「──おい。今日、何の日か分かってるか」
その朝、組織の仮住居で目を覚ました栞は、
キッチンでコーヒーを淹れる翠にそう声をかけられた。
「え……? 任務、休みの日……ですよね?」
「違ぇよ」
翠はマグカップをカウンターに置き、目を細める。
その視線に含まれた、なにか含みのある静かな温度に、栞は首を傾げた。
「今日が“お前のコードネーム”の由来の日だ」
「──あっ……」
コードネーム0812。
組織が与えた彼女の“誕生日”。
つまりそれは、
“初めて人を殺した日”。
栞の肩が、小さく揺れた。
「……忘れてた、つもりだったんだけどなぁ」
「忘れるな。背負え。お前が人を殺した過去も、そこから生きようとしてる今も、全部まとめて“お前自身”なんだよ」
冷たいようで、優しい。
その言葉を胸に落としながら、栞はそっと小さく笑った。
「ありがとう。……でも、あんまり“おめでとう”って感じはしないね」
「じゃあ、“お疲れさん”にしてやる」
そう言って、翠は不意にポケットから何かを取り出した。
小さな箱──中には、シルバーのペンダント。
「え……なにこれ」
「“位置情報非対応”。“録音機能なし”。ただの、飾り。──組織にバレねぇように作った。……気に入らなきゃ捨てろ」
「……」
栞は無言のまま、ペンダントを手に取る。
温かくはない。けれど、冷たすぎもしない。
「……捨てるわけない、じゃん」
ぼそっと呟いて、ぎゅっと胸に抱きしめた。
***
昼過ぎ。
外は珍しく快晴。
久しぶりに自由の出た2人は、街に出ていた。
とはいえ、いつどこで誰が監視しているか分からない。
帽子を目深にかぶり、互いに仮名で呼び合いながら歩く。
「……このあと、何するんですか?」
「腹減ってねぇか」
「へ? あ……まぁ、朝からパン一枚ですけど……」
「だったら、ほら」
翠が指差した先には、さりげなく並ぶカフェの看板。
【本日のケーキセット 夏いちごとレアチーズ】
「……っ! おいしそう……!」
「行くぞ。短時間で済ませる」
「え、いいんですか?」
「お前が笑ってねぇと、死にそうな顔してんだよ、今日」
「……っ、なにそれ……!」
不意打ちのようなその言葉に、栞の胸がきゅうっと鳴った。
***
カフェの中。
小さな窓際の席。
栞の前にはレアチーズケーキとミルクティー。
翠の前には、なぜかブラックコーヒーと、まったく手をつけていないチーズケーキ。
「……食べないんですか?」
「甘いのは苦手だ。お前にやる」
「……最初からそのつもりで頼んでません?」
「うるせぇ。文句言うな」
「……ありがと」
栞はフォークを手に取り、ケーキを一口──
その瞬間、ふわっと目を見開いた。
「……おいしい……!」
「そりゃよかった」
「ほんとに、今日が誕生日でもいいかもって思えるくらい、おいしい……」
「……なら、来年もここに来るか?」
「えっ……」
「死んでなければな」
「……! そのフラグやめて……っ!」
「バカ、死なせねぇよ」
言葉と同時に、翠がそっと自分のカップを傾けた。
その目が、まっすぐこちらを見ていた。
いつもより、ずっと優しいまなざし。
***
帰り道。
商店街の片隅で、小さな花屋を見つけた。
「……ねぇ、翠さん。誕生日って、花もらってもいい日なんですか?」
「お前、誰にねだってんだ」
「えへへ、わかんない~」
しばらく迷ったあと、栞は自分で小さな黄色いガーベラを一輪、買った。
花言葉は──「希望」。
その夜、花瓶に挿した花を前に、
ペンダントを握りしめながら栞は思った。
(……今日だけは、笑ってていいかな)
殺し屋として生きている。
でも、誰かに“祝われた”この日を、きっと忘れない。
その夜、何も起きなかった。
誰も死なず、銃声も鳴らず、血も流れなかった。
でも、そんな一日が、
今まででいちばん、生きていたと感じられた。
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