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一月下旬。完全な母子分離が始まって二週間。私はようやく、この異変に気付けた。 いつものように殆どの時間は居眠りをし、迎えの一時間前に起きて掃除をする。
こうすることで、胸に詰まる思いを解消しよう。そんな浅ましい考えまでをも拭うつもりで、手を仕切りに動かしていく。
洗面所は使うたびに乾いたタオルで拭くから基本は綺麗だけど、歯ブラシや化粧品などを置く上部は手を付けていない為に埃が乗っている。
子供が生まれるまで、そんなの許せなかったのにな。小さく溜息を吐きながら顔を上げる。
目の前に居たのは、部屋着のように毛玉が多いセーターを着た女性。無造作に伸びた髪を無理矢理ゴムで一つ括りにし、化粧っ気がなく、シミが浮かんだ暗い顔がこちらに向いていた。
私だった。
スーツに袖を通し、季節に合わせた化粧をし、広がりやすい髪は定期的に美容院で整えてもらい、シミなんて出来ることすら許さなかったのに。
変わり果てた自身に目を閉じ脱力した私は、その場にしゃがみ込んでいた。
『紗枝は真面目過ぎるから。もっと自分に、優しくしてやったらどうだ?』
脳裏に浮かんだのは、忘れかけていた声。亡くなった父のものだった。
二十五歳の頃に、言われた言葉。どんな前提があってそんな話になったのは、思い出せない。その言葉の真意も。
だって父は、別れも告げることも出来ず亡くなってしまったのだから。
『相手に、自分と同じものを求めたらダメだからね? お母さんはお父さんにやってしまったからね……』
夫との結婚が決まり家を出て行くことになった時、母にそう告げられた。
母が完璧主義者なのはなんとなく分かっていたけど、父や私に押し付けることなんて一度もなかった。私が知らないのは、おそらく母がその性格を自覚して直したからだろう。
それなのに私は。
『これで、お母さんとお子さんの繋がりはなくなりました』
凛の出産を終えた後。臍の緒を切った助産師さんに、そう告げられた。
意味が分からず呆けてしまったけど、その後も言葉は続いていった。
『今までお子さんはお腹に居て、臍の緒で繋がり、お母さんとお子さんは一心同体でした。でもこれからは違います。目の前に居るのは、別の人格を持った一人の人間です。それを認めてあげられる、お母さんになってくださいね』
その言葉に足に力を入れて立ち上がり、ベランダに向かう。空を見上げれば、雲の隙間より差す光。
凛を出産後、分娩室から病室に戻るときに見上げた景色と同じだった。
あの日の言葉を、誓いを。いつの間にか忘れていた。
……別の、人格か。
次に視線がいったのは、空室だった部屋。
ゆくゆくは凛の一人部屋にと考えていた、十畳の間取り。現在は夫の部屋になってしまった。
凛が、空が明るいうちに夫が居ることを怖がるから。夜泣きが酷いから。
仕方がない理由とはいえ、妻子に疎外されたあの人の気持ちはどうだったのだろう。
凛が生まれて、眠れなくなった。
睡眠不足と泣き止まない姿に私の精神状態までおかしくなり、マンションのベランダに逃げて空ではなく地面を見ていた。ベランダの柵が低く見えて、ただ怖かった。
そこで代わってくれたのは夫で、今考えれば仕事で多忙な中、休みを全て使って泣き止まない子の対応をしてくれた。あの人だって寝れていないだろうし、疲れていたのは同じだった。
私が仕事復帰した頃に夫は出世して、出張も増えていった。だからこそ私にかかる負担は大きくて。家事も育児も私が全てしないといけなくて。時短勤務になった私と、出世した夫。産休育休も取らなくてブランクもない姿に、平等じゃないと苛々していた。
そうしていくうちに凛の癇癪は激しくなっていき、不安に苛まれた私は仕事から帰宅した夫に告げた。
「あの子、やっぱりおかしい」と。
眉を小さく動かした夫から出た言葉は、「考え過ぎ」を詰め込んだものだった。
この人には何も伝わらない。たった一回。叩いたドアを開けてくれなかったぐらいで、私は勝手に心のシャッターを閉じてしまった。
だけど今思い起こせば、あれは自分自身に言い聞かせていた言葉だったのではないだろうか。
誰だって我が子が普通と違えば戸惑うし、それを毎日子供をみている母親に相談されたら逃げ道を塞がれた心境になるだろう。
仕事で疲れて帰ってきて、話されるのは子供が普通ではないかもしれない話。それに真摯に対応出来る男性は、どれぐらいいるのだろうか?
それから凛は夫を拒むようになり、そこで私は夫に頼んだ。昼間は凛の視界に入らないでと。
それはつまり、娘に関わるなと言っているようなものだ。
成長と共に凛の癇癪は酷くなり、家庭内別居の状態が続いて行く。父子はもう二年ぐらい、同じ空間で生活は出来ていない。
娘に拒否される辛さを分かっていたはずなのに、私はあの人に置き換えて考えられなかった。
辛かっただろう。娘が自分を見て泣くのは。敵意の目で、睨まれるのは。
私は、そんなことも分かっていなかった。
本当は気付いていた。寝室に度々、様子を見にきてくれていたこと。
口を開こうとし、閉ざして離れて行くことを。
そうさせていたのは、私だった。
こだわりが強いのは、凛だけじゃなくて私もだった。
夫は何度も話をしようとしてくれていたのに、それを拒んでいたのは私。
「凛は普通の子だよ」
その言葉は時に残酷で、仕事を辞めて病院や療育に走る私の決断を否定する刃にもなる。
悩みながら走っている時にそんなことを告げられたら、私は膝から崩れ落ちていただろう。そして、この人に対する尊敬の念も、家族としての愛も呆気なく消えていただろう。
だから私は、ずっと一人で走っていたんだ。
『ぎゃあああああ!』
療育の帰り道。どうしてもスーパーに立ち寄らないといけなくて、凛を連れて行ったら案の定大泣きさせてしまった。
商品を投げつけ、床で転がって泣き叫ぶ。周囲の冷めた目に心を殺しつつ、凛が撒き散らしたものを拾い集める。
そんな時、一人の女性が共に拾ってくれた。深々と頭を下げ顔を上げると、目の前に居たのは同じ保育園に通っていた藍田さんだった。
後ろめたさなのか、嫉妬なのか、無理矢理に凛を抱えて帰ってしまったけど、背後から聞こえたような気がした。
『私は、このスーパーによく来てるから。また、会おう!』
そんな言葉が。
今考えたら、藍田さんは凛が普通ではないと気付いていたのかもしれない。
だけどそれを気付いて関わりを続けていてくれた……。
そんなことも考えないなんて、私どうしようもないな。人の温かさに気付かないなんて。
澄んだ空気に、満月が光る夜。凛の泣き声に消えてしまうほどの小さな物音を立てる夫の前に立つ。
「話があるの」
「……ああ」
夫は入ろうとした自室のドアを閉め、私と凛の寝室前へと自主的に歩いて行く。
廊下で、立ったままで行う会話。異質だけど仕方がない。泣く凛を一人に出来るはずもないから。
私は今までのことを謝り、凛が受けた診断と現在の状況を話した。主観は入れず、ただ事実だけを。
今まで受け入れられなかったのは仕方がなく、変えられない過去を責める気はない。だけど、これから先のことは違う。
ありのままの娘を受け入れる気持ちがないなら、この人とはやっていけない。そんな父親はいらない。
生活は困窮するだろうけど、そんな人と生きていくぐらいなら私一人で凛を育てる。それが私の覚悟。
話を最後まで聞いていた夫は小さく頷き、そして──。
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