時計の針がいつも起きる午前六時を指すと、のろのろと起き上がり小さなバスルームに向かった。
眠っていないので疲れが取れないままだったが、頭から熱いシャワーを浴びると、スッキリとした。
部屋に戻り紅茶を飲みながら五分程休憩してから、簡単に化粧を始める。
こんな状況でも、仕事を休む訳にはいかない。
派遣社員だけれど、三ヶ月前にやっとのことで見つけた大切な仕事だ。
アパートの部屋を出ようとしたとき、昨夜の恐怖が蘇って来て躊躇いを覚えた。
外に出るのが怖いなんて初めてだ。それでもここに居る訳にはいかない。深呼吸をしてから不安を振り切るように勢いよくドアを開けた。
外には青く澄んだ空が広がっていた。
雪が降り薄暗かった昨日とは一転して、光に溢れている。平和そのものの光景で晴れないのは私の心だけのようだ。
足の痛みも引く気配がないけれど、今日は病院に行く時間が取れそうにない。
仕事が終わり次第直樹に会いに行こうと思っている。
二度と会いたくなかったけれど、状況が変わったのだから仕方ない。
私は雪香を探すつもりだ。
直接会って何があったのかを聞き出したい。そうしなければ、落ち着いて生活していく事が出来ないから。
雪香が抱える問題に昨夜の事件が関係しているのかを確認したい。その為には、雪香の婚約者である直樹の協力は必須だ。
駅に着き電車に乗ると、運良く空いている席を見つけた。
これで降りる駅までの三十分間、ゆっくり出来る。
私はバッグからスマホを取り出し、直樹宛のメッセージを作成した。
昨日の態度に対する謝罪と、雪香を捜す為に今夜にでも打合せをしたいこと。
彼は結婚休暇中だから、時間は空いているはず。きっと私の話に乗ってくる。
予想通り、電車を降りる直前に了解と返信が届いた。
しかも、わざわざ私の職場近くまで来るとのこと。彼も雪香を探したくて、私の協力を必要としているようだ。
待ち合わせは十九時。遅くても六時半には仕事を終わらせなくては。
私は商業高校を卒業後、中小企業の経理部で四年間働いた。直樹と出会った会社だ。
働きやすく良い職場だったけれど、営業先に妻が居てはやり辛いからと、執拗に退職を勧める直樹の言葉に従い辞めてしまった。
今となっては本当に後悔している。
私は本当に愚かだった。その頃、直樹は既に雪香と付き合っていたと言うのに。何も気付いていなかったのだ。
私に辞めて欲しかったのは、捨てる予定の女が取引先に居るのは都合が悪いから。
ただそれだけだった。
真実を知ったのは、家庭の事情と理由をつけ退職した後。
私は恋人も仕事も、そして少しは残っていた妹に対する家族の情も何もかも失った。
絶望を味わい私は決心した。
もう誰にも心を許さない。二度と、惨めな思いはしないと。
誰も私の領域に踏み込ませないし、自分の進退は自分で決める。
そう固く心に誓った。
特に大きなトラブルもなく六時過ぎに仕事を終え、直樹と待ち合わせをしている店へと向かう。
「沙雪、こっちだ!」
約束の時間より十分早く着いたのに、直樹はもう席に着いていて、私の姿を見つけるなり合図を送ってきた。
「……随分早いんだね」
半分空になっているグラスに目を遣りながら言うと、直樹は真面目な顔で頷いた。
「ああ、雪香の件を早く話し合いたかったからな」
昨夜は眠れなかったのか、彼の目の回りは黒ずんでいた。
とても疲れているように見えるけれど、特に労りの言葉はかけずに直樹の正面の席に腰掛けた。
「雪香から何か連絡は有った?」
私の問いに、直樹は憂鬱そうな溜め息を吐いた。
「雪香から連絡が有ったとしたら、こんなところにいる訳無いだろ?」
彼の無神経な発言に苛立つよりも、疑問を覚えた。
雪香は、婚約者である直樹に、なぜ連絡しなかったのだろう。
謝罪、別れの言葉、伝えることはあったはずなのに。
「……沙雪?」
黙り考え込む私を、直樹は怪訝そうに見つめてきた。
「なんでもない。それよりも直樹には心当たりはないの?」
「ああ。友達のところには全部連絡したし、親戚関係はお義父さんが連絡しているけど、雪香はどこにも居なかったんだ。それから……」
「ちょっと待って、心当たりって言ったのはそういう意味じゃないの」
暗い表情で話す直樹の言葉を、最後まで聞かずに遮った。
「え?」
「雪香を恨んでいそうな人に、心当たりは無いのかと聞いたの」
「恨んでるって……どういう意味だよ?」
「昨日直樹も言ってたでしょ? 雪香は事件に巻き込まれたのかもしれないって。私もその可能性が有ると思う。雪香の人間関係はどうだったの? トラブルとかなかったの?」
直樹は私の質問の意図をようやく理解したようで、大きく頷いた。
「俺が言った“事件”って言うのは、何かに巻き込まれたんじゃないかってことだ。だってそうだろ? あの雪香が誰かに恨まれてるなんて考えられない」
彼の言葉に、私は失望し大きな溜め息を吐いた。
「雪香は教会の控え室に居たのよ。 教会には大勢の招待客がいたし、中への出入りは制限されていたんだから、知らない人が入ってきて雪香を連れて行ける訳がないでしょう?」
「それはそうだけど……」
直樹は困惑したように、視線を彷徨わせる。
「結婚式当日に居なくなるなんて異常よ。誰かに脅されて逃げていたとか、考えられない?」
「まさか……脅されだなんて、話が飛躍し過ぎている」
「本当に雪香を探す気あるの?」
私はうんざりと吐き捨てた。
「有るに決まってるだろ! なんでそんな言い方をするんだ?」
侮辱されたと感じたのか、直樹は顔を赤くして声を荒げる。
「だって直樹は現実を見てないように見える。雪香はトラブルを抱えていたんじゃないかと考えるのが自然なのに、否定的な発言ばかりするじゃない」
「それは……」
「それは何?」
「雪香は明るくて、優しくて、いつも人の中心にいた。それが俺の知ってる雪香だ。誰かに恨まれているなんて俺の知っている雪香じゃない。事実だとしても知りたく無いんだ」
直樹の言葉を、私は冷めた気持ちで聞いていた。焦っている割に必死に頭を使い考えているように見えかったのは、真実を知って自分が傷つくのを恐れていただけか。
どっと疲れが襲って来て、私は溜息を吐いた。
雪香からの不審な電話、歩道橋での出来事。それらを直樹に話すかどうかを決めかねていたけれど、今、伝えないと決心した。
直樹を信用出来ない。
雪香を見つけ出し、何が有ったのか聞き出す目的が、直樹と一緒では果たせそうにない。
危険があると知ったら、彼は何も解決しないまま雪香をどこかに隠してしまいそうだ。
直樹は雪香さえ無事なら私の安否なんてどうでもいいのだから。
心の中で決断していると、直樹が気をとりなおしたように落ち着いた口調で言った。
「意見の違いはあるが、今はとにかく雪香を捜すのが優先だ。けどもう手がかりはない……沙雪は双子の姉だろう? もっと情報を持っていると思ったのに、どうして何も知らないんだよ」
冷静さを装っても、情けなさは変わらないままのようだ。
「……これ以上話していても進展は無さそうだし、帰るわ」
席を立とうとする私を、直樹が慌てて引き留める。
「沙雪? 待てよ!」
「何?」
「どうしたんだ? 突然帰るだなんて」
戸惑う直樹を、私は細めた目で見返した。
「時間の無駄だから。現実を直視せずに人任せな直樹と話していても、雪香は見つからないもの」
冷たく言い放つと、直樹の顔が強張った。
「……悪かった……でも少しは理解してくれ。結婚式当日に花嫁が消えたんだ、周りには逃げられたと思われている。有り得ない屈辱だよ。現実逃避したくもなるだろ?」
打ちひしがれる直樹を、しばらくの間見下ろしていた私は、小さな溜め息を吐いた後、再び椅子に座った。
同情する気にはなれないけれど、直樹の気持ちはよく分かる。
誰よりも信用していた相手が突然去っていった時の衝撃は、私も半年前に味わったばかりだから。
私がそうだったように、直樹も今、精神状態がおかしいのかもしれない。
「確かに雪香はみんなに愛されていたけど、だからこそ誰かに妬まれていても不思議じゃないと思うの。逆恨みって有るでしょう?」
私の言葉に、直樹はハッとしたような表情になり、大きく頷いた。
「ああ、それなら有り得るな」
良かった。上手く直樹の気持ちを誘導出来たみたいだ。
「直樹は雪香の友達と面識があるでしょ? 連絡とって聞いてみて欲しいの。雪香が何かトラブルに関わってなかったか、様子がおかしくなかったかって」
「雪香の友人とは何度か会ったことが有るから聞いてみる。何か分かったら沙雪にも知らせる」
はっきりとした口調で答える直樹の様子に、私はホッとして肩の力を抜いた。
「良かった、私は雪香の知り合いって言ったら、鷺森蓮しか知らないから」
「え……鷺森蓮って誰だ?」
直樹は不満そうに眉をひそめた。
「……雪香の知り合いだけど、直樹だって名前くらいは聞いていない? 昨日の式にも来てたんだし」
「いや……披露宴には招待していなかったし、雪香からも聞いた覚えが無い」
「本当に?」
どういうこと?
私にはしつこいくらいに蓮の話をしていたのに、直樹には名前すら出さなかったなんて。
披露宴に呼ばないのは、男友達だから直樹に遠慮したのかもしれない。でも式に出席してくれるほど親しい相手の話を全くしていなかったのは不自然だ。
「なあ、鷺森蓮ってどんなやつなんだよ?」
「私も昨日初めて会ったから詳しくは知らないけど友人でしょう? 雪香が居なくなった事を知り心配していたわ」
「……そうか」
納得いかないような表情で、直樹は頷いた。知らない男が友人で、気分が良くないのだろう。
私はそんな彼の様子をぼんやりと眺めながら、蓮について考えていた。
雪香と蓮は、ただの友人ではないのかもしれない。
もっと深い関係……婚約者には決して言えないような。
そう考えると、蓮を疑わしく感じる気持ちが芽生えてきた。
昨日、私を責めるような事を言っていたけれど、蓮こそ何かを知っているのではないかと思った。
また連絡すると約束をして、直樹と別れた。
アパートの最寄り駅に着くと、いつもの帰り道とは別の明るい大通りの方向に足を進める。
遠回りだけど、安全の為だ。
それなのに、十分程歩いたところで、不審な気配に気が付いた。
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