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その日は、最初から空気が違っていた。
組織の本部。
ガラス張りの作戦フロアでは、無機質な光が降り注ぎ、誰もがいつも以上に無口だった。
鋭い視線。無言のすれ違い。
そして、栞の姿を見ると、一瞬で空気が張り詰める。
(……なんだろう)
そう思った瞬間だった。
「コードネーム0812。上層部に同行してもらう」
背後から、組織の執行官が冷たく言い放った。
「え……?」
「お前が“情報漏洩の疑いあり”と見なされた。協力してもらおう」
「ちょ、ちょっと待ってください! 私、そんな──!」
「黙れ。言い訳は聞いていない」
栞は無理やり両腕を捕まれ、引きずられるように別室へと連行される。
翠の姿はそこにはなかった。
(どうして……なんで……私が……!?)
***
――監禁部屋。
四方は鉄の壁。監視カメラ。
机と椅子がひとつ。
そして、目の前に座っていたのは、情報部の副司令官だった。
「栞、お前の端末から“任務データの一部改ざん”が検出された」
「そんな……私はやってません!」
「証拠がある。任務ログの改変、アクセス履歴、そして削除された監視映像の痕跡」
「それは、何かの間違いで──!」
「間違いで命を落とした仲間は、何人もいる」
その声は容赦がなかった。
「誰かが、お前の名前を使って偽装した可能性だって……!」
「犯人がいるとして、お前が“その犯人と繋がっていた”可能性もある」
(……ああ……)
まるで、足元が崩れるような感覚だった。
声を上げても届かない。
訴えても、誰も信じてくれない。
(こんなふうに、私、消されるの……?)
そのとき。
「──待て」
静かに開かれた扉から、男が一人入ってきた。
「翠さん……!」
「証拠が不十分だ。再調査を求める」
「だが、ログは──」
「そのログに細工をしたのは、第三者だ」
翠は冷静だった。
けれどその目の奥は、明確な怒りで燃えていた。
「……俺が調べた。仮想端末からの遠隔操作だ。IPは隠されてたが、通信の遅延に特徴があった。犯人は──“内部”にいる」
副司令官は沈黙した。
翠は続ける。
「一つ聞かせてください。なぜ、真っ先に栞を疑った? ほかの選択肢を潰してまで、彼女を標的に?」
「それは……」
「誰かに“そう仕向けられた”んじゃないですか?」
場が静まる。
数秒ののち、副司令官は小さくため息をついた。
「……この件は保留とする。だが、監視対象は継続。お前たちは任務には出せん。……一時待機だ」
***
帰り道。
夜の路地裏。
ようやく解放された栞は、放心状態で歩いていた。
「……私、本当に……裏切ったって思われてたんですね」
「……」
「ずっと、“信じられてる”って思ってた。信じてくれてる人がいるって。だから怖くなかった。でも……ちょっと、だけど……やっぱ、怖いよ……」
声が震えた。
もう泣きたくないのに、涙が勝手にこぼれる。
「バディ失格だよね。共犯者の条件、満たしてなかった……」
次の瞬間。
ふわっと、誰かの手が自分の頭をそっと撫でた。
「……よく耐えたな」
その声は、優しかった。
今まで聞いたことがないほど、深くて、低くて、包み込むような声。
「俺はお前を信じてた。疑ったことなんか、一秒もなかった」
「……ほんとに?」
「信じてなきゃ、お前が撃たれる前に助けたりしねぇよ」
「……うっ……ひぐっ……!」
抑えていた涙が、あふれ出す。
怖かった。悔しかった。
でも今、たったひとつの言葉で、すべてが報われた気がした。
翠はそのまま、栞の頭に額を預けるようにそっと重ねた。
「泣いていい。ここでは誰も見てねぇ。……俺が見てるだけだ」
「……それがいちばん恥ずかしい……」
「ならさっさと泣き止め」
「……うぅぅ……ムリです……」
暗闇の中。
その姿はまるで、迷子の子どもを抱きしめるような、
あるいは──失いかけた“信頼”を確かめ合うような、
そんな夜だった。
***
その晩、ふたりは同じ部屋で眠った。
何もない夜だった。ただ、眠るためだけの夜。
けれど、栞はその夜、初めて“安心して”眠れた。
なぜなら──
背中越しに、そっと自分の指を握ってくれた手があったから。
それが、彼なりの“信じている”という答えだった。