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「支援計画は、こだわりを軽減する方向で継続です。ただ、その対象をうさぎのぬいぐるみからお母さんに変えましょう」「……はい?」
担当の先生が制作してくれた支援計画書を見ながら、後期の支援方針を決める懇談会。
ハキハキと話す担任の佐伯先生の言葉が、耳に入ってこなかった。
一番の課題は、こだわり。
うさぎのぬいぐるみがいつもの場所にないと、癇癪を起こしてしまう。
それでも園では、ぬいぐるみの取り置き対応をあえてせず、「ないこと」を受け入れていく支援を続けてきた。
今回の計画では、その対象を私。母親に変えるということらしい。
姿が少しでも見えなくなると大泣きする凛。懇談で私が部屋を離れるだけでも、泣き叫んでいたのに。
「その代わり、うさぎのぬいぐるみは私が取り置きし、必ず凛ちゃんに渡せるようにします。だからお母さんという存在へのこだわりを、少しずつ手放せるように支援していきましょう」
差し込む秋の日差しが、私を照らしてくれる。まるで、その眩しさで迷いをぼかすように。
「でも、癇癪すごくて……」
また私は、気持ちとは裏腹に、また否定する言葉が出てしまう。
「大丈夫ですよ、ここは療育園ですから。泣いたり、叫んだり、みんな最初は辛いです。でも、生きていくために必要なことを、少しずつ練習していく場です。勿論、他のお子さんに影響が出そうな時は個室で対応します。だから安心してください」
にこやかに話すことは、まるで私の心を分かっているように危惧していることに返答してくれる。
斜め前に座っている斉藤先生も、にこやかに頷いていた。
こうして、話は進んでいく。
「まずは園庭遊びの時間が良いですね。凛ちゃんは砂遊びが一番集中しているし、心が安らいでいる時なので。分離をしている間は斉藤先生も安全の為に側に居てもらいます。他のお子さんに怪我をさせるようなことがないように、細心の注意を払います」
「でも……」
私の口から出てくるのは、否定の言葉ばかり。基本は、専門的な知識がある先生達の提案は受け入れるようにしているし、特に支援に関しては対応を任せている。
なのに今回は、何故渋っているか。理由は分かっている。やはり、怖いから。
凛は小さい体に相反して力は強く、大人の私すら蹴飛ばしてしまう。
その対象が先生だったら? 体が小さい子供だったら?
もう、自分の娘が加害者になるのは耐えられない。
「まあまあ、そこまで硬く考えずに。一回試してみましょう。いつでも辞めれますからねー」
斉藤先生はにこやかだが、いつになく強引。いつも支援について提案はしてくれるけど、こちらの反応が否定的だったら先生達は引いてくれる。
それなのに、今日はどうしたのだろう?
「……はい。お願いします」
言い尽くしてしまった否定の言葉はなくなり、それを口にしていた。
こうして始まった母子分離。
園庭遊びの時間、凛がスコップから砂を落とす遊びに集中しているタイミングを狙って、私は先生の合図で静かにその場を離れる。
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「ぎゃああああああー!」
園庭の陰に身を隠し、決して覗き込まないようにする。だけど凛は敏感に感じ取り、一回目は僅か五分で終了した。
砂遊びに夢中になっているようで、凛の目はずっと私を探していたらしい。
一瞬、胸の奥底から湧き上がる熱いものを感じたけどそれは違う。……これは、「私が側に居ないといけない」というこだわりだ。
それを証明するかのように、私が視界に入った途端にピタリと泣き止むが、こちらに目を合わせることも抱きつくこともなく砂遊びに戻る。
つまり、愛着ではない。
凛がスコップで掬った砂が、サラサラと砂場に落ちていく。それが凛の心に留まっていられない私みたいで、胸にザラザラとしたものが駆け巡っていった。
秋が深まり、冷たい風が吹き抜ける頃。同じクラスの子は冬の活動と変わる中、凛だけはジャンパーを着て佐伯先生と斉藤先生に見守られながら、砂を掬い続けていた。
二回目は十分。三回目は十五分。四回目は二十分。
凛はすぐに気付いて泣き喚くけど、少しずつ時間を増やしていき、母親が居ないこともあると伝えていきたい。よって、伸びていく時間。
私は別室で待たせてもらい、そこからの空を眺めていた。
気付けば、十一月中旬。雲はすっかり遠くなり、昼の光が空を柔らかな水色に染めている。
こんなふうに、ただ一人で空を見上げる時間。いつ振りだろうか。
遠い昔のような気がして、ただ力無く息を吐く。そして息を思いっきり吸うと肺いっぱいに冷たい空気で満たされて、またゆっくりと吐く。
私は生きている。大きく深呼吸が出来た。空を見上げることが出来た。
ただ気を抜き、秋空を美しいと思うことが出来た。
こんなささやかなことが、大きな幸せだったなんて。
「凛ちゃん、ずいぶん慣れてきましたね。そろそろ、完全な母子分離にしましょうか?」
年が明けて一月。療育も病院もなく、ゆっくり過ごした年末年始。
凛を家で見るより外の機関に連れて行く方が、心身共に負担がかかっていた。その現実に気付き、心が重くなっていた時。この提案をされた。
「何かあれば、すぐ連絡しますから」
凛は、いつものおもちゃ箱にうさぎのぬいぐるみがあることに表情を緩めて、こちらに目も向けない。
私が居なくなるのはおやつの後だと記憶している凛は、全くの警戒をしていないようだ。
先生の誘導で遊戯室からそっと出て、言われるがまま療育園を後にする。
心臓が全身にあるのかと錯覚するぐらいに、どこもかしこも脈打っていた。走ってもないのに息が切れ、胸が詰まる。
罪悪感が、喉元まで満ちていた。
捨てたわけじゃない。迎えに行くのだって、すぐだ。
それでも私は、自分が母親として大切な何かを手放してしまったようで、ひどく苦しかった。
家に向かう道中には幼稚園があり、そこには登園してくる園児達。
凛も三歳。本来なら、あの中に居て当たり前の年齢だ。
保育園に預けていた頃、私はあんなにも平然としていたのに。
それなのに、どうしてこれほど苦しいのだろうか?