「奥さん、優しそうな人ですね」
俺の妻を見たことのある人は、大抵がそんな言葉を口にする。
“優しそうな人”とは、一見すると褒め言葉のようで聞こえは良いが、それが褒め言葉ではないということを俺は知っている。きっと、それ以外に形容する言葉が見つからないだけなのだ。
事実、俺の妻は美人でもなければ特別スタイルが良いわけでもない。むしろ、地味で冴えない不美人な女と言っていいだろう。唯一の長所と言えば、その菩薩のような穏やかさだろうか。下膨れに細い瞳で微笑む姿は、まるで観音菩薩のそれに似ている。
そんな人を前にして、何か一つ褒めなければならないとしたら、“優しそうな人”と無難な言葉を口にする他ないのだ。
所謂、社交辞令というやつだ。
「菩薩ってさぁ、ほんっとブスだよね~」
裸のままベットに横たわっている梨奈が、そう声を漏らしながらシーツを手繰り寄せる。
「ねぇ、何であんなブスと結婚したの? あんな顔毎日見るなんて、私だったら耐えらんな~い」
遠慮する気など更々無いのであろう梨奈は、あけすけな本音を溢しながら俺を見上げた。
俺だって、なんでこんな女と結婚してしまったのかと、ここ数年は毎日後悔ばかりしている。たまたまと言ってしまえばそれまでだが、ちょうど鬱憤が溜まっていた時にタイミング良く出会ったのが亜希だった。
「俺だって嫌だよ」
口に咥えたタバコに火を付けると、俺はチラリと梨奈に視線を向けてそう答えた。
「いつからなんだっけ?」
「十年くらい前かな」
「ふ~ん。どこで出会ったの?」
「コンビニ」
「え~、コンビニ? もしかしてナンパでもしたとか?」
「……ま、そんな感じかな」
「え~、マジうける~! あんなブス、よくナンパしたね」
そう言ってケラケラと笑い声を上げた梨奈は、「私にもちょうだい」と言って吸いかけのタバコを取り上げた。
そんな梨奈の姿を横目に、俺は一人、亜希との出会いを思い出していた。
今から十年ほど前の十二月。当日になってクリスマスデートをドタキャンされた俺は、ムシャクシャとした気分で近所のコンビニへと立ち寄った。
普段なら絶対に相手にもしない、地味で冴えない不美人な女。そんなコンビニの店員を前にした俺は、ちょっとだけからかってやろうと、そんな軽い気持ちから声を掛けてみることにした。
『前から思ってたんですけど、お姉さん可愛いですね』
そう口にすると、途端に顔を真っ赤に染め上げた店員。褒められ慣れていない女とは、こうも簡単に頬を染めてしまうものなのだ。
その単純さに妙な優越感を覚えた俺は、ほんの少しだけからかうつもりでいた予定を変更すると、そのまま自宅へと連れ帰ることした。
今にして思えば、それだけドタキャンされたことに腹を立てていたのだろう。
地味で冴えない見た目通りに、とても慎ましく従順な亜希。俺が普段デートしている女達とは真逆のタイプで、正直言って全く好みでもない。けれど、そんな亜希との時間は意外にも悪くはなかった。
痒い所に手が届くと言えば分かり易いが、亜希はとても気の利く女で、あまつさえ際限なく俺に尽くしてくれる。何より、俺がどこで何をしようとも一切文句も言わないのだから、こんな便利な女は他にいないだろう。
けれど、やはり抱くとなると梨奈のような美人で可愛い女の方がいい。本来、俺は面食いなのだ。いくら便利な女だからとはいえ、結婚したのは間違いだったのかもしれない。
家に帰ればあの不美人が居るのかと思うと、ここ数年は本当に憂鬱でたまらない。
唯一の救いといえば、亜希が俺に何も求めてこないということ。家政婦を雇っていると思って我慢さえしていれば、こうして外で自由に女を抱くことができるのだ。
「ねぇ、菩薩と別れる気はないの?」
「まぁ……、便利だからな。家政婦みたいなもんだよ」
「家政婦とか、直輝ひど~い」
そんなことを言いながらも、クスクスと笑い声を漏らす梨奈。そんな梨奈の姿を見つめながら、この関係がいつまで続くかと考える。
派手で美人な女は好みだけれど、そういったタイプは総じて奔放な性格が多いのだ。
(……ま、切れたら切れたらで、他にいくらでも女はいるしな)
一人の女に固執することのない俺にとっては、むしろそのぐらいの方が丁度いい。変に本気になられても、後々面倒なことになるだけなのだ。
そんな俺の考えを見透かしていたかのように、それから暫くすると梨奈からの連絡は途絶えた。
“他に好きな人ができちゃった”
そんな短いメールだけを残して、唐突に終わりを迎えた不倫関係。奔放な女とは、いつだって唐突なのだ。
きっと、不倫していたことに罪悪感すら感じていないのだろう。
(……ま、俺も人のこと言えないけどな)
そんな事を思いながら自嘲すると、俺は一人小さく笑みを溢した。
「ハンバーグ、そんなに美味しい?」
夕食を口に運びながら微笑む俺を見て、どうやら勘違いでもしたのかクスリと声を漏らした亜希。
「……ああ」
テーブルを挟んで目の前に座っている亜希にそう答えると、「良かった」と言って嬉しそうに微笑む。
確かに亜希の作る食事はどれも美味しいが、目の前に居るのがこんな不美人では、せっかくの食事も美味しさが半減してしまうというものだ。
そんなことを思いながらも箸を進めていると、ガリッとした異物感に気付き、俺は食べかけのハンバーグを皿の上に吐き出した。
「……っ、おい。なんだよこれ」
そう言って小さな宝石のようなものを摘み上げると、申し訳なさそうな顔をして口を開いた亜希。
「ごめんなさい。ネイルのラインストーンが取れちゃったみたい」
「汚ねぇな……、ふざけんなよ」
菩薩のくせにお洒落に気を使うとは、なんとも気持ちが悪い。くわえて、その飾りがハンバーグに混入していたとなれば、その不快感さはひとしおだ。
俺はその腹立たしさから「チッ」と舌打ちを溢すと、そのまま席を立ってリビングを後にした。
◆◆◆
それから数週間が経つ頃には新しい彼女も出来、俺は順風満帆な生活を送っていた。
いつもと違うことといえば、今回の彼女に対しての本気度だった。
いっそのこと亜希とは離婚して、このまま彼女の沙奈と一緒になるのも有りなのかもしれない。そんなことを思ってしまう程に、俺は沙奈に心底惚れ込んでいた。
(離婚するにしても、損だけは絶対したくないよな)
そんなことを考えながらリビングの扉を開くと、そこには風呂上がりの俺を待つ亜希の姿があった。
「ビール、飲むでしょ? 用意しておいたから」
そう言って、菩薩のような微笑みを浮かべる亜希。
気が効くのは便利で有難いが、正直、今は亜希の顔など見たくもない。せっかく可愛い彼女とのデートで気分良く帰宅したというのに、これではその余韻も全てが台無しだ。
そう思った俺は、亜希の顔も見ずに無言でダイニングへと腰を下ろすと、グラスに注がれたビールをグビグビと飲み始めた。
「晩御飯あるけど、どうする?」
「……ああ、食べて来た」
「そう」
「…………」
「最近、また忙しいみたいだけど、あまり無理はしないでね」
仏頂面で言葉少なげに答える俺とは対象的に、穏やかな笑みを浮かべて話し続ける亜希。そんないつもと変わらない、なんの面白みもない空気が漂う中。
不意にテーブルに置かれた携帯へとチラリと視線を送った亜希は、その視線を再び俺へと戻すとニッコリと微笑んだ。
「そういえば、さっき携帯に着信があったわよ」
「──!?」
その言葉を聞いた瞬間、ドキリと鼓動を跳ねさせた俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
「っあ、ああ……、取引先だな、きっと」
そうは言ったものの、こんな夜遅くに取り引き先から電話が掛かってくるだなんて、そんな可能性は万に一つも無いだろう。おそらく、その着信は沙奈からのものだ。そうと分かってはいても、俺はそう答える他なかった。
チラリと亜希の様子を伺ってみると、相変わらず菩薩のような微笑みを浮かべているばかりで、その心中を読み解くことはできない。
着信があった時、亜希は表示された画面を見たのだろうか──?
それが気になって仕方がなかった俺は、とにかく誰からの着信だったのかを確かめるべく、テーブルに置かれた携帯を掴むと席を立った。
「ちょっと、掛け直してくる」
それだけ告げてそそくさとリビングを後にした俺は、自室に籠ると急いで携帯を確認してみた。
「……やっぱり沙奈か」
画面に表示されている着信履歴を見て、まずいことになってしまったと顔をしかめる。今このタイミングで、不倫をしていることがバレるのは非常にまずい。
今までも、きっと亜希は気付いていただろうし、その上で何も言ってはこなかった。けれど、離婚を考えている今となっては、この関係が明るみになってしまうのは非常に困るのだ。
いくら従順な亜希とはいえ、離婚となれば膨大な慰謝料を要求してくる可能性だってある。
「あ~……っ、しくった」
自分の脇の甘さに「チッ」と舌打ちを打つも、こうなれば気付いていないことを祈るしかない。そう思った俺は、それから毎日不安な日々を送ることとなった。
けれど、そんな俺の気持ちとは裏腹に、いつもとなんら変わらぬ様子の穏やかな亜希。どうやら俺の心配は杞憂だったようで、沙奈との不倫には気付いていないようだった。
けれど、そんな心配事も吹き飛ぶ程の大きな問題が、何の前触れもなく突然俺の身に降りかかってきた。
──なんと、沙奈から突然別れを切り出されたのだ。
いつもの俺なら、さっさと切り替えて別の女でも物色していただろう。けれど、本気で愛してしまった沙奈だからこそ、簡単に諦めることはできなかった。
ひたすら連絡を取り続けるも、一向に繋がらない沙奈の携帯。そんな状態が数日続いただけで、目に見えてやつれてゆく俺の姿は隠しようもなかった。
どうやら沙奈は転居してしまったらしく、もしかしたら、このまま二度と会えないのかもしれない──。そう考えるだけで、本当に身を裂かれる思いだった。
「今日のハンバーグ、どうかな? 美味しい?」
俺の沈んだ気持ちなど知りようもない亜希は、そう質問を投げ掛けると小首を傾げた。
普段は食事の感想など一切求めてこないというのに、何故かハンバーグが食卓に並んだ時にだけ、毎回その味の感想を俺に求める亜希。よくよく考えてみれば、ハンバーグが食卓に並ぶタイミングは、毎回女と別れた時期と重なっていた気がする。
そんな朧げな記憶を辿りながらも、ゴリッとした異物感に口の中のものを吐き出した俺は、皿の上に転がったそれを見て思わずギョッとした。
「え……? なんだよ……っ、これ……」
心許無くそう声を発した俺には、その時の亜希が一体どんな表情をしていたのかは分からない。
慌てて口内をくまなく確認するも、そこにあるのはいつも通り綺麗に整った歯列。それを確認した俺は、全身から一気に血の気が引いてゆくのを感じた。
「ごめんなさい。ネイルには気を付けてたんだけど……」
そう告げた亜希の手元を見てみると、その爪はマニキュア一つ塗られてはいなかった。
俺は震える身体でゆっくりと顔を上げると、目の前に座っている亜希の顔を凝視した。
「次からは、歯にも気をつけなきゃね」
そう言って俺の皿から一本の歯を摘み上げた亜希は、まるで観音菩薩かのような穏やかな微笑みを浮かべていた。
─完─
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