テラーノベル
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酔客の哄笑と、麦酒の馨しい匂いが、狭い酒場の中に立ち込めていた。
グランベルの下町にある「陽気な羊亭」。夜、常連客で賑わう店内。今宵は、来月の秋祭りの本舞台に立つ演者を探しに、王都からわざわざ足を運んできたという興行師が視察に来ている、またとない夜だった。
数週間前からこの機会のために、ボクは喉を鍛え、十八番のバラードを幾度となく磨き上げてきた。この一曲さえ決まれば、来月の秋祭りの本舞台に。そしてうまくいけば、その先の王都の劇場にまで話が繋がるかもしれない。
(全ては……。この一曲さえ決まれば、ね)
旅から旅への暮らしに、そろそろ区切りをつけたいという願いを胸に、武者震いをする手を押さえながらリュートの弦を弾き始める。指先が弦を弾くたび、緊張で汗ばんだ掌の感触が伝わってきた。
前奏、そして歌い出しは完璧だった。客たちの視線が集まり、興行師も身を乗り出しているのが見える。
(いける……! 今夜は、調子がいい……!)
手応えは、確かにあった。
だが、もっとも声を張り上げるべき曲の頂点で、大きく息を吸い込んだ、その瞬間だった。
喉の奥に、わずかな引っかかりが生まれた。胸のあたりも、どこか思うように広がらなくなる。上半身が急に思い通りに動かなくなる錯覚に陥った。
(――っ、また……!?)
声帯に十分な息が届かないまま、無理やり喉だけで声を絞り出した結果、高音は無様にひっくり返り、掠れた悲鳴のような音に変わってしまった。
店内が、しんと静まり返る。
「……ふむ。スター性は感じるが、肝心なところでそれでは、な」
興行師は興味を失ったように視線を逸らし、隣の客と話し始めた。
(噓だろう……。まさか、こんなところで……。何ヶ月も積み重ねてきたというのに)
「リラちゃん、ドンマイだ。今日は喉の調子でも悪かったんだろ」
常連客の一人が、慰めるように声をかけてくる。
「……まあ、今日は少し喉の調子が悪かったのかもしれないね。お聞き苦しいところを見せてしまったよ」
愛想笑いを浮かべながら、リュートを片付ける手が微かに震えている。
指先に残る弦の感触だけが、今夜の唯一の成果のように虚しく思えた。
(喉の調子が悪い、なんてものじゃない。……ここ数ヶ月、ずっとこうだ。あの一番大事な瞬間だけ、決まって声が裏返る)
○
気落ちしたまま数日を過ごしたが、根っからの詩人としての性分が、いつまでも沈み込んでいることを許さなかった。
(数ヶ月分の努力が、あの一瞬で水の泡か。……とはいえ、いつまでも沈んでいたって始まらないしね)
少し前、別の酒場で小耳に挟んだ噂話。……深夜、この職人街のどこかで、黒猫の耳と尻尾を持つ謎の女が、複数の暗殺者を単身で退けたという、まるで英雄譚のような一幕があったという。
(そういえば、この間別の酒場で聞いた噂。黒猫の獣人が、暗殺者たちを一人で退けたという、あれ)
あれを一曲に仕立てられれば、次の機会には、また興行師の目に留まるかもしれない。
真偽のほどは定かでないが、これを一曲のバラードに仕立て上げられれば、次の機会には挽回できるかもしれない。そんな下心を抱きながら、ボクは噂の現場だという路地裏を訪ね歩いていた。
すると、通りの奥に、まだ真新しい修繕の跡が残る窓ガラスを持つ、控えめな佇まいの店を見つける。
(……ここかな?)
これが噂の現場だろうかと、半信半疑のまま、ボクは扉に手をかけた。
○
扉を開けると、カウンターの奥で裁断作業をしている黒髪の男の姿があった。彼が店長のトウヤか。
「やあ、邪魔するよ。少し尋ねたいことがあってね。この辺りで最近、何か面白い話は転がっていないかな?」
「いらっしゃいませ。……随分と喉に負担のかかる話し方をしていますね」
顔も上げずに、男が応じる。
「え……?」
「今の一言だけで分かります。声の掠れ方、それに話す時に肩がわずかに上がる癖。……それに、その詰襟。喉仏のあたりまで、随分と硬い生地で覆われていますね」
「ああ、これのことかい? 旅の道中は夜も冷えるし、妙な虫や汚れからも守ってくれるから、ずっと重宝しているんだけどね」
(って、いやいや待て。取材のはずが、なんで急にボクの話になっているんだ……)
「いや、それより、事件の話を聞きたいんだけれどな」
「事件でしたら、確かに先日この店であったばかりですよ。……ですが、それより先に伺いたいのですが、あなた、お仕事は?」
「ボク? 旅の吟遊詩人をしているのさ」
「……なるほど。歌う仕事で、その喉の状態は、致命的ですね」
「致命的とは、大袈裟だな……。喉の調子くらい、誰にだってあるだろう?」
「誰にでもある、で片付けられる問題ではありません。……高音を出そうとする瞬間、声が裏返りませんか」
ボクの表情が、ぴくりと固まった。
「な……なんで、それを……」
「実用性は分かりますが、その詰襟は喉と発声にとって最悪の選択です。……最近、大事な舞台か何かで、失敗しませんでしたか」
図星を突かれ、思わず言葉に詰まる。
(当たっている……。数日前の、あの興行師の前での失敗……)
「……つい先日、大きな機会があってね。秋祭りの舞台に立てるかもしれない、またとない機会だったんだけど。……肝心なところで、声が裏返ってしまってさ」
悔しさが込み上げ、声が掠れる。
「何ヶ月も積み重ねてきたのに、結局実力不足だと、それで終わりさ」
「実力の問題ではありません。……その詰襟の高さと硬さが、喉仏の可動域そのものを制限しています。それに、腹回りのその帯状の芯地が、呼吸のたびに横隔膜の動きを縫い止めているでしょう」
「それは……まあ、しっかり固定される感じはあるけれどね……」
「呼吸で作るはずの息の圧力が、根本的に足りていない状態です。だから身体は、代わりに喉の筋肉を無理やり緊張させて、声を絞り出そうとする。……『喉詰め発声』と呼ばれる状態です」
「喉、詰め……?」
「喉に力を込めたまま歌い続ければ、声帯同士が強く擦れ合う。短時間で声が枯れたり、喉に痛みを感じたりするのは、当然の結果です。……このまま続ければ、いずれ声帯にポリープができてもおかしくない」
(ポリープ……? なんだか嫌な響きだな……!)
「高音や、長く伸ばすロングトーンが綺麗に出ないのも、喉が締め付けられている以上、当然です。あなたの技術の問題ではなく、単純に、服装が仕事の邪魔をしている」
(この服が、そんな……)
「……見せていただけますか」
「え、いや、見せるとは、また急な話だな……」
顔が熱くなるのを感じながらも、取材のつもりが、いつの間にか自分の弱点を暴かれていることに、戸惑いを隠せなかった。
そのせいもあったのだろう。
気づけば、取材という当初の目的はどこかへ追いやられ、半ば強引にフィッティングルームへと連れて来られていた。
旅から旅への暮らしの中、これほどまでに自分の身体を、それも生業に直結する喉元を他人にじっくりと観察されることなど、これまで一度もなかった。
「……取材のつもりが、まさかこんなことになるとはね」
「取材は後で結構です。まずは襟元を緩めていただけますか」
「ああ……分かったよ」
詰襟の留め具に手をかける。一つ、また一つと外していくたび、長年締め付けられてきた喉仏のあたりが、じわりと解放されていく感触があった。硬い襟の下に隠れていた鎖骨から喉にかけての肌が、フィッティングルームの淡い灯りに晒されていく。
(変だな……。誰かに肌を見せることへの抵抗より、彼の目が、なんだか気にならない違和感というか……)
トウヤが迷いのない足取りで距離を詰め、指先を鎖骨の下、喉に近い位置へそっと当てた。
冷たい指先が喉元をかすめた瞬間、思わず喉の奥が小さく鳴る。
「ん……、っ」
指先が鎖骨の下、喉に近い位置に触れた瞬間の声は、思いのほか間の抜けたものになってしまった。
旅暮らしの中で人前で肌を見せることに大した抵抗はもう残っていないはずだったが、この一点だけをじっと観察される感触には、妙にくすぐったいような落ち着かなさがある。喉仏のすぐ下、普段は詰襟の内側に隠れている柔らかな窪みに、彼の指先がゆっくりと沿っていく。
トウヤの指は、しかしすぐに喉仏の周りへと移動し、そこから小さく動かすよう指示してきた。
「顎を軽く上げて、喉を左右に動かしてみてください。……次は、小さく頷くように」
「こう、かい?」
言われた通りに動かしてみる。喉のあたりに、いつもの詰まった感覚があった。
「……喉仏の可動域、通常の60%程度まで制限されていますね。声を出すたび、この狭い範囲だけで無理に音程を作っている」
「そんなに、狭いのか」
「それに、腹部のその帯地。一度、深く息を吐いてみてください」
「分かったよ」
言われた通り、深く息を吐いてみる。腹の帯がびっしりと押し返してくる感触があった。
「……お、思ったより、抜けきらないな。こんな感覚、今まで気にしたこともなかったが」
「それが、横隔膜の下降が阻まれている状態です。呼吸で作るはずの息の圧力が、根本から足りていない」
(何年も当たり前に巻いてきたものが、まさか喉を痛めてる元凶だったなんてね……)
「試しに、もう一度、小さく声を出してみてください」
「今、ここで?」
「はい」
小さく発声してみる。案の定、喉の奥で音を絞り出す感覚があった。
「……ん、あ」
「その音、喉の奥、声帯のあたりで無理に絞り出していますね。本来、声というのは腹から上がってくる息の圧力に乗せて出すものです。その圧力そのものが、腹部の帯地に殺されている」
「圧力が足りないから、喉で無理やり補ってる、ってことかい」
「そうです。喉詰め発声、と呼ばれる状態です。……このまま続けていれば、いずれ声帯を傷めます。今はまだ、掠れと軽い痛みで済んでいるでしょうが」
(実際、この数ヶ月、稽古の後は決まって喉の奥が痛かったな。歌い手の職業病だと、勝手に思い込んでいたけど)
「それは、初耳だな。……で、どうすればいいんだ?」
「防寒と防護は、別の方法で確保します。まず、正確な数値を取らせてください」
「ああ、好きにしてくれ」
喉仏の高さ、腹回りの帯の幅、横隔膜の下降量……メジャーが淡々と当てられていく。首筋から鎖骨、そして緩めた腹の帯の隙間へと這っていく冷たい金属の感触に、時折くすぐったさとも違う奇妙な感覚が走った。
「……にしても、こんなに丁寧に診てもらったのは、初めてだな」
「診ているのは数値だけです」
「はは、分かってるよ。それくらいの余裕は、まだ残ってるさ」
○
作業台に向かうトウヤの手元を、ボクはカーテンの隙間から興味深く覗き見ていた。
伊達に長年旅暮らしをしてきたわけではない。旅道具や生地を見る目は、多少の自信があった。
選ばれていたのは、見た目には普段の詰襟とさほど変わらない、しかし触れるとひやりと滑らかな、氷結蚕の糸を織り込んだ生地だった。喉のあたりだけ、格子状に細い切れ込みが編み込まれている。腹に巻く帯の方も、外からは同じ硬さに見えるよう表面を硬めの生地で覆いながら、内側には伸縮性のある魔繊維が仕込まれている。
防寒と防護の見た目はそのままに、喉と横隔膜だけを解放するという、なんとも都合の良い代物だった。
「できました。まず喉元から。……着けてみてください」
「ああ」
新しい詰襟に袖を通す。見た目はほとんど変わらないように見える。喉元に触れる生地の感触は、これまでのものより明らかに軽く、柔らかい。
「……見た目は、そう変わらないみたいだけど」
「見た目を変える必要はありません。喉仏の可動域だけを確保しました。……小さく、声を出してみてください」
「分かった」
小さく声を出してみる。喉の詰まりが、驚くほどなかった。
「……あ~」
「どうです」
「喉が、詰まらない……。それに、こう、声が――」
試しに、少し高い音を出してみる。すんなりと、抵抗もなく音が伸びていった。
「――伸びる。噓みたいに、伸びるじゃないか……!」
「続けて、腹の帯も」
帯を巻き直し、深く息を吸ってみる。今度は帯が押し返してくる感触がまったくない。
「これは……。見た目は、前と同じくらい硬そうに見えるのに」
「表面だけ硬い生地を残し、内側に伸縮する魔繊維を仕込みました。防寒と防護は変わらず、横隔膜だけが自由になります」
深く息を吸い、そのまま声を張ってみる。喉に力を込めずとも、腹の底から響くような声が出た。
「……こんな声、いつからか、出せなくなってたな」
何年か前、まだ駆け出しの頃には、確かにこんな感覚があった気がする。いつの間にか、それを忘れていたんだ。
「元々、あなたの声はそういう声だったんですよ。装備が、それを隠していただけです」
「……口の悪い仕立て屋のくせに、時々、いいことを言うね」
「事実を言っているだけです」
「知ってるよ、それはもう」
○
数日後、同じ酒場「陽気な羊亭」。
興行師は結論を下す刻限を、もう一晩だけ延ばしていた。
昨日の失敗を思えば、もう一度この舞台に立てるということ自体が、ある意味で奇跡だった。「技術自体は悪くなかった」と食い下がってくれた常連客たちの声が、興行師の判断を土壇場で押し止めていたらしい。
「……もう一度だけ、聞かせてもらおうか。前回と同じ曲でいい」
(願ってもない話だな。……今度こそ、逃す理由はない)
「喜んで」
リュートを構え、弦に指を這わせる。新しい装備を纏った身体は、以前よりも驚くほど軽い。
前奏、歌い出し。以前とまったく同じ旋律が、しかし今日はまるで違う響きで店内に広がっていく。
(軽い……。喉が、腹が、何にも縫い止められてない)
そして曲の頂点。あの日、無様に声を裏返らせた、まさにその一節に差し掛かる。
深く息を吸い込む。腹の底から、圧力が真っ直ぐに喉を通り抜けていくのを感じる。
(今なら――)
喉に力を込める必要は、どこにもなかった。
伸びやかな高音が、澄んだ音色のまま、店の隅々まで響き渡る。
「おおおっ!」「リラちゃん、すげえじゃねえか!」
「……見事だ。数日前とは、まるで別人だな」
(別人というよりは……。これが、本来のボクだったんだろうね)
「秋祭りの本舞台、正式に頼めるか」
「もちろん、喜んでお受けするよ」
拍手が鳴り止まぬ中、ボクは静かに、あの口の悪い仕立て屋の顔を思い浮かべていた。
○
数日後、トウヤの店。
報告に訪れたボクは、結局あの晩の”取材”の目的を、一度も聞けなかったことに、今更ながら苦笑いを浮かべていた。まったく、本末転倒とはこのことだ。それでも、あの夜の一件よりずっと大きな収穫を得て帰ることになったのだから、悪い取引ではない。
「トウヤ、聞いてくれよ。あの興行師、二度目の機会をくれてね。……見事に射止めてやったよ。秋祭りの本舞台、正式に決まった」
「それは何よりです」
「なんてつれない反応だ。もう少し驚いてくれてもいいと思うけどね」
「予想通りの結果ですので」
「はは、そう言われると、悪い気はしないな」
懐から取り出した小さな革袋をカウンターに置く。
「これは、当日の報酬の前金から。……本当なら一曲、贈らせてもらいたいところなんだけどね」
「曲は結構です。対価だけいただければ」
「つれないなあ、本当に。……そういえば、結局この間の”事件”の話、一度も聞けなかったな」
「機会があれば、いつか」
(本末転倒だな、まったく。取材に来て、自分が診断されて帰るとはね)
「ああ、それと。同業の踊り子に、ここのことを話しておいてもいいかい? 彼女も、随分と身体に無理のある衣装で踊っているようだから」
「構いません。……ですが、ご本人が来店される前提でお願いします」
「もちろんさ。ボクが代わりに採寸されるわけじゃないんだから」
軽く笑いながら、荷物を整える。
「喉の調子、あれから変化はありませんか? 念のため、再採寸を」
一瞬、言葉に詰まった。
「……そうだな。まあ、そのうち、暇を見つけて寄らせてもらうよ」
(――らしくないな、今の間。まったく)
軽やかに手を振って、ボクは店を後にした。その背中を、トウヤは静かに見送り、何事もなかったかのように作業へと戻っていった。
コメント
1件
ああ、めっちゃよかった……! 最初の失敗シーンで「ああもう!」って一緒に焦ったし、無自覚に喉を締め付けてた原因がまさか詰襟だったっていう気づきもすごく面白かった。トウヤの「あなたの技術の問題ではなく、単純に、服装が仕事の邪魔をしている」って台詞、めちゃ刺さった。着替えてからの本番で見事に決まるところは鳥肌ものだったし、リラちゃんの軽快な語り口も相まって最後までぐいぐい読めたよ。次のエピソードも楽しみにしてます!