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あるいは、運命だったのかもしれない。
——運命。そんな言葉に、どれほどの重みと意味が宿るのだろう。
私が最初に息を吸い、目を開けた瞬間から、
もうすでに誰かの見えない手のひらの上で転がされていたのだとしたら
——私の人生は、そもそも私のものではなかったのかもしれない。
生まれる前から決められていた筋書きの中で、私はただの駒にすぎなかったのかもしれない。生きることも、拒まれることも、孤独に沈むことも、すべてが一本の糸で繋がれた人形のように運ばれていったのだとしたら。
私の足元に広がる現実でさえ、透明な糸に操られ、見えない誰かの意志によって震わされるだけの世界だったのかもしれない。
運命——その言葉は、いったい誰のためにあるのだろう。
私の人生であるはずなのに、私がそれを自分のものだと感じられたことは、一度だってなかった。
私の心は世界に触れることがなく、まるで硝子でできた檻の中で息をしているようだった。
声を上げても、反響すら返ってこない。
私がそこに存在しても、世界には存在していなかった。誰の目にも映らず、誰の耳にも届かない、透明な生き物のように、ただ時の中を漂っていた。
私はずっと、いじめられて生きてきた。
世界は私を拒絶し、居場所を探しても、どこにも見つからなかった。
誰も私の名前を呼ばない。私も、誰かの名前を呼ぶことはなかった。
笑い声は遠ざかり、私を取り巻くのは沈黙と冷たい視線だけだった。
昼休みの教室に取り残されるたび、時計の針だけが進み、私の心は少しずつ空白になっていった。お手洗いの鏡に映る自分の顔は、知らない他人のもののようで、そこに「私」という実感は何ひとつなかった。
廊下の隅で靴音を潜め、誰にもぶつからないように歩く 。
流れる日々は透明で、何もかもが静かで、ただ冷たい。
桜が咲く春の日も、蝉が鳴く夏の日も、紅葉が舞う秋の日も、雪の降る冬の日も、季節は巡るのに私の心はいつも空白のままだった。
教室の窓際で見た花曇りの空、じめじめした梅雨の湿気、夏の夕立とアスファルトの匂い、冬の乾いた風にかじかむ指先。
そのすべてが、私にとっては触れることのできない遠い景色のようだった。
だからこそ、あの人の存在だけは、確かに特別で、唯一の光だった。
あの笑顔を見た瞬間、胸の奥の空白にわずかだけれど色が差した。
世界の色が、ほんの少しだけ鮮やかになった気がした。それは一瞬のことだったけれど、私は確かに生きていると実感できた。
校庭の隅で風に揺れる草の匂いも、夕焼けが赤く染める雲も、カラスの鳴き声すらも、その瞬間だけは私の世界だった。
けれど今はもう思い出せない。
顔も、声も、名前ですら、私の中の記憶は霧の彼方に消えてしまった。
胸の奥にぽっかりと空いた穴だけが残り、そこに誰かがいた気配だけがかすかに漂う。
どれほど大切だったのかさえ、今では曖昧で、その曖昧さがさらに私を深い孤独へと沈める。
——もしも、の世界を少しだけ想像するなら。
もしも、あの人と肩を並べて笑い合えたなら。もしも、中庭で昼食を一緒に食べながら、くだらない話で笑えたなら。
もしも、放課後に寄り道をして、夕暮れの風に吹かれながら幸せを分け合えたなら。
きっと私の心臓は少し軽くなり、夜に泣くこともなく、明日を待ち遠しいと思えたのかもしれない。
もしもの世界の私は、空を見上げて笑っている。春の光に髪を揺らしながら、誰かと目を合わせ、「生きていてよかった」と心から思えている。その瞳には青空が映り、頬には陽だまりが落ちている。
けれど、それは夢の中だけの私だ。
ifの中だけで、現実には存在しない私だ。
夜、私はマンションのベランダに立っていた。冷たい風が頬を刺し、街灯が揺らいでいる。遠くで電車の音が響く。
下を見下ろすと、車のライトが小さな波紋のように動き、世界は私からどんどん遠ざかっていくようだった。
人々は生きて、笑って、幸せそうで、誰も私の存在に気づかない。私には何もなかった。
ただ、ここにいるだけだった。
けれど、もうここにいることに耐えられなかった。
ゆっくりと、柵を越える。足元に広がる空白が指先に触れる。冷たさが骨の奥まで染み込み、心臓の鼓動が遠くなる。重力に引かれて体は落ち始め、風が耳を裂き、肌を叩く。
それでも心だけはふわりと浮かんでいるようで、私を縛り付けていた糸が一本、また一本と消えていく気がした。
そのとき、断片的な記憶が流れていく。
ざわめく教室、押し殺した泣き声、遠くの笑い声、誰かの手の温もり。 触れたのか、触れられたのかもわからない。
夕焼けに染まる帰り道、ひとりで見上げた星空、忘れかけた誕生日のろうそくの灯。
それらはすべて、私の人生であるはずなのに、他人の夢の欠片を見ているように儚く、尊かった。
やがて、着地の衝撃。
……世界は静まり返り、音がすべて消える。
あの人の存在も、あらゆる思い出も、すべて消えてしまった。
最初から、ここには何もなかった。
残されたのは、ただの空白だけ。
私という存在さえ、初めからなかったのかもしれない。
それでも世界は回り続ける。
朝の光が街を照らし、通勤する人々が歩き出し、子どもたちの笑い声が空に溶けていく。
私のいない世界は、何ひとつ変わることなく、美しく、残酷で、無関心なまま息をしていた。花は咲き、風は吹き、雨は降る。
誰かの幸せが芽吹き、誰かの涙がこぼれる。
けれど、その全てはもう私の届かない遠い景色だった。
この世界とサヨナラをした。
それだけのことだった。
涙も叫びも、誰かの祈りさえ、ここにはなかった。
運命は、私にハッピーエンドをくれなかった。
運命は、私に一度も微笑まなかった。
もしもの世界——if——さえ、存在しなかった。
ifさえ、生まれることはなかった。
空白と孤独、運命=苦しみ。
それだけが、いつまでも私の心の側にあった。
そして、世界は何も知らないまま、静かに、淡々と、次の季節へと進んでいった。
……季節は何度も巡る。
春の花は散り、夏の雲は流れ、秋の葉は風に舞い、冬の雪は静かに積もる。
そのすべての美しさも、私のいない世界ではただの風景でしかない。
誰かが恋をして、誰かが夢を見て、誰かが失望し、誰かが涙を流す。
それでも、その物語のどこにも私の名前は刻まれない。
私は、ついに完全に、世界から消えたのだ…。
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