蓋を開けると、中にはレターセットのような紙束。
一枚目には、整った字で短い言葉。
『もし逃げたら、ここへ戻ってきてね。
お兄さんは僕のものだから。
ずっと一緒にいるための場所だよ。』
明の筆跡。
晴明の指先が凍った。
これは、“予備”。
もし逃げられた時、ここに閉じ込め直すための場所。
動かなくなるまで離さないための部屋。
晴明の呼吸が荒くなる。
「……明くん……こんなの……おかしいよ……」
紙を握りしめた瞬間、背後で――
ガチャ。
扉の閉まる音。
晴明は振り返った。
暗い通路の奥で、ゆっくりと光が差し込む。
階段から降りてくる足音。
こんな時間に……?
帰宅は19時のはずだ。
足音は一定で軽く、浮かれているようなリズム。
そして、優しい声が響いた。
「――お兄さん、なにしてるの?」
晴明の心臓が止まりかけた。
まだ昼のはずなのに。
仕事中のはずなのに。
なのに明は、白衣のまま、微笑んでこちらを見ている。
「帰ってきたよ。お兄さんがね……逃げようとしたって聞いちゃってさ。」
晴明は一歩後ずさる。
明は微笑んだまま、
けれどその笑顔は、地下の空気より冷たかった。
「ねぇ、どうして、ここに入ったの?」
晴明は震える声で呟く。
「……明くん……ごめ……」
言い切る前に、明は指を唇に当てて
「しー」と優しく制した。
「お仕置きしないと、だよね?」
その声は優しくて温かくて、
なのに、逃げ場はどこにもなかった。
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