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昼食を終えた食堂には、静かな余韻が残っていた。空になったスープ皿と、ちぎられたままのパンの欠片。午後の光が窓から差し込み、白いテーブルクロスの上に淡く影を落としている。
ノワールは椅子に座ったまま、尻尾の先を小さく揺らしていた。
無意識の仕草だと、自分では気づいていない。その揺れは、身体の緊張が少しだけ抜けた証であり、同時に、まだ完全には安心しきれていない心の揺らぎでもあった。
「……少しは落ち着いた?」
やわらかな声に、ノワールは視線を落としたまま考える。
胸の奥に詰まっていた重たいもの。胃のあたりに残っていた不快感。どちらも、さっきよりは和らいでいる気がした。
「……うん。さっきより、楽」
短くそう答えると、彼女はほっとしたように息をついた。
「よかった。じゃあ、よかったら……教会の中を少し見て回る?」
ノワールは一瞬迷い、それから小さく頷く。
「……行って、みたい」
自分から何かを選ぶ。
その事実に、胸の奥がかすかにざわめいた。
石造りの廊下はひんやりとしていて、足音が静かに響く。
壁には古い絵画や祈りの言葉が刻まれた像が並び、柔らかな光が差し込んでいた。
ノワールは周囲を警戒するように見回しながらも、ひとつひとつを丁寧に目で追っていく。
壊れ物を扱うような慎重さが、彼の動きには染みついていた。
「ここは礼拝堂よ」
扉の前で、彼女は足を止める。
「誰かと話さなくてもいいし、祈らなくてもいい。
ただ座って、何もしなくてもいい場所」
ノワールは、その言葉を何度も心の中でなぞった。
「……何もしなくても、いいの?」
「ええ。何もしなくても、ここにいていいの」
その一言が、胸の奥に静かに落ちていく。
役に立たなくてもいい。期待に応えなくてもいい。
そんな許しを、彼は今まで知らなかった。
礼拝堂の最後列に腰を下ろすと、ノワールは反射的に背筋を伸ばした。
怒られる準備をするような、染みついた姿勢。
「……怒られない?」
「ええ。ここでは、誰もあなたを叱らないわ」
「……失敗しても?」
「失敗しても、よ」
その答えに、喉が小さく鳴った。
否定されるはずだと思っていた心が、置き場を失って戸惑っている。
しばらく、二人は言葉を交わさずに座っていた。
風の音、鳥の羽音。静けさが、ゆっくりと身体の内側に染み込んでいく。
やがて、ノワールは小さな声で言った。
「……僕、ここに……少し、いてもいい?」
確認するような、願うような声だった。
「ええ」
彼女は微笑み、続ける。
「じゃあ私は、外で用事を済ませてくるわね。
ここにいる間、誰も来ないようにしておく」
ノワールは一瞬、目を見開く。
「……いなく、なる?」
「すぐ戻るわ。
あなたを置いて、どこかへ行ったりしない」
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
それでも、不思議と怖くはなかった。
「……わかった」
礼拝堂を出る足音と、扉が静かに閉まる音。
残された静寂は、思っていたほど冷たくない。
ノワールは一人、椅子に座ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
(……ここに、いていい)
誰にも見られていないのに、背筋を伸ばしてしまう癖を、そっと緩める。
何もしなくても、咎められない時間。
午後の光が、静かに彼を包んでいた。
しばらくして、彼女が戻ってきた。
扉をノックする音が、礼拝堂に小さく響く。
「気分は、どうかしら」
礼拝堂を出ると、午後の光はさらに柔らかくなっていた。
ノワールは一歩後ろを歩きながら、ふと考える。
──ここにいると、安心する。
その気づきは、まだ怖さを伴っている。
それでも確かに、彼の中で何かが動き始めていた。
午後の静けさの中で、二人の距離は、ほんの少しだけ縮まっていた。