コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
(⋯⋯アライン、決めました。
新たな名は⋯⋯)
沈黙の中に
ゆっくりと立ち上がる
アラインの気配が広がる。
誰もがその動作ひとつに呼吸を止め
全身を緊張に染めながら耳を傾けていた。
彼は、椅子の背を軽く叩き
マイクの前に再び唇を寄せる。
獲物を見下ろすような微笑のまま
その唇がゆっくりと開いた。
「フリューゲル・スナイダーの皮を脱ぎ去り
我々が名乗る新たな名は──
《ノーブル・ウィル》
高貴なる意志。
意志を力に
理想を現実に変える者たちの集いだよ」
その声は、落ち着いていた。
だが
確かな支配と狂気と美しさを含んでいた。
「この名のもとに集う者は──
過去を捨て、未来を選ぶ。
それが〝善〟であれ〝悪〟であれ
ただ選び、歩む意志を持つ者だけが⋯⋯
ボクの側にいればいい」
アラインの宣言に
慈善活動派がいち早く雄叫びを上げた。
「ノーブル・ウィル万歳ッ!!」
空気が熱を持つ。
次いで
先程まで沈黙していた
ハンター派の男たちの中からも
静かに手を掲げる者が現れる。
抗う気力はもうなかった。
ただその名の音が
胸の奥で何かを焼くように響いていた。
「⋯⋯ノーブル・ウィル、ねぇ」
アラインは、それを満足げに聞きながら──
まるで舞台の幕が上がった瞬間の
主演俳優のように
静かに、だが誇らしげに口元を吊り上げる。
「さぁ、祝福を贈ろう。
キミたちが〝ボクの意志〟であることを──
世界に、証明していこうか」
⸻
(もう!
何故、あなたは最後に
そんな命令するように言うんですか
アライン!
私に任せると言ってたのに⋯⋯)
精神の深層を揺らすように
鏡の向こうからライエルの声が響いた。
その声音は澄んでいながら
いつになく硬質な怒気を帯びていた。
まるで、凪いだ水面に投げ込まれた石が
幾重もの波紋を広げていくように。
だが──
返ってきたのは、揺るがぬ冷笑と
相変わらず微笑を含んだ
穏やかな声音だった。
(キミを見直したからこそ
少し手助けをしたまでだよ。
ライエル⋯⋯
この世界はね
キミが思うよりは甘くないのさ)
精神の座に在るアラインは
組んだ指を静かに胸元で揺らす。
その仕草は一見、祈りのようでもあった。
だが、そこにあるのは──
神にも届かぬ、酷薄な確信だった。
(綺麗事だけで統べられるなら
ボクも苦労しない。
理想だけで人が動くなら
ボクはとっくに〝世界〟を変えてる)
その声には、自嘲すら感じさせない。
ただ
確固たる現実の重さだけが滲んでいた。
(油断してると
あっという間に背中を刺されるよ。
キミの〝誠実さ〟は、時に毒になる。
それが〝他者を救う〟という名の
刃になって──
キミ自身を殺すんだ)
鏡の向こうに視線を投げかけるように
アラインのまなざしが細められる。
その目は
まるでライエルの頬に
優しく触れるかのような甘さを纏いながら
芯には鋭く冷たい針が刺さっていた。
(⋯⋯キミが今、目の前にしてるのはね──
綺麗事じゃない
〝現実〟という名の怪物さ)
その言葉は、どこまでも静かに
だが重く沈み込んでいく。
ライエルの唇が、悔しげに引き結ばれる。
だが、怒りに顔を歪めることはない。
その奥に灯るのは
凍てつく夜に揺れる、ひとすじの焔だった。
(〝善〟を掲げるだけじゃ
人は付いてこない。
けれど〝善〟の顔をした理想は
人を動かす事もある。
だからキミには⋯⋯
〝顔〟になってもらうんだ。
優しい仮面をつけたままで、ね?)
アラインはそれきり、何も言わず
心の奥底でただ静かに笑った。
一方、鏡の中のライエルは──
その焔を誰にも見せることなく
唇を噛み締め、再び顔を上げた。
(⋯⋯それでも私は、信じたい。
善意の言葉が、世界に届く日があると)
それは、なお諦めない者の眼差しだった。
怪物の隣で
希望という名の灯を
絶やさず立ち続けるための、覚悟の始まり。
⸻
拠点を後にし
アラインはBAR Schwarzの営業に出ていた。
カウンターのグラスを磨きながら
耳に届くのは軽快なジャズと
笑い声の混ざる夜のざわめき。
無数の顔が行き交う喧騒のなかで
彼は時折、作り慣れた微笑を浮かべながら
客と会話を交わしていた。
──だが、その裏で
ずっと胸の奥に
澱のように残っていた沈黙がある。
ミーティングルームでの宣言の後から
ライエルは一言も発さずに
沈黙を守り続けていた。
それは彼にしては珍しい静けさであり
アラインにとっても
気がかりな変化だった。
グラスを棚に戻しながら
一度だけスタッフに視線を送る。
「⋯⋯交代。少し、ボクは裏に籠るよ」
「かしこまりました。マスター」
静かな指示に、スタッフは深く頷いた。
アラインはバックヤードへと足を向けた。
重い扉を閉じる音が、外の喧騒を遮断する。
それはまるで
現実との境界線を閉じる儀式のようだった。
革張りの椅子に腰を沈め
長い髪を後ろに流すと
アラインは静かに目を閉じた。
──精神世界。
どこまでも広がる静謐な闇と
揺らめく水面。
その中心、縦に立つ荘厳な鏡の奥に
ひとりの青年の姿があった。
ライエル。
整った輪郭と、雪のように白い肌。
黒髪は静かに肩先で揺れ
アースブルーの瞳が
深く沈んだ湖面のように水面を見つめる。
彼の表情は柔らかいようで
どこか切迫していた。
心の内に必死に何かを刻みつけるように
じっと足元の揺らめきに眼を注いでいた。
アラインは鏡のこちらから
その姿を見下ろすようにして呟いた。
「⋯⋯何してるんだい?」
ゆっくりと顔を上げたライエルは
一拍置いてから答える。
その声音は落ち着いていたが
瞳の奥に小さな炎が宿っていた。
「勉強を⋯⋯
私はまだ、この現代を知らな過ぎる。
だから、あなたの記憶を見て
学んでいるのです。
今の現代の在り方を」
(私は⋯⋯あなたとは違うやり方で
人の心を掌握してみせる!)
精神の奥底にその想いが打ち下ろされた時
アラインは目を細めた。
その口元が、じわりと吊り上がる。
それは微笑みではなかった。
冷え切った内側から滲む
歪んだ〝愉悦〟の感情。
(⋯⋯ふふ。いいね)
背筋がぞくりとするような、静かな喜び。
薄闇の中、支配者の影が揺れる。
(キミが〝善〟であればあるほど──
あの天使はボクを疑わない。
時也は、キミの柔らかさに安心し
ボクの仮面を信じる)
彼の瞳の奥に思い浮かぶのは
鳶色の瞳をした優しき狂信者。
微笑みながら心を読み
誰よりも冷酷に刃を振るう男。
──櫻塚時也。
(アリアではない。ソーレンでもない。
あの狂信者を欺き、堕とすには
この優しい〝顔〟が必要なんだ⋯⋯)
鏡の向こうで
ライエルはまだ真剣な面持ちで
記憶の水面を見つめていた。
だがその瞳に映る現代の光景は
彼を苛むだけでなく
着実に彼の覚悟を育てている。
(⋯⋯キミには、頑張ってもらわないとね)
アラインは指先を組み
その拳を顎の下で支えたまま
静かに囁くように笑う。
(ボクの〝信頼〟を背負って
誠実な笑顔で世界を欺いて──
あの天使の羽根を、折るために)
唇が、愉悦に染まりきった
冷ややかな弧を描いた。
精神の奥、誰にも届かない場所で──
彼は、堕天の準備を着実に進めていた。