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秋元家での生活は思いのほか快適で、半ば無理やり入学させられたお嬢様高校での低レベルな嫌がらせを除けば、不満と言う不満は見当たらなかった。
秋元葉子は、先代の正和から、“後継ぎ”ではなく、“後継ぎの妻”になるべく育てられた女で、掃除、洗濯、庭の手入れなど、全て完璧にこなした。
初めこそ毒でも盛られているのではないかと勘繰った食事でさえ、一流レストランに引けを取らない美味しさで、大抵の男なら彼女の美貌とこの料理で、心を鷲掴みにされていたに違いないと思った。
父のような根っからの好色漢を除いては―――。
私は秋元家に入ってすぐに、父が相も変わらず女遊びを続けていることに失笑した。
食事中に席を外しこそこそと女と電話をしていたり、葉子がおおよそ選ばないような下着を洗濯機に入れていたり、
明らかに女物とわかる香水の匂いを振りまきながら帰ってきたときには、自分の立場も忘れ、葉子に同情したものだった。
しかし彼女は顔色一つ変えずに、食事中の長電話で冷めてしまったミネストローネを温め直し、真っ赤な光沢のあるブリーフを洗い、香水の匂いが染みついたスーツには消臭効果のある除菌スプレーを振りかけた。
私は彼女の艶やかな赤髪を見つめて思った。
どんなに美しくても、
どんなに着飾っていて、
どんなに気量が良くても、
彼女も母と同じだ。
父の上辺だけの優しさに溺れ、
父の気まぐれの愛情に感涙し、
父の浮気にハンカチを噛みながら生きていく。
自分を蝕む病にも気づかずに。
ある日の夕刻ーーー。
部屋で読書をしていると、誰かが帰宅した音がしたのに、足音も物音も聞こえなかった。
私は不審に思い屋敷内を見て回った。
こんなに「ここには金があります」とアピールしているような豪邸だ。泥棒の一人や二人、狙いを付けてもおかしくはない。
そろりそろりと階段を上がると、二階にある主寝室の部屋のドアが開いていた。
そっと覗く。
すると―――。
葉子が箪笥の前で手をブルブルと震わせていた。
ANLのチケット。行き先までは見えなかった。
しかし彼女の手には確かに二枚のそれが握られていた。
ああ。そういうことか。
どうやら父は、女と二人で国外に旅行にでも行くらしい。
それを見て、若く美しい新妻は、声を出すこともせずに、ただただ怒りと悲しみに震えているのだろう。
可哀そうに。
心の底から同情し、私は踵を返した。
父は、貧乏神だ。
女に取り入り、精神と財産を蝕んで、また違う家に移っていく。
私の母も、そして秋元家の令嬢でさえも、その被害者の一人に過ぎない。
―――死ねばいいのに。あんな奴。
下る階段が真っ赤に染まって見えた。
◆◆◆
それからたった数日後、父は私をドライブに誘った。
大人しく助手席に同乗した途端、車はすぐ近くの小さな自動車整備工場に到着した。
「実は車検なんだ」
父は悪びれずに言った。
何のことはない。
車検で家を空けるのに、葉子に対して、浮気ではないとアピールするためだけに私を誘ったのだ。
そういう使われ方なら慣れている。
私が幼いころから、本当の浮気を隠すため、そうじゃないときには必ず駆り出されてきた。
―――勿論、その浮気はすべてバレているのだが。
自動車整備工場は小口自動車という名前だった。
そう言えば父も車と言えばこの整備工場に全て任せていたような気がする。
受付を済ませ、待合室のソファに座った。
頼んだエスプレッソとオレンジジュースが運ばれてきたところで、清潔そうな作業着を着た男性が、硝子戸を開けて待合室に入ってきた。
「本日、作業を担当させていただきます、吉良と申します。よろしくお願い致します」
【吉良瑛士です。なんでもご相談ください!】
と書かれたプレートをテーブルに置くと、彼は帽子をとった。
「お車をお乗りいただいて何か気になることはありますか?」
彼は丁寧な言葉選びとは裏腹に、遠慮や敬畏のない目つきで父を見上げた。
「いや。特にないよ。こまめに見てもらってるから。快適です」
父は爽やかに笑顔を向けたが、彼はピクリとも笑わずに帽子をかぶり直すと、
「それでは作業に入ります。何かあったらお声がけ致しますので」
踵を返し、歩き出した。
ピットに向かう後ろ姿を見つめる。
その歩き方に少し違和感を覚えた。
私はオレンジジュースのストローを咥えながら、ただその後ろ姿を眺めていた。
◇◇◇
父と二人で座っていても会話が弾むわけでもなく、私は立ち上がった。
ショールームにあるスタッドレスタイヤやエアフィルターなどのポップを一通りを見た後、ドアを開け外に出る。
「―――臭い」
風に交じって油の匂いと排気ガスの匂いがした。
「はいライトー!」
低い男の声が聞こえてくる。
「右―、左―、ブレーキ―、フォグ―、点灯ー、ハイビームー、はいおっけー!」
ピットを覗くと、先ほどの男性が帽子を直しながら出てきた。
若い短髪の男。
気の強そうな目つきは、少し苦手だった。
足こそ引きずっているが、身体の筋肉は盛り上がっていて、頭や顔で人生を渡っている父とは別の生き物に思えた。
たしか名前は吉良といっただろうか。
珍しい苗字だ。だから覚えていた。
どこの出身だろう。
リモコンを伸ばしながら、父の車をリフトで上げていく。
「瑛士さーん」
車の影から間延びした若い男の声が聞こえた。
「オイル漏れしてますね、これ。にじみ程度っすけど」
その声に瑛士はリフトのリモコンを離すと、胸ポケットから小型の懐中電灯を取り出し車体の下部を照らした。
「―――ブレーキフルードすかね?」
男が瑛士の脇に寄ってくる。
「いや、さっき試乗してきたけど、ブレーキには何の違和感もなかったから、エンジンオイルだろ。オイルパンの液体パッキンの劣化か、クランクシャフト前後のオイルシールの劣化だよ。こんくらいの量ならエンジンの焼き付きなんかもねえんじゃねえかな」
言いながら吉良は懐中電灯をしまい、もう一度リフトのリモコンを手にした。
「まずは見てみるか。周囲確認!下げまーす」
視線を感じたのか、彼がこちらを振り返った。
私は何でもない風を装い、ピットの後ろを通過すると、隣にあるコンビニにフラフラと歩き始めた。
オイル漏れ。
ブレーキフルード。
ブレーキに違和感。
そんなどうでもいいはずのワードが、頭の中になんとなく残っていた。