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未来の東京、その中心に位置する「ネオン・クロッシング」は、もはやアスファルトの地表を持たなかった。無数の光の筋が交差する空中回廊が、人々を立体的に運んでいく。足元の透明なフロアからは、遥か下方を行き交うホログラム広告の鯨が優雅に泳ぐのが見えた。ビル群は光の柱となって夜空を穿ち、かつての星の輝きはすべて人工的なスペクトルに塗り替えられていた。
ケンジは、回廊を流れる人々の流れに逆らうように歩いていた。周囲の人間は、全員がARコンタクトを装着し、眼前の空間に映し出される個人専用の情報やエンターテイションに没頭している。彼らの視線は一点に定まり、表情は希薄だ。しかし、ケンジの眼は何も装着せず、ただ遠い過去の風景を探すように、虚ろな光の海をさまよっていた。
彼の脳内には、かつて普及していた「メモリー・クラウド」のデータが残っていた。それは、個人の記憶をデジタル化し、自由に再生・共有できるシステムだった。しかし、あるハッキング事件を機に、そのサービスは終了し、大半のデータは抹消された。ただ、ケンジの記憶だけは、なぜか消去されずに彼の脳に残されたままだった。それは、彼の脳が古い規格のチップを搭載していたためだと、専門家は言っていた。
今、彼の脳裏で再生されているのは、古い東京の風景だ。
それは、まだアスファルトが地表を覆い、ホログラムではなく電飾の看板が煌めいていた時代。雨が降れば、地面に濡れた光が乱反射し、人々の傘が色とりどりの花のように開いた。そんな雨の日の路地裏を、一人の少女と歩いた記憶だ。彼女の笑い声、雨の匂い、古ぼけた自動販売機の光。すべてが鮮明な色彩と温かみを持って、彼の心を震わせる。
その記憶を再生するたびに、彼は周囲の無機質な光景との乖離を感じる。この未来は、あまりにも効率的で、あまりにも整然としすぎている。人々の感情の機微は、アルゴリズムによって最適化され、不必要な混乱は排除されている。
ケンジは、ふと空中回廊から逸れて、再開発から取り残された古い区画へと降りるエスカレーターに乗った。そこは、ネオン・クロッシングの眩い光が届かず、薄暗い空間が広がっていた。壁には剥げ落ちた塗料の跡があり、湿気を含んだ空気が鼻をつく。ここでは、まだアナログな匂いが残っていた。
路地裏の片隅に、古い喫茶店を見つけた。入り口のドアは木製で、手動で開けるタイプだ。店内に入ると、錆びた扇風機がかすれた音を立てて回っている。カウンターの中には、白髪の老マスターが新聞を広げていた。
ケンジは角の席に座り、コーヒーを頼んだ。マスターは無言でサイフォンを動かす。湯気が立ち上り、コーヒー豆の香りが店内に満ちる。それは、ケンジの記憶の中の喫茶店の匂いと同じだった。
「ずいぶん懐かしい顔をしているね」
マスターは、新聞から目を離さずに言った。
「ここにいると、記憶が鮮明になるんです」
ケンジは答える。
「記憶なんてものは、古ければ古いほど美しい。だがな、過去にばかり囚われていると、未来を見失うぞ」
マスターは静かに言った。
ケンジはカップを両手で包み込む。温かい温度が、じんわりと指先に広がる。しかし、彼の心は冷たいままだった。彼が鮮明な記憶を持つ一方で、人々は過去を最適化されたデータとしてしか扱わない。そして、彼は知っている。マスターが淹れるこのコーヒーも、実は古いデータを基に再現されたAIによるものだということを。
「昔はね、この場所で本当に君のような若者が、恋人と語り合っていたんだよ」
マスターの言葉は、ケンジの心を揺さぶった。彼は、マスターの目に映る自分が、記憶の中の自分と重なっているのを感じた。
しかし、その記憶は、今では彼だけのものだ。
ケンジはゆっくりと立ち上がり、マスターに代金を払った。ドアを開けて外に出ると、再びネオン・クロッシングの眩い光が目に飛び込んでくる。
彼の記憶の中の雨の匂いは、今はもうない。ただ、冷たい光と、無機質な人々の流れがあるだけだ。
ケンジは、再び人々の流れに逆らって歩き始めた。未来は、過去を置き去りにして進んでいく。彼は、ただその波間に漂う、記憶という名のメランコリーの囚人だった。