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ステラは、温かい豆のスープと素朴なパンをテーブルに並べる。
ノワールの顔を見て、柔らかく微笑む。
「はい、どうぞ。冷めないうちに食べましょう。」
ノワールは静かに椅子に座り、スプーンを手に取る。
「いただきます。」
まずスープをひと口。
その温かさが喉を通るたび、胸の奥が少しだけほぐれる。
次に、パンを一口サイズにちぎり、行儀よく口に運ぶ。
その所作は、自然と身についた美しい動きだった。黒い耳が光を受けて揺れ、尻尾が床でゆっくりと揺れる。
ステラの視線は思わず止まる。
「ノワールって……食べ方、綺麗ね。誰に教わったの?」
ノワールは少し肩をすくめ、視線をパンに落とす。
「そ、そう……かな。」
その微かな声の裏で、過去の記憶がふと蘇る。
マナー講師の厳しい声、義父と義母の冷たい視線、フォークを落とした日の叱責。
必死に手を震わせながらスープをすくい、パンを口に運んだ日々。
喉の奥でこみ上げる恐怖と不安、それでも褒められたときのわずかな温かさ。
ステラは気づかず、ただ目の前のノワールの動きに見入る。
小さな仕草に、過去の苦悩や努力の名残が滲んでいることなど、まだ知らないまま。
ノワールは俯きがちになり、手を止めて動かなくなる。
「……ノワール?」
その声に、ノワールはハッとして顔を上げる。
「ぁ……先生に、教えてもらった。」
言葉は途切れ、声も微かに震える。
「先生?ノワールには先生がいるのね。」
ノワールはさらに体を縮める。
「……っ……もう、いないよ。」
家を飛び出したあの日、すべてキャンセルされた日程表が脳裏に浮かぶ。
自分という存在が必要とされなくなったあの瞬間、胸が張り裂けそうになり、顔をしかめる。
ステラはノワールの表情を見て眉を下げる。
「それは、あなたが家出したことと関係あるの?」
ノワールは小さくなったまま答える。
「……わから、ない。」
その様子を見たステラは少し考えてから言った。
「ごめんなさい、辛いことを思い出させてしまって。話したくなったらでいいのよ。」
ノワールはゆっくりと顔をあげる。
「……大丈夫。僕は、」
“コンコン”
話を始めようとしたところで、食堂の扉がノックされる。
「誰かしら。ノワール、ちょっとまってて。」
ノワールはコクンと頷き、唇を硬く結ぶ。
──ステラは僕を弱虫だと言うだろうか。
ステラが来客によって席を外したことで与えられた思考の余白に、不安がよぎる。
しばらくしてステラが戻ってきた。
「ごめんなさい。近所に住むお話好きの奥様だったわ。」
微笑みながら元の席に座り、ノワールと視線を重ねる。
ノワールはスプーンを握ったまま動けなくなっていた。唇を固く閉じ、ステラを不安そうに見つめる。
「……ノワール?そんな不安そうな顔しなくていいのよ。無理に話そうとしなくても。」
ステラの声は柔らかく、安心感があった。
ノワールの目はまだ不安を残していたが、唇がわずかに開かれる。
「僕……怖いんだ……」
かすれた声に、ステラは胸が締め付けられる思いがした。
「怖いのは、私のこと?それとも家出の原因?」
ステラは優しく問いかける。
ノワールはステラを見つめ、俯く。
「……どっちも……かも……」
誰にも打ち明けられなかった痛みのように、その声は響いた。
ステラはそっと手を差し出すが、ノワールは反射的に体を少し引く。
それでも、手のひらに触れた空気の温もりを、彼は感じていた。
沈黙がしばらく続く。
ステラは少しだけ笑った。
「じゃあ、無理に話さなくていいわ。あなたが安心できるまで、私はここにいるだけ。」
その言葉に、ノワールの肩の力が少しだけ抜ける。
「……うん。」
ステラは優しく言った。
「スープ温めなおすわね。」
ノワールはスープ皿を持ち上げ、キッチンへ向かい鍋に入れ火にかける。
再び温められたスープを前に置かれると、ノワールはそっとスプーンを握る。
「はい、ゆっくり飲んでね。」
「……っ……ありが、とう。」
理由もわからず、喉の奥が熱くなる。
ステラは微笑んで言う。
「どういたしまして。」
ノワールはスプーンを持ち直し、スープをひと口すくい、パンを口に運ぶ。
所作は変わらず美しい。
ステラは自然と視線を注ぐ。
細かな動きひとつひとつに、過去の努力と痛みが滲んでいることに気づかずにはいられなかった。
食卓の向こう側で、柔らかな光がノワールの黒い耳と尻尾を照らす。
ステラは心の中でそっとつぶやく。
「ノワール……少しずつ、ね。」
スープが少し減り、パンも半分になる頃、
ノワールはそっと顔を上げステラを見る。
「……あの、ありがとう。僕、少し、安心できてるかも。」
ステラの胸がじんわり温かくなる。
まだ心の扉は固く閉ざされている。
でも、この小さな一歩を、自分の意志で踏み出したことが何より大切だった。
「良かった。無理はしなくていい。私、ずっとそばにいるから。」
ステラの言葉に、
ノワールはかすかに頷いた。
午後の風がそよぎ、
小鳥のさえずりが聞こえる。
教会の庭の緑が、
静かに二人を包み込んでいた。
ノワールは初めて、
ほんの少しだけ口元に小さな微笑みを浮かべる。
それはまだ完全な安心ではないけれど、
心の奥で芽生えた信頼の印だった。
午後の静けさの中で、二人だけの時間は少しずつ、ゆっくりと流れていった。