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桃白 監禁
鉄の扉が閉まる音は、不思議なほど静かだった。
軋みも鈍い反響もなく、ただ空気が吸い込まれるみたいに「すっ」と塞がる。まるでこの部屋が、元から音の存在など許さないと言っているようだった。
六畳ほどの空間。
窓はない。壁はコンクリートの灰色で、天井には裸電球がひとつ——黄色い光が弱々しく揺れて、影を長く落とす。
その影の中心に、初兎ちゃんが座っていた。
両手には拘束具。
足首にも同じもの。
だけど、それ以上の暴力は一切加えていない。
俺は、そういう線引きだけは守っていた。……いや、守っているつもりでいただけかもしれない。
初兎ちゃんは顔を上げる。
その瞳だけは、いつものふざけた光を失っていない。
「……ほんまにやってもうたんやな、ないちゃん」
関西弁特有の柔らかさが、こんな状況でも消えないことがむしろ恐ろしい。
「俺だって、こうしたかったわけじゃない」
「ほぉん? ウチにはそうは見えへんけど?」
挑発するみたいな笑み。
だけど目の奥には、俺の思考を読み取るような鋭さがあった。
俺はため息をつき、小さな丸椅子を引きずって彼の前に座る。
「逃げようとしただろ、初兎ちゃん」
「まあな。捕まるつもりなんて、さらさら無かったし」
彼は肩をすくめた。手首の金属がかちゃりと鳴る。
「なんで逃げるんだよ。俺は……ただ、お前を守りたくて」
「はい嘘。ウチのためって言えば許される思ったら大間違いやで?
ないちゃん、ずっと前から、うちのこと離す気なんて無かったやろ」
図星だった。
俺は黙り込むしかなく、初兎ちゃんはそれを見て、ふっと息を笑みに変える。
「見てみぃ、その顔。ウチの言った通りや」
言葉の刃が心臓の奥に刺さる。
だが、反論できない。俺は確かに、初兎ちゃんを追い詰めた。
逃げたくなるほど愛してしまった。
「……お前が悪いんだよ」
「お? なんや、とうとう責任転嫁か?」
「違う。お前が……俺以外のところに行くからだ」
俺の声は震えていたかもしれない。
自分でも分かるほど焦りが滲んでいた。
初兎ちゃんは、しばらく黙って俺の顔を眺め、やがてゆっくりとまばたきした。
「なあ、ないちゃん」
「……なんだよ」
「うちに“愛し方”教えてくれって言ったこと、あったよな」
俺は一瞬息を止めた。
それは、ほんの数週間前の夜の会話。
『俺、誰かをちゃんと愛せてる自信がないんだ。お前はどう……考えてる?』
『うち? ウチはなぁ……好きになったら止まらんタイプや。
相手が嫌がっても、付いてまうくらい。——まあ、あかん愛し方やけどな。』
あのときは笑い話のつもりだった。
だけど今思えば、初兎ちゃんは本気だったのかもしれない。
「ないちゃん。ウチな、気付いてたんやで」
「……何を」
「ないちゃんが、いつかウチを閉じ込めるってこと」
心臓がぎゅっと縮む。
「お前……気付いてたなら、なんで何もしなかったんだよ」
「したで? 逃げようとしたやん。
でも……まあ間に合わんかったわけやけど」
初兎ちゃんは笑う。
けれどその笑いは、完全に諦めた人間の笑みじゃなかった。
むしろ——妙に落ち着いていて、覚悟すら感じられた。
「なぁ、ないちゃん」
「……なんだよ」
「これが、ないちゃんの“愛し方”なんやろ?」
胸が痛む。
いや、痛いなんて言葉じゃ足りない。
心臓を握り潰されているみたいだった。
「俺は……お前を傷つけるつもりなんて——」
「それは嘘や。
ウチを離さんためなら、何でもするやろ?」
自分でも気付かないうちに、黙って頷いてしまった。
初兎ちゃんは静かに息を吐き、少しだけ視線を落とす。
「……ウチもそうやで」
その言葉は、扉の隙間から吹き込む風よりも冷たく、そして優しかった。
「なあ、初兎ちゃん」
「なんや」
「怖くないのか?」
「何がやねん」
「こんなところで……俺と二人きりで」
首にかけられた影が揺れ、初兎ちゃんは目線を俺に合わせる。
「怖かったら、とっくに泣いとるわ」
「じゃあ……平気なのか?」
「うーん……」
初兎ちゃんは少し考え、にやりと笑う。
「ないちゃんが何するか分からんからな。怖ないわけはないで」
言い切りながら、声に怯えの色はない。
それが、逆に俺を焦らせた。
ふと、初兎ちゃんの手首にかかる拘束具が光る。
俺の視線に気付いたのか、彼はわざとそれを揺らした。
「これ、外したらあかんの?」
「逃げるだろ」
「逃げへんかったら?」
「信じられるわけないだろ」
「ひどいなぁ」
口ではそう言いつつ、初兎ちゃんは楽しげに笑った。
「じゃあ、ないちゃん。
ウチが逃げへんと証明する方法、ある?」
「……俺から離れないって言えよ」
「言うだけでええん?」
「違う。言って、本気でそう思えよ」
初兎ちゃんの瞳が細くなる。
「ないちゃんって……ほんま、めんどくさい男やなぁ」
「俺はお前が思ってるよりずっと歪んでる」
「知っとるよ」
一瞬、空気が止まる。
俺は思わず息を呑んだ。
「……知ってて、それでも俺のそばにいたのか」
「うん」
「なんで?」
初兎ちゃんは、笑わなかった。
さっきまでの挑発でも、茶化しでもない。
まっすぐ、真剣な目だった。
「ないちゃん……ウチのこと、ずっと見とったやん」
「……ああ」
「誰が好きとか、どこ行くとか、誰と話してるとか。
ウチが何をするか、ないちゃんは毎日気にしてた」
「気にしてたんじゃない。心配して——」
「束縛やで、それ」
喉が詰まる。
否定できない。
「でもな、ないちゃん」
初兎ちゃんは、ゆっくりと身体を前に倒し、俺との距離を縮めた。
拘束具が邪魔して、あと少しで触れられない絶妙な距離。
「ウチ、嫌やなかったんや」
「……嫌じゃなかった?」
「うん。むしろ……ちょっと嬉しかった」
心臓が跳ねる。
彼は続けた。
「誰よりも深く、誰よりもちゃんと……ウチを見とるの、ないちゃんだけやったし」
「……初兎ちゃん」
「せやから……ないちゃん。
ウチが逃げると思ってるんか?」
俺は息を吸い——そのまま吐くことを忘れた。
初兎ちゃんの声は、まるで触れられているみたいに熱かった。
「ウチはな、逃げへんよ。
だって……こんなんでも、ないちゃんのこと——」
そこで言葉が途切れた。
「……なんだよ」
「いや。言うたらあかん気がして」
「言えよ」
「言わしたかったら、拘束外して?」
「外したら逃げる」
「逃げへんて」
「信じられるわけ——」
「じゃあどうしたら信じるん」
初兎ちゃんの声がわずかに震えた。
怒っているわけじゃない。
泣いているわけでもない。
その震えは——俺に触れたくて仕方ない人間の声だった。
「ないちゃん……ウチ、ほんまに逃げへんよ。
逃げる気なんて、最初っから無かったんや」
「じゃあ……なんで、逃げようとしたんだよ」
「試しただけや」
「試した?」
「うちのこと……そこまで想ってるんやったら、捕まえてみぃって」
俺は言葉を失った。
「まさかほんまにやるとは思わんかったけどな」
初兎ちゃんは笑った。
優しくて、どこか寂しげで、俺を許しているような笑み。
「ないちゃん。
ウチら、どっちも歪んどるんやろな」
その言葉は、まるで告白みたいだった。
「なあ、初兎ちゃん」
「ん?」
「もし……もしもだよ。俺がこの鍵を捨てたら、どうする」
俺は胸ポケットから小さな銀の鍵を取り出した。
拘束具を外す唯一の鍵。
初兎ちゃんの瞳が、かすかに揺れた。
「……捨てるん?」
「お前が逃げるかどうか試したい」
「逆やろ。ウチを試す前に、自分を試した方がええんちゃう?」
「俺を?」
「せや。
ないちゃん……ホンマにウチを離したくないんやったら、鍵を持っとくべきや」
「でも、お前の気持ちが……」
「気持ちなら、とっくに決まっとる」
その一言が、空気を震わせた。
「ウチは……ないちゃんが怖いで。
でも、怖いままでおりたいとも思う」
訳が分からない。
けれど、その感情が俺の胸に強烈に刺さる。
「ウチな、誰かにここまで想われたことないねん。
怖いけど……気持ちええ。
逃げたらもったいない思うてまう」
「初兎ちゃん……」
「せやから、鍵は捨てんでええ。
ないちゃんが持っとき」
「……信じていいのか」
「信じろや」
初兎ちゃんは両手を前に差し出した。
拘束具の重みが、ちいさく鳴る。
「外してもええよ」
「……逃げないって言えるか」
「言うとるやん。逃げへんって」
「でも俺が怖いだろ」
「怖いよ。
でも、それでええねん」
初兎ちゃんは静かに目を閉じる。
「怖いくらいの方が……ウチ、ないちゃんのこと離れられへん」
その言葉を聞いた瞬間、鍵が手の中で熱を持った。
俺はゆっくりと立ち上がり、初兎ちゃんの前にしゃがむ。
「……外すぞ」
「うん」
鍵を差し込む。
金属音が響き、拘束具がひらりと床に落ちた。
自由になった手で、初兎ちゃんは俺の頬に触れた。
その手は、震えていた。
逃げるための震えじゃない。
俺に触れたくて震えていた。
「なぁ、ないちゃん」
「……なんだ」
「ウチ、もう逃げへんよ。
逃げられへんくらい……ないちゃんのこと、好きになってもうたから」
息が止まるほどの告白だった。
初兎ちゃんはそのまま俺の首元を掴み、引き寄せた。
離れない距離。
逃げられない距離。
壊れるほど近い距離。
「これがウチの愛し方や」
「……俺もだよ。
お前を閉じ込めたかった。
でも……閉じ込められてたのは俺の方かもしれない」
二人の呼吸が重なる。
光の弱い部屋で、影だけが強く結びついていく。
拘束具を外しても、初兎ちゃんは逃げなかった。
扉は開いている。
廊下に出れば外に通じる階段すら見えた。
「ほんまに開けっぱなしにしてええん?」
「それで逃げたら……俺は多分、もうお前を追えない」
「追われへん方がええやん?」
「違う。追えないくらい……心が折れる」
初兎ちゃんはぽかんとした顔で俺を見る。
「ないちゃんって……そういうとこ、可愛らしいよな」
「可愛くねぇよ」
「可愛いって。
ウチのために必死な顔、嫌いやないで」
俺は目を逸らした。
心臓がうるさい。
初兎ちゃんはそれが分かっているみたいに笑った。
「なぁ、ないちゃん」
「なんだ」
「外に出られるって分かってるのに、ウチが出ていかへん理由……知りたい?」
喉がひりつくほど緊張で乾いた。
「……教えてくれよ」
「ないちゃんがおるからや」
「……本当に?」
「本気や。
ウチな、ずっと思ってたんよ。
こんな歪んだ愛し方、誰にも理解されへんて」
「俺は……理解してる」
「せやろ?
ないちゃんも同じやからな」
初兎ちゃんは、扉の前に立つ。
外の空気がわずかに流れ込む。
「ここから逃げようと思えば、すぐ逃げられる。
せやけどな……」
ゆっくりと振り返り、俺に微笑む。
「ないちゃんがウチを求めてくれたこと……逃げたら、その全部が無かったことになってまうやん」
胸が熱くなる。
涙が滲みそうになるのを必死で堪える。
初兎ちゃんは扉を閉め、鍵すらかけずに戻ってきた。
「ウチの居場所、ここでええで」
その言葉は、どんな“監禁”よりも強い拘束だった。
「なあ、ないちゃん」
「……ああ」
「怖かった?」
「当たり前だろ。
扉を開けた瞬間……お前、いなくなると思った」
「ウチも怖かったで」
「何が」
「ないちゃんが、ウチを手放すんちゃうかって」
「手放すわけないだろ」
「せやろ?
ウチもやで」
初兎ちゃんは俺の手を握る。
震えているのは、どちらの手か分からなかった。
「なあ……これがウチらの愛し方なんやと思う」
「こんなの、普通じゃないぞ」
「普通やなくてええやん。
ウチらが選んだんやし」
「……お前が逃げないなら。
俺は、どこにも行かせない」
「行かへん言うてるやろ。
ほら、ないちゃん」
初兎ちゃんは俺の胸元に額を押し当てる。
「ウチのこと……離さんでええよ。
ずっとここおるから」
心臓が痛いほど脈打つ。
初兎ちゃんが笑う。
「ないちゃん。
ウチ、怖がりで寂しがりやからな。
逃げるなんてできへんよ。
……こんなに深く愛されたら」
その言葉が、俺を完全に縛りつけた。
いや——縛られたのは俺だけじゃない。
二人とも、もうお互いから逃げられない。
逃げる気もない。
初兎ちゃんは顔を上げ、俺をまっすぐ見つめる。
「これが、ないちゃんの愛し方なんやろ?」
「……ああ」
「ならウチも、それでええ」
影の落ちる部屋の中で、二人の呼吸だけが混ざっていく。
閉ざされた扉の向こうよりも、この小さな空間の方がずっと温かかった。
逃げようと思う必要なんて、最初から——なかった。