コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
──精神世界の深奥。
静謐な水面が無限に広がるその空間に
ライエルは一人
膝を折って座り込んでいた。
光源のないはずの闇に
淡く水銀のような光が射し
水面の下に映し出されるのは──
かつてアラインが触れ
蓄積してきた莫大な知識の残滓。
スクロールのように文字が浮かび
立体的に数式や構図が現れては
また沈み消えていく。
貨幣制度、流通網、株式、税制
民間援助、クラウドファンディング。
時に数字が
時に人々の会話や記録映像として──
現代の経済と社会の膨大な情報が
まるで夢の中の幻のように
水面の奥底から湧き上がってくる。
「⋯⋯⋯っ」
ライエルは目を細めながら
手を伸ばし、一つの情報群に触れる。
すると、水面が波紋を描いて広がり
慈善団体とNGOの比較資料が
次々に浮かび上がる。
どれも、アラインが過去に収集し
あるいは買収した〝実務〟そのもの。
経済における慈善とは
善意ではなく計算。
感情ではなく、数字。
理想ではなく、資金繰り。
──それは
ライエルにとって最も不得手な領域だった。
(慈善活動と一括りに言っても⋯⋯
このままでは
皆さんが路頭に迷ってしまう)
ノーブル・ウィルという名は
確かに彼の口から宣言された。
だが、それは理想の始まりでしかなく
現実の運営とは程遠い。
現代の通貨も、法制度も
彼にとっては未知。
彼が生きていた五百年前には
物の価値は穀物や労働
恩義と祝福で測られていた。
魔女一族は人間社会から距離を置き
独自の文化圏の中で
閉ざされた知識と倫理を築いていた。
書物はあっても
紙幣という概念はなかった。
資本主義という仕組みも
彼にはあまりに無機質で、冷たい。
だからこそ今──
彼は、必死だった。
(だけど⋯⋯
アラインのような資金繰りはしたくない)
それは、心の叫びに近い。
不正融資、記憶操作
国家ぐるみの粉飾決算。
アラインが過去に行ってきた手段の数々は
効率的でありながらも
倫理を踏みにじるものだった。
それを、ライエルは受け入れられなかった。
(何か⋯⋯何か⋯⋯何か他に⋯⋯)
彼は再び手を水面に差し入れる。
その指先が震えていたのは、焦りからか
それとも希望を信じようとする
意思の強さか。
浮かび上がるのは〝協同組合〟という文字。
次いで〝スモールビジネス支援〟といった
市民発の経済活動。
──それだ。
ライエルの瞳が、はっと見開かれる。
自分にはアラインほどのカリスマ性も
冷酷さもない。
だが、人と人を繋ぐ〝信頼〟なら──
築けるかもしれない。
(アラインが築いた〝支配〟ではなく──
私は〝絆〟で繋がる形を)
水面に映る情報群をなぞる指先が
次第に迷いなく動き出す。
数時間に及ぶ集中の中
彼の額には汗が滲み
その瞳は一層深く青く澄んでいた。
かつて魔女の一族を率いた者の誇りが
今、時代を超え、現代に手を伸ばしていた。
道は険しく、正解もない。
だが
確かにライエルは前へと進み始めていた。
──善意を、欺瞞で終わらせない為に。
──信頼を、ただの理想で終わらせない為に。
⸻
──とぷん。
水面を抜けるような音が
静寂の精神世界にさざ波を立てた。
揺らめく鏡面に
白く繊細な指先がそっと差し入れられ──
そのまま
ゆっくりと現実へと突き抜けていく。
アラインの部屋。
絹と羽毛が折り重なる高級なベッドの上
濃紺のカーテンに包まれた薄明の空間に
小さな息遣いが戻ってくる。
やがて──
その睫毛が、わずかに揺れた。
アースブルーの瞳が開かれる。
静かに
まるで夢の余韻を引きずるようにして
ライエルは身を起こした。
シーツの感触、肌に触れる室温
まばたき一つにも──
この身体に戻ることの違和感が宿る。
だが、それにもゆっくりと馴染ませながら
ライエルは胸元で両手を重ね
そっと目を伏せた。
(アライン⋯⋯
疲れてるのに、身体を使ってごめんなさい)
思念だけが
水のように胸の内で流れていく。
時計の針は
静かに〝6〟の位置を指していた。
肉体はまだ、休息を欲しているのが解る。
外はまだ薄曇りで
窓辺のレースの隙間から
柔らかな朝の光が射している。
カーテンを引かず、ベッドを抜け出す。
白く長いシャツの裾を整えながら
ライエルは静かに扉へと近づいた。
軽くノブを回して開けると
部屋の外に控えていた護衛の男が
即座に姿勢を正す。
しかし──
彼の目が一瞬、微妙に揺らいだのを
ライエルは見逃さなかった。
「おはようございます、アライン様⋯⋯
随分と、お早いですね?
朝食になさいますか?
今、お着替えと朝食を手配いたします」
ライエルはわずかに目を丸くしたが
すぐに小さく頷いた。
声は穏やかに
しかし誠意と丁寧さを込めて。
「⋯⋯はい、お願いします。
いつも、ありがとう」
護衛の男は驚いたように
目をぱちくりと瞬かせた。
その表情はまるで
「アライン様がそんな風に
〝ありがとう〟を言うなんて⋯⋯」
と呟いているかのようだった。
だが、それ以上何も言わず
彼は深く一礼し
静かに持ち場へ戻っていく。
扉を閉めた瞬間
ライエルは小さく息をついた。
「⋯⋯なかなか、大変ですね」
独り言ちたその声には
ほんのわずかな緊張が混じっていた。
だがその目は、真っ直ぐだった。
しばらくして──
軽やかなノックと共に
数人のメイドが部屋に入ってくる。
銀盆を抱えた者、衣装を選んでいる者
朝の支度に慣れた手際で
部屋の空気を整えていく。
その中心に
主であるはずの〝彼〟が座っている。
だが──
その物腰も佇まいも
確かにいつもとは違っていた。
「本日の趣向はございますか?」
着付け担当の若いメイドが
いつものようにクローゼットから
衣装を外しかけたところで尋ねる。
ライエルは
一瞬考えるように視線を泳がせたが
やがて柔らかく答えた。
「⋯⋯えっと、今日は⋯⋯出掛けますので
それ用に⋯⋯お願いします」
その言葉を聞いた瞬間
メイドたちが一斉に小さな動きを止めた。
まるで予期せぬ言葉に
頭の処理が追いついていないかのように。
「はっ、はい。かしこまりました⋯⋯っ!」
声が一拍遅れて返され、準備が再開される。
だが──
彼女たちの目の奥には、わずかな戸惑いと
何か新しい風を感じ取ったような色が
宿っていた。
〝いつものアライン様〟ではない──
それは、誰の目にも明らかだった。
だが、その柔らかさに
反発する者は誰もいなかった。
むしろ
そこに僅かな安堵のような
空気が流れていた。
やがて衣装が整えられ
ライエルは鏡の前に立つ。
そこに映ったのは
アラインの姿をした青年。
けれどその瞳は、穏やかに
確かな意志を湛えていた。