テラーノベル
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磨き上げられた大理石の床に、幾重にも重なる楽団の旋律が反響していた。
王都の貴族向け社交場、舞踏の練習室。高い窓から差し込む昼下がりの陽光が、丹念に磨かれた床板の上に淡い光の筋を落としている。
王都舞踏コンクールまで、あと十日。
「回転、そして三歩下がって、パートナーの手を取り直す」
指導教師の号令に合わせ、わたくしはパートナーであるオーウェン様の手を取り、回転のステップへと入った。
頭の中では、振り付けの一つ一つを寸分の狂いもなく思い描けている。幼い頃から舞踏だけは誰にも負けたことがない、という密かな自負があった。
(振り付けは、完璧に頭に入っているはず……)
だが、回転を終え、三歩下がろうとした、まさにその瞬間だった。
膝から下にぴったりと張り付くように仕立てられたドレスの裾が、脚の動きに追いつかず、太腿のあたりで突っ張るように抵抗する。
(――え……? 脚が、動かない……!)
踏み出したはずの右足が、想定していた位置よりも大きく手前で止まってしまう。勢い余った左足が、オーウェン様の右足の甲を思い切り踏みつけてしまった。
「っ……!」
「ご、ごめんなさい、オーウェン様……!」
「い、いえ……大丈夫です、これくらい」
オーウェン様は笑顔を保とうとしているが、その足取りには明らかな痛みの気配が滲んでいた。
「セシリア様、また同じ箇所ですね。難しい舞踏なのは確かですが、……本番まで、もう十日もございませんよ」
「も、申し訳ありません。もう一度、お願いいたします」
(また、同じところで……。振り付けは忘れていないのに、なぜ、いつもここで……)
気を取り直し、最初から仕切り直す。だが回転の後、同じ場所で、また同じように脚がもつれた。
(噓……。どうして、身体が、思った通りに動いてくれないの……)
○
何度目かの失敗の後、休憩を言い渡され、わたくしは誰とも目を合わせられないまま、練習室の隅の椅子に腰を下ろした。
足を踏まれ続けたオーウェン様は苦笑いを浮かべるだけで文句一つ言わない。それが、かえって申し訳なさを募らせる。
そこへ、練習を見学していた別の令嬢たちの会話が、意図せず耳に入ってきた。
「聞いた? 先日の夜会で、ロゼリア様がそれはもう見事に踊られたそうよ」
「ええ、存じておりますわ。以前は途中で息が上がってしまわれることもあったのに、今回は最後まで一度も乱れることなく」
「殿方たちの間でも、随分と評判になっているとか」
(……ロゼリアが。あの、謎の息切れでろくに踊れないと聞いていたロゼリアが……)
子供の頃から、舞踏の筋だけは、わたくしの方が良いと言われてきたのに。
(……なんですの、この気持ち。悔しいのか、それとも……)
膝の上で、無意識に拳を握りしめている自分に気づく。
(そういえば、ロゼリアが以前、何か言っていたわね。……辺境の職人街に、腕の良い仕立て屋がいるとかなんとか)
「……私も、行ったほうが」
(……いえ、別に、ロゼリアの真似をするわけではないのだけれど)
そう自分に言い聞かせながらも、頭の片隅に居座ったその話が、離れていってはくれなかった。
○
数日後。
供も連れず、変装のためにありふれた外套を纏って辿り着いた店構えは、聞いていた通り控えめで、社交界の華やかさとは無縁だった。
扉を開ける直前まで、幾度となく踵を返しかけた。
従姉と同じ場所を頼るなど、プライドが許さない。そう思う一方で、あと十日でコンクール本番だという焦りが、その抵抗を上回っていた。
扉を開ける。目の前に店の主ことトウヤの姿が見えた。
(ロゼリアの名前だけは出さないようにしましょう。勘ぐられても嫌ですし、念のため他の情報もできるだけ少なく……)
わたくしは頭の中で入念に段取りを組み立てていた。
「依頼は、舞踏会で使うドレスのことにしましょう。コンクールが目前に迫っていることは伏せて、悩んでいる脚のもつれは訊かれたときに説明しましょう。もしかしたら見るだけで分かってくれるかもしれませんし。あとここを見つけた理由は……まぁ訊かれないでしょう……、よしっ」
(言葉がまとまりましたわ!)
我ながら完璧な計画だと、わたくしは一人で頷いた。
するとカウンターの奥、裁断作業をしていたトウヤが顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
「その……舞踏用のドレスについて、ご相談したいことがございまして」
「……なるほど。おそらく回転動作の後、脚がもつれていますね。それも、右足を踏み出す動きだけが、特に不自然に」
「なっ……! まだ何も申し上げておりませんのに、なぜ……!」
「歩き方に、その癖が出ています。無意識に右膝を庇うように歩いていますね。……舞踏のステップで、同じ動作を繰り返し失敗しているのでは?」
「んな!!?」
(……こ、こんなに、あっさりと見抜かれるなんて)
「……ご、ご想像にお任せいたしますわ」
「想像ではなく事実として伺いたいのですが。……ちなみに、私の店を知ったのはどちらで?」
「そ、それは……その……」
(ロゼリアの名前だけは、絶対に出したくない……)
「……風の噂で、耳にしただけですわ。従姉とは、一切関係ございません」
トウヤは表情を変えないまま、わずかに首を傾げた。
「従姉、とは? 私はまだ、あなたのご親族について何も伺っていませんが」
(――しまった……!)
顔から一気に血の気が引き、続いて熱が上ってくるのが分かった。
「い、今のは、その……な、なんでもございませんわ!」
「……なるほど。まあ、事情はどうでも結構です。舞踏コンクールまで十日、とおっしゃいましたね。時間がありません。まず、脚を見せていただけますか」
「え……あ……ま、まだ、コンクールの話もしておりませんが……」
「先ほどの独り言で伺いました」
「はい!!?」
(独り言……? わたくし、そんなことまで口に出していたの……!?)
羞恥のあまり、しばし言葉を失った。
○
自分でも気づかぬうちに焦りが口から漏れていたという事実に打ちのめされながら、わたくしは半ば呆然とした足取りでフィッティングルームへと案内された。
従姉と同じ轍を踏むことへの抵抗感は、まだ胸の奥にわだかまっている。
だが、十日後のコンクールで、また同じ失敗を繰り返すことを思うと、そんな些細な意地など、今この瞬間だけは脇に置くしかなかった。
「ドレスの裾を、膝上まで上げていただけますか。可動域を確認します」
「ひ、膝上……!? そ、それは、いくらなんでも……」
「舞踏の可動域を見るには、脚全体の動きを確認する必要があります。……羞恥心より、十日後の本番を優先されては?」
(……この物言い、腹立たしいくらいに、正論だわ)
「わ、分かりましたわよ……。少し、目を逸らしていただけますこと?」
「見なければ測れません」
「うぐ……」
渋々、わたくしはドレスの裾に手をかけた。
指先が震える。人前でこれほどの肌を晒すのは、物心ついてから一度もなかったことだ。裾を摘み上げるたび、フィッティングルームのひんやりとした空気が素肌を舐めていく感触に、背筋がぞくりとする。
ゆっくりと、しかし着実に、膝、そして太腿の半ばまでたくし上げる。
夜会用に丹念に手入れされた、染み一つない白い脚が、淡いランプの灯りの下に晒されていく。
(誰にも、こんな……)
慌てて視線を逸らし、頬に集まる熱を意識しないようにする。だが、目の前の職人は、そんな羞恥になどまるで頓着しない様子で、迷いのない足取りで距離を詰めてきた。
トウヤの指先が、太腿の付け根に近い位置へ、そっと触れる。
冷たい指先の感触に、剥き出しの肌がぴくりと跳ねた。
「ひゃ……っ」
太腿の付け根に触れられた瞬間、思わず声が漏れた自分に、わたくしは内心で激しく動揺していた。
殿方にこれほど近くで肌に触れられた経験など、当然ない。ドレスの裾を摘んだまま固まる身体に、彼の指先が淡々と這っていく。付け根から膝へ、そしてまた付け根へと、まるで採寸表にでも従うかのような正確さで。
だが、トウヤという男の指先には、値踏みするような冷たさこそあれ、それ以外のいかなる感情も見当たらなかった。羞恥に炙られながらも、その平坦な眼差しにどこか救われている自分がいることに、わたくしは気づかないふりをした。
羞恥に耐えながら、彼の指示通りに何度か脚を動かしてみせる。
腿を軽く持ち上げ、外側へひねる。回転のステップの、あの一瞬の動作を再現するたびに、生地が抵抗するように太腿へ食い込むのを、自分でもはっきりと感じ取れた。露わになった脚の輪郭を、彼の視線が数値でも読むように滑っていく。
「動かないでください。……もう少し、脚を外側へひねってみてください。回転のステップの動作を再現するように」
「こ、こう、でしょうか……」
膝上まで持ち上げたドレスの裾越しに、脚を外側へひねる。生地が太腿に食い込むように突っ張った。
「あ……」
「……やはり。このペチパンツ、膝上のタイトなカットが災いしていますね。回転動作で右脚を踏み出す際、股関節を外旋させる角度が本来25度前後は必要なところ、生地の抵抗でその半分も取れていない」
「はん、ぶん……? そんなに、ですか……」
「だから、着地位置が毎回同じだけ手前にズレる。あなたの技術や記憶力の問題ではありません。単純に、生地がその動きを許していないだけです」
(技術の問題では、ない……。ずっと、自分の身体が悪いのだと、そう思い込んでいたのに……)
「ですが……このペチパンツは舞踏会用のドレスの型に合わせて作られているのです、社交界の淑女として、崩すわけには参りませんの。裾のシルエットの型崩れひとつで、家格を疑われることもございますのよ」
「見た目のシルエットを崩す必要はありません。……崩れるのは、動いている一瞬だけで十分です」
「一瞬、だけ……?」
「静止している時は、誰にも気づかれない。動いた瞬間だけ、必要な分だけ生地が伸びる。そういう設計にします」
(そんなことが、可能なのかしら……)
「もう一度、その姿勢のまま止めてください」
言われるがまま、脚を外側にひねった姿勢で静止する。剥き出しの太腿に、彼の指先がもう一度そっと這い、内腿の付け根、膝の裏側へと迷いなく触れていく。ひんやりとした指の感触が肌をなぞるたび、意識するまいとしても、太腿の奥がじんと熱を持った。
「太腿の周径、外旋時の可動域、膝の位置……採寸完了です。少々お待ちを」
作業台に向かうトウヤの手元を、わたくしはカーテンの隙間からそっと窺っていた。
選ばれていたのは、見た目には普段のドレス地とほとんど見分けがつかない、しかし微かに虹色の光沢を帯びた糸だった。氷結蚕とやらの糸に、伸縮性のある魔繊維を織り交ぜているのだと、後から聞かされた。
程なくして仕上がったのは、パッと見には何一つ変わらないように見える、けれど脚の付け根から膝にかけての内側にだけ、その特殊な生地が織り込まれた一着だった。
「着けてみてください。それと、先ほどの回転動作を、実際に踏んでみて」
「は、はい……」
カーテンの向こうで着替える間、先ほどまで指先が這っていた太腿の感触が、まだ肌の奥に残っている気がした。真新しいペチパンツに脚を通し、鏡の前で回転のステップを踏んでみる。
静止している間は、裾のシルエットに寸分の違いもない。だが脚を踏み出し、外側へひねった瞬間、生地がまるで初めからそこに余裕があったかのように、なめらかに追従した。
「……あら?」
「どうです」
「脚が、引っかからない……。それに、見た目は、本当に何も変わっていないように見えますわ」
何度も同じ動作を繰り返してみるが、あの嫌な突っ張り感がどこにもない。
「静止時の外見は一切変えず、動作時の抵抗だけを取り除きました。……社交の場でも、誰にも気づかれません」
信じられないという顔で、わたくしは何度も回転を繰り返した。
「わたくし……ずっと、練習量が足りないのだと、自分を責めておりましたの。従姉より劣っているのだと……」
「比較する意味が分かりません。あなたはあなたの脚で踊るんです。彼女の脚ではなく」
(あなたの、脚で踊る……)
その言葉が、なぜか胸の奥にすとんと落ちてくる。
「……ふふ。存外、優しいことも仰るのですね」
「事実を言っているだけです」
「存じておりますわ。あなたは、きっとそういう方なのですね」
○
数日後。
王都舞踏コンクール当日。大理石のフロアを囲むように、着飾った招待客と審査員が居並んでいた。
出番を待つ間、心臓は落ち着かない早鐘を打っていたが、それは恐怖からではなく、むしろ期待に近いものだった。
「セシリア様、落ち着いて。……いつも通りに」
袖で見守る指導教師の声に、わたくしは内心でそっと答える。
(いつも通りになんて、しませんわ。今日は、いつもより、ずっと自由に踊りますの)
パートナーのオーウェン様の手を取り、フロアの中央へと進み出る。
「セシリア様、今日はいつもより、お美しい」
「あら、お上手ですこと。……参りますわよ」
楽団の音色が響き始め、振り付け通りに身体を動かしていく。
そして、あの回転のステップ。これまで何度も足を止めさせてきた、あの一瞬。
(――今よ)
脚を踏み出し、外側へひねる。
抵抗は、どこにもなかった。
想定していた位置に、寸分違わず右足が着地する。
「……! 完璧ですっ」
続く三歩の後退も、危なげなく決まる。客席から小さなどよめきが漏れた。
(あら……あちらの客席、ロゼリア様……?)
見覚えのあるプラチナブロンドの姿が、視界の端をよぎった気がした。
(いえ、今は演技に集中よ)
そのままわたくしは危なげなく演技を終え、拍手が湧き上がる中、深く一礼する。
顔を上げた瞬間、わたくしは今日一番の、心からの笑みを浮かべていた。
○
控室へ戻る途中、人混みの中からロゼリアが駆け寄ってくる。花束を抱え、興奮を隠しきれない様子だった。
「セシリア! 素晴らしかったですわ、本当に……!」
「ロゼリア様……。いらしていたのですね」
「当然ですわ。……その、もしかして、あなたも、例の防具店に?」
(先に、あちらから仰るなんて……)
かつては素直に喜べなかったはずの従姉の賛辞に対する複雑な感情が、今のわたくしの中には、不思議なくらい見当たらなかった。
「……ええ。ロゼリア様の評判を伺って、恥ずかしながら、後を追わせていただきましたの」
「まあ! やっぱり! ……あの、素っ気ない口ぶり、でも腕だけは確かな仕立て屋でしょう?」
「ふふ。ええ、まさにその通りの方でしたわ」
二人で顔を見合わせ、思わず笑い合う。同じ悩みを乗り越えた者同士だけが分かる、静かな連帯のようなものが、そこにはあった。
「今度、一緒にお茶でも。積もる話もございますし」
「喜んで」
○
数日後、トウヤの店。
「トウヤ様、この間はありがとうございました。コンクール、一度も失敗することなく踊り切ることができましたの」
「それは何よりです」
「オーウェン様の足を踏むこともございませんでしたし、審査員の方々からも、最上評価をいただきましたわ」
「順調そうで何よりです。……ちなみに、股関節周りの締め付けに、その後変化は? 念のため、再採寸を」
澄まし顔を作りながら、わたくしは静かに答えた。
「……そうですわね、また日を改めて伺いますわ」
「承知しました」
(……存外、この店に通うのも、悪くございませんわね)
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つらみぴえんさん、第9話読了です🕊️ トウヤに「あなたの脚で踊るんです」と言われたシーン、胸に響きました……。自分のせいだと思い込んでた壁が、実はドレスの構造的な問題だったって気づく解放感が、セシリアの心の動きと一緒にすごく丁寧に描かれていて。脚の採寸の時の照れと真剣さの温度差も、うまいなあと思いました。ロゼリアと和解する終盤もほっこり。またトウヤのところに通うと言うセシリアの台詞、続きが読めるのを楽しみにしてます🌷