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いつものように壊れかけのフェンスに腰を下ろして煙草を吸っていたリオンは、無造作に折り畳んでジーンズの尻ポケットに突っ込んであった書類を取り出すと、書類越しに青空を見上げて煙を吐き出す。
いつの頃からかではないが、密かに抱いていた刑事になる夢。
その夢の入口に立つことを許された書類をぼんやりと見上げると、今までの己の悪事が脳裏に浮かんでくる。
今まで喧嘩に明け暮れ、学校では放校すれすれの生活を送っていたが、そんな自分であっても刑事への一歩を踏み出す許可を得ることが出来たことが嬉しくて、じわりと浮かんでくる笑みを唇に載せ、煙草を背後のコンクリに投げ捨てる。
『ちょっと、いつも誰が掃除をしてると思ってるの?煙草のポイ捨ては止めなさい』
『あぁ?うるせぇな、ゾフィー』
いつもここで一人になりたいと思っているときに何故かやって来るゾフィーに舌打ちをしたリオンだが、今の自分は気分が良くて寛大なんだと言い放ち、捨てた煙草を拾って靴の裏で揉み消すとパッケージの中に突っ込む。
『何が寛大なのよ』
あんたが寛大ならば世の中すべての人が寛大になると笑う彼女の肩に腕を回して軽く腕を叩いたリオンは、くしゃくしゃになっている書類を彼女の鼻先に突き付けてにやりと笑みを浮かべる。
『見ろよ、ゾフィー』
『……合格通知?』
『そ。───刑事になる、その夢を叶えるために警官になる』
今まで話すことはなかったが、己の進む先を書類一枚と満面の笑みで伝えたリオンは、己が想像するように喜んでくれないゾフィーに気付いて眉を寄せ、嬉しくないのかとその横顔を覗き込む。
『……嬉しいわよ、そりゃあ。でも…本当に警官になるの?』
『俺みたいなヤツがなれるかって学校でも言われてたけどな。なれるって証明されたな』
同級生やはたまた教師達からも疑いどころか誰も信じていない目で見られていたリオンの進路だが、大半の予想を裏切って見事に合格し、書類に記されている通りに手続きを済ませたために夢に一歩を踏み出せることになった。
仲がよいクラスメイトとは賭をしていたために勝利の1マルク硬貨をがっぽりと稼いだのだが、その心地良さも吹き飛びそうで次第に口が尖り始める。
『なんだよ、俺が警官になっちゃダメだってのか、ゾフィー?』
『違うわよ。あんたが警官になるって本当に嬉しいわ、リオン。よく頑張ったわね』
その時風が吹いてゾフィーの長い髪を揺らしていくが、片手で髪を押さえて笑うゾフィーの目尻がきらりと光ったことに気付き、何を泣いてるんだとリオンが目を丸くする。
『な、泣いてないわよ!』
『へぇ…じゃあ泣いて無くても良いけどさ。あ、そうだ。一人暮らしする部屋を探さなきゃならねぇから手伝ってくれよ』
『え?』
リオンが頭の後ろで手を組んで暢気に呟いた言葉が彼女には青天の霹靂だったようで、雷に打たれたように身体を強張らせたゾフィーにリオンが首を傾げて彼女の名前を呼ぶ。
『おい?』
『ここを…出て行くの?』
『卒業したらみんな出て行ってるじゃねぇか』
デザインを必死に勉強した少し先輩であるベラとリッシーも学校を卒業すると同時にホームを出て自活しているだろうと、ごく当たり前のことを呟くリオンにゾフィーが小さく頷くものの、リオンが出て行く日を想像するだけで眩暈がしてしまう。
『それはそうだけど…でも、無理に出て行かなくても良いんじゃない?ここから通えば良いじゃない』
『そりゃあ俺もそうしたいけどさ…いつまでもここにいたらマザーやお前に甘えきって何をするか分かんねぇし、ずるずるするのもイヤだしな』
『あんたはもうそんな子どもじゃないわ』
『ああ。だからここを出て一人暮らしをする』
自立をして収入を得て初めて自分は一人前の男になれる気がするからここにいられないと、この居心地の良い家を出た未来を見つめる顔で呟くリオンに何も言えなかったゾフィーは、マザーの知り合いに頼んで格安の物件を探して貰うと笑うリオンの顔を直視することは出来なかった。
いつまでも一緒にこの家で笑って時には喧嘩をし、でも翌日には仲直りをしてまた笑っていられると思っていた彼女が思い描いていた未来が来なくなる現実を突き付けられてしまったゾフィーの目はリオンの将来を祝う色ではなかった。
そんな彼女の様子に気付きつつも何故そんな顔色になるのかと問えなかったリオンは、ともかくマザーとゾフィー、そして幼馴染みのゼップには祝って欲しいことを告げて彼女の肩にもう一度腕を回して同意を求めると、ややうつろな顔に小さな笑みを浮かべてゾフィーも頷き、マザーに報告しようとリオンの腕を一つ叩くのだった。
初夏特有の突き抜けた青空は昨夜から姿を消し、代わって姿を見せたのは一年分の雨を降らせるつもりかと分厚い雲を睨みたくなるような雨空で、午後を過ぎて夕方近くになると遠くの空でゴロゴロと雷の音が響きだしていた。
その雨は小さな村の人が訪れる事も少なくなった教会にも降り注ぎ、その影響を受けて教会内部の礼拝堂には夏どころか季節を先取りしたのかそれとも遅れているのか、まるで真冬のような重苦しく冷たい空気が満ちていた。
その空気の中心には乱れた長い髪で顔を覆うように俯いて長椅子に身体を小さくして座っている女性がいたが、時折響く雷鳴にも彼女の顔が上げられることもなければ、彼女を取り巻く空気が季節に相応しいものになる事もなかった。
俯いている彼女の衣装は彼女の身分を一目で伝えることが可能なものだったが、その肩が小刻みに上下した後、絶望の淵を彷徨っている人間のみが発することの出来る笑い声が小さく響き、彼女の正面で静かに様子を見守っているマリア像の足下に流れていく。
彼女がここに来たのは前夜遅くだったのだが、その時から一睡も出来ずに考えている事があり、今もまた分かっている答えを出す勇気がない彼女だったが、どうしても一歩を踏み出せない情けない己を笑い、脳裏に浮かぶ顔に絶望の中で謝罪をしていた。
彼女自身を思って優しい言葉を掛けてくれる人や、誰よりも信じる-と言うよりは疑うことをしない人への慚愧の念に、今まで何をしてきたのかを知れば彼女にどんな迷惑が降りかかるか分からないがそれでも良いのか、お前の愛する男がどんな顔をするだろうか、それどころか大好きな仕事を辞めなければならないかもしれないと冷たく笑う男の声が重なる。
己の罪を悔い改めたいが、それをすれば間違いなく彼女の愛する人々が辛い思いをしてしまうのだ。
ならばその愛する人たちを守るためには己が口を閉ざすしか手段は無いのに、先日の事件に己が関連している疑いを晴らせなくなっている今、口を閉ざすだけではどうにもならない状況に追いやられてしまっていた。
口を開いても閉ざしても最早逃げ道はないのだ、だから今更悔い改めたとしても誰もお前を許してくれないだろうからこのまま何処かに逃げてしまえと、先程脳内で冷たく笑った男が彼女に残された唯一の道を示すように囁き、その声に従って逃げようと腰を浮かせるが、その声の向こうに愛する男の笑顔が不意に浮かび、浮かんだ腰が力無くベンチに落ちてあまり立派ではない布で出来た服をぎゅっと握りしめて皺を寄せる。
いつも身につけているものはこの服と似たり寄ったりのもので、同年代の女性が当たり前のように着るお洒落な服やアクセサリー、化粧なども彼女にとっては近くて遠い世界のものだった。
彼女が望んだのは、何も中世の王侯貴族や現代の金持ちのような煌びやかな暮らしではなく、愛する人とともに笑ったり時には泣いたりできるささやかな場所を手に入れることだった。
あの時彼に告げたように彼女が欲しかったのは、日々の暮らしを送る場所、つまり家という言葉や形で表されるもので、そこで一緒に笑ったり泣いたりしながらもお互いを支え合い、愛する人との間に生まれてくる子ども達に囲まれた穏やかな時間-ごくふつうの幸せを具現化したような暮らしだった。
その為には冬になれば隙間風が吹き付けて少しも温かくならない、明日明後日は持ちこたえても、来月は大丈夫だろうかと不安を抱くような日々を送らざるを得ないあの場所から出て一人で生きていくためのお金が必要だった。
だからこの教会の司祭とフランクフルトで知己を得て不定期に通うようになった頃に不慮の事故で命を落とした後、司祭が残した事業の後を彼女が引き継いだのだ。
通い始めてしばらく経った頃に司祭が何をしているのかを知ったときは頭を強かに殴られたような衝撃を受けたが、この教会を維持するために金が欲しかったと暗い目で笑った司祭を非難することが彼女には出来なかった。
だから司祭が存命中にその事業の詳細を聞き出し、その中でその事業の協力者として紹介された男のもう一つの顔を知った時には文字通り吐き気が込み上げてくるほどの嫌悪感を抱いたが、自分も同じ穴の狢だと指摘され反論できずにただ胸の中で昇華しきれない不快な思いを抱えるようになっていた。
司祭は確かに立派な意志を持ち、この教会に通う人たちの心のよりどころになっていたが、自らを振り返れば己の夢を叶えるために他者の人生を踏み付けてその心を踏みにじってきたと今更気付き、頭を振って乱れる髪を両手で押さえつけて小さく身体を丸める。
自由に出来る金を手に入れて独り立ちをし、そうしていつか叶うかも知れない愛する男との暮らしを夢に見、罪を犯しているという現実から目を背けていたが、己の夢が愛する人たちを苦しめる現実にも彼女は目を逸らしていたことに気付き、か細く震える声が呟く許しての言葉がスカートの上に落ちる。
お前がやってきたことを知ればあいつはどんな顔をするだろうなぁ、と、許して欲しい彼女の心の中で三度冷たい男の声が響き渡り、彼女の身体がびくんと硬直し、色を無くした唇をきつく噛み締める。
幼い頃から酷く手のかかる子どもだったが、何故か彼女と母代わりでもある女性の言葉だけは聞き入れてくれた彼は、成長するにつれ女性の力では到底太刀打ち出来ない程の腕力を得て、思い通りにならなければすぐに力にものを言わせるような乱暴な面もあったが、それでもその力を彼女たちに向けることだけは無かった。
そんな彼をすぐ傍で見守り時には叱ったりと、今振り返れば幸せだった日々を送っていたが、ある日突然今の職業に就きたいと相談され、その後はそれに向けて今までの暮らしから足を洗って真面目に勉強をし、そして見事にその夢を叶えたのだ。
その夢が叶ったことを伝える書類を片手に満面の笑みを浮かべて胸を張った愛する男の顔が脳裏に浮かび、その夢をよりによって己が打ち砕くことになると気付くと、今すぐこの世界からいなくなってしまいたくなる。
あんなにも喜んでいた彼の顔に泥を塗るどころか、夢の世界を追い払われてしまいかねないことを己はしてしまったのだ。
今更どうしようもない後悔の念が次から次へと溢れ出し、止める術を知らない彼女の胸をギリギリと締め付けるが、その締め付ける痛みの隙間を縫って降って湧いたような声が彼女の肩をそっと叩く。
自分はただ自由に出来る金が欲しかった、自由を幸せを得られる場所としての家が欲しかっただけ。それの何がいけないの。
その囁きが彼女の心にするりと滑り込み、鼓動と共に次第に大きさを増していくと俯いていた顔がゆっくりと上がり始める。
ようやく顔を上げて乱れた髪を撫で付けた彼女が大きな溜息を一つ零して天井を振り仰いで視線を真っ直ぐに戻した時、ただ静かにこちらを見守るマリア像が視界に入る。
今まで嫌というほど見てきたマリア像だが、じっと見つめているとこんな顔をしていたのかと初めて見るような顔に見えて苦笑した時、苦労の皺が深く刻まれている柔和な、だが毅然とした優しい顔立ちがマリア像に重なり、彼女の脳裏で優しく温かな声が彼女の名前をそれはそれは大切なもののように呼ぶ。
「───‼」
脳裏の声が消えた瞬間、己の何が悪いのかと自己弁護をする声が掻き消え、彼女は目の前にある長椅子の背もたれを握りしめて歯を噛み締める。
誰をも疑う事をせず、その人の良いところを見つけては誉めて数多の孤児を可能な限り望む道へと導く女性の顔がマリア像と同一のものとなり、彼女の顔を伏せさせてしまう。
あの優しい人をも己は裏切り傷付けてしまう罪悪感が全身へとのし掛かり、長椅子と長椅子の間で蹲って許しを乞いたくなってしまうが、罪を認めれば愛する男を苦しめることになり、認めなければ彼女を実の娘以上に思ってくれる女性を裏切り続けることになるのだ。
どちらに転んでも誰かを苦しめ傷付けてしまう事に拳を握って歯を噛み締めた彼女は、遠くで鳴る雷にも気付かず、ただただ己の裡なる声と思いにがんじがらめになってしまっていた。
だから後方の扉が静かに開いて人が入って来たことにも気付かなかったが、すぐ傍で人の気配を感じ取った瞬間、勢いよく立ち上がって気配から距離を取り、誰であるかを認識したと同時に己が今悔やみ悩んでいる事象の元凶であるかのように男を睨み付ける。
「意外だな」
「……何がよ」
高級そうなスラックスのポケットに手を入れ、紫煙を燻らせる口から流れる声はいつものように冷たいものだったが、そこに多少の驚きが混じっていることに気付き、この男にだけは無様な姿は見せたくない思いから顔を上げて男を睨み付けると、自分がしてきたことに打ちのめされる悲劇のヒロインを演じるには観客が必要だろうと呟かれて眉を寄せる。
「何を言ってるの?」
それに私は悲劇のヒロインなどではないと冷たく言い放つがその冷たさを上回る声で男が小さく笑い、お前の愛する男が苦悩する顔を拝んできたがいい顔だったと笑われて頭に血が上ってしまう。
「あんたが…!」
「俺がどうした?」
「あんたの部下がダーシャを殺さなければこんなことにならなかったのよ!!」
すべての発端は彼女たちが日々を送る街から遠く離れた大きな街で起きた少女の死と、それを知って駆けつけた姉の死だと叫んだ彼女は、彼女の声に眉一つ動かさない男を睨み付け、少女とその姉を殺したのが悪いと断罪の声を挙げて指を突き付けるが、そもそも殺されるような場所に連れてきたのは誰だと返されて息を飲む。
「お前がフランクフルトで死んだガキを連れてきてあいつの店に送り込んだんだろうが」
上手く行っているときはたんまりと金をせしめている癖に、問題が起きた途端人のせいにするんじゃねぇと、この時初めて男の本性を見たような彼女の顔が引きつるが、拳を握ってその場に踏みとどまる。
「確かにあいつらがやらかしたヘマは大きい。だがな、お前があのガキに簡単に金を稼げる方法があるって教えてここまで連れてきたんだろうが」
「……そうよ」
「アル中の親父から助けてあげる、後で優しい姉も呼び寄せてあげるからってお前が言ったって言ってたらしいぜ、あのガキ」
「ガキなんて言い方しないでよ。あの子にはヴェラという名前があるわ」
「名前?身体を売らなきゃ生きて行けないようなガキに名前なんか必要ねぇよ」
「!!」
エリカ・ムスターマン、つまりは役所や警察が便宜上名付ける名前で十分だと笑う男に彼女は、まるで自分たちもそうだと言われている錯覚に陥り、目眩を覚えてしまう。
裕福な家庭に生まれる子どももいれば、自分たちのように様々な理由から孤児になって心優しい人たちに引き取られる子どももいれば、そんな人たちに巡り会うことなく荒んだ暮らしを送って命を落とす子ども達もいるが、社会の最底辺で暮らす人たちをずっと見つめてきた彼女にしてみれば、そんな自分たちは生きている価値がいないと言われた事実に怒りを覚えて身体を震わせる。
「何だ、事実を言われて腹が立ったか?」
「あんたには分からないわ!」
誰も社会の最底辺で暮らしたくて暮らしている訳じゃない、抜け出そうと必死に藻掻いていると叫んで男を睨み付け、自分が良い暮らしを、良いスーツを着て高級車に乗り優雅な暮らしをしたい為だけに少女達を売り飛ばしているあんたと一緒にするなと叫ぶと、男が煙草を投げ捨てて彼女を真正面から見据える。
「お前も一緒だろうが。金が欲しかったんじゃねぇのか?あのボロボロの家を出て自由になりたかったからこの仕事をしてたんじゃねぇのか?」
「そうよ!でもあんたと一緒にされたくないわ」
男の言葉が事実だと認めた上で一緒にするなと言い放つ彼女の耳に男の笑い声が流れ込み、何がおかしいと睨み付けると、涙すら浮かべた男が手の甲で涙を拭いた後、手を一つ叩いて堂内に音を響かせる。
「事故で死んだあの司祭も同じことを言っていたがな、お前ら教会の人間が考えることは同じなのか?」
「な…っ!!」
「自分はこの教会を守る義務がある、その為には資金が必要になる。だから教徒ではない少女を連れてきてここで洗礼を受けさせる事で教会は救われると言ってたがな、洗礼を受けさせた後にそいつらが何をさせられていたのか知らない訳じゃないだろう?司祭は見て見ぬふりをして金を受け取っていたぞ」
夜も遅くにここに連れてこられた他国の少女-中には二次性徴が現れたばかりの子どももいた-を洗礼させ、それを信徒数として記録を残した後、男に連絡を取って少女達を送り出していた司祭は、数日後に己の口座に振り込まれる金額の意味を理解していた筈だが、それについては一切何も言わずにただ定期的に少女達を運んできていたと笑われ、それが今はシスターになっているだけだと吐き捨てられて拳を握る。
「教会のためだとか自分の夢を叶える為だとか…ものは言いようだな」
お前達の理論で言えば俺は俺の夢を叶える為に金が必要になる、だから貧しくて体を売るしか能のない女を連れてきて売り飛ばすだけだ、それの何が悪いと言い放たれて絶句してしまう。
「お前がしてきたことはそう言うことなんだよ」
男の手が伸びると同時に彼女の長い髪を掴んで引き寄せた為、痛みとその強さに逆らえずに一歩踏み出してしまうが、顔を寄せてくる男を噛み殺す勢いで睨み付ける。
「人の人生を踏み潰し踏みにじってきたお前が、自分だけは違うと逃れようとするんじゃねぇよ!」
「…止めてっ‼」
男が手に力を込めて彼女の髪を強く引っ張り、正面のマリア像へと続く通路に引きずり出していく。
痛いから手を離せと叫んで抵抗するものの男女の力の差は歴然で、男が手を払ったために通路に倒れ込んだ彼女は男から逃れようと尻と手を使って後退るが、手を二、三度動かした途端、何かにぶつかって動きを止められてしまう。
「!?」
己の背中に触れるものが何かを確かめるために顔を振り上げた彼女は見下ろしてくるのが少女の姉を殺した男であることに気付いて息を飲み、その足の横を通り抜けて逃れようとするが、今度は背後から再度髪を掴まれて引きずり倒されてしまう。
「アゥ…ッ!!」
「優しい優しいシスター、どうか悩める私の話を聞いて下さいませんか?」
彼女と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ男は、睨み付けてくる彼女の頬を空いた手で軽く叩き、背けられる顎を掴んで正対させる。
「私は罪深い人間です。母親以上に尽くして育ててくれた女性や、刑事として働く男を苦しめることになっても、他人を踏みにじって得るお金が欲しいのです。その男といつか一緒に暮らせるかも知れない、そんな甘い夢を見るために金が欲しいのです。───こんな私は救われるのでしょうか?」
「救われる筈がないわ!!あんたなんか地獄に堕ちればいいのよ!!」
彼女が思い描いていたささやかな夢、決して叶うことのない、でももしかすると叶ったかも知れない夢を嘲笑された絶望から彼女が男に地獄に堕ちろと叫ぶと同時に唾を吐きかける。
「──大人しくしてりゃあ痛い目に遭わなくても済んだのにな」
「‼」
彼女が吐きかけた唾を手の甲で拭ったその手で彼女の頬を力任せに殴り、その勢いで彼女の身体がベンチにぶつかって悲鳴が上がるが、彼女が身体を起こすよりも先に手入れされている靴先が彼女の柔らかな腹部にめり込む。
「グゥ…っ!!」
「ああ、もう一つ。シスター、私は神に仕える身でありながら男とセックスをする夢をずっと見ていました。その男は自分がずっと世話をしてきた手がかかるがかわいくて仕方のない男だったのです。こんな私は救われるのでしょうか?」
彼女の腹を踏み付けつつつまらない男の悩みを聞いて下さいと神に祈るような真摯な声で呟いた男は、足下から聞こえる悲鳴に舌打ちをし、少し前に殴られた痕跡が漸く薄くなった顔をにやつかせて手で撫でる男に顎で指示をして彼女の腹から足を下ろすと、煙草に火を付けながら正面に見えるマリア像にふざけたような祈りを捧げる。
「ですが、その男は私ではなく社会的地位も高くて金を持っている男と付き合っているんです。どうして私ではなく彼はあの男と付き合っているのでしょうか。──どうして私ではないのでしょうか、マリア様」
「やめて…っ!!」
彼女の悲鳴は男が大きな手で口を覆った為に最後まで発せられることはなく、背の高い男に引きずり起こされて口を封じられ、身を捩って逃れようとする彼女の顔を三度殴った男は、彼女のスカートのポケットに手を入れてロザリオを引っ張り出すと、人差し指に引っかけてくるくると回しては手の中に握りこむが、まるでおもちゃに飽きた子どものような顔で彼女の目の前でメダイを引きちぎる。
男と彼女の間にバラバラと散らばりながら落ちる鎖や十字架を冷たい目で見下ろした男は、手にしたメダイを指で弾いて掌で受け止めると、彼女のスカートのポケットに戻し、彼女の背後の男に連れて行けと命じる。
「お前に余計なことを話されると困るからな」
このまま姿を消して貰おうかと笑う男だったが、一瞬何ごとかを考え込むような顔になるものの、己の思いつきが最高のものだと言うように手を一つ打ち、もう一人の男にも命じて暴れる彼女をマリア像の足下にまで連れて行かせると、小さな祭壇に飾ってある布を無造作に取り払ってマリア像を見上げ、この場でもっとも相応しくない邪悪な笑みを浮かべて彼女を見下ろす。
「な、にを…!!」
するの、やめてとおそらく言いたかったのだろうが、男の手が離れて口をいっぱいに開け放って悲鳴を上げようとする寸前、男が祭壇から取った布を彼女の口に突っ込んだため、悲鳴は布に吸い込まれてくぐもったものになる。
「……お前ら、ずっと閉じこもってたから溜まってるだろ?」
男の言葉に意味を察した彼女の目がみるみる見開かれ、己の身体を拘束する腕から逃れようと藻掻くが、その言葉にこれからのことを察した男が彼女を突き飛ばして床に倒れ込ませると、逃げ出そうとする彼女の細い足を掴んで力任せに引き寄せる。
「─────!!」
布で口を封じられて悲鳴を上げることも出来ない彼女は、今まで己を拘束していた男の膝が背中を押さえつけたために動けなくなるが、スカートを捲り上げられて素肌が露わになったことに気付くと、すべての力を出して男の膝の下で身を捩る。
だが、例え彼女がどれ程力を出したとしても自分よりも体格の勝る男に勝てるはずもなく、肩を掴んで態勢を入れ替えさせられると同時に顔を殴られてしまい、口から出ている布の端にじわりと血がにじみ出す。
先程男が面白おかしく彼女の秘めた思いを披露したが、彼女は今まで男を受け入れたことはなかった。
男性とも女性ともセックスの経験がない彼女がこの後己の身に訪れるものを察すると逃げ出さなければとの思いとこの場に蹲って神様助けて下さいと一心に祈りたくなってしまうが、その呟きが脳裏を占めたとき、男に言われたように愛してやまない笑顔が浮かび、いつも顔を合わせれば口げんかをしていたがそれでも本当の姉弟のように仲が良かった彼が笑顔で呼びかけてくる。
「─────っ!!」
彼女の見開かれた目に映るのは、今まで見たことがないような獣じみた顔の二人の男と、そんな二人と彼女を嘲笑うように見つめてくる男の整った顔だったが、その横顔を雷光が浮かび上がらせ、ああ、きっと今まで散々教え込まれてきた悪魔はこんな顔をしているのだと気付き、悪魔とその手下によって身体を蹂躙されるのだと思うとただ悔しくて涙が溢れてしまう。
男の一人が彼女の腕を頭上で押さえつけて動けないようにするともう一人が彼女の両足を掴んで大きく広げさせようとした為、最後だと言うように足を振り上げ振り下ろす。
彼女の靴が男の顎にヒットして仰け反ったものの、女の力ではそれ以上は何も出来ず、再び男の拳が顔に振り下ろされて激痛が生まれ、少ししてから鼻から小さな赤いヘビのような血が流れて布に染み込んでいく。
「可哀想になぁ。怖いか?」
「………!!」
口がきければ怖くなど無い、ただ悔しいだけだと叫びたかったが、身を屈めた男の背後でフラッシュのような光が瞬き、直後に教会が揺れるような音が轟く。
「……おい、布を取れ」
この雷と雨の音ならば外に聞こえることはないだろうと笑って命じた男は、布が口から抜かれたと同時に数本の歯が一緒にこぼれ落ちたことに気付いて彼女の頬に靴の先を押しつける。
「アゥ…っ!!」
「お前が運んできた女達と同じ目に遭う気分はどうだ?」
「………あんたなんか地獄に堕ちろ、この悪魔!!」
「まだそんな口が利けるのか───お前ら、後のことは気にせず好きにして良いぞ。ホンモノのシスターなんてなかなか相手にして貰えねぇだろう?FKKのコスプレじゃねぇぞ、正真正銘のシスターだ。好きなだけやっちまえ」
この期に及んでまだ反抗的な態度を取る彼女に苛立ちを募らせた男は、二人にお前達の好きにしろ、シスターを孕ませてやれと調子の外れた笑い声を上げて命じると、男達の顔に狂暴な笑みが浮かび上がる。
以前、少女と女性の境にいるような女を二人でレイプしたが、男達の狂暴さに少女はバスタブに逃がれ、少女を大人しくさせるためにバスタブに水を張った結果、少女はバスタブで溺れ死んでしまったのだ。
その死体の処理は大変だったし結果的に男に散々殴られてしまったのだが、後のことは考えなくても良いと男が言った為顔を見合わせてにたりと笑い、三人の様子がよく見える特等席に腰を下ろして退屈そうに足を組むと携帯を取りだして動画の撮影を始める。
「…や、めて…っ!!」
男達の狂暴な笑みから恐怖のどん底に突き落とされた彼女は、お願いだからやめてくれと大声で叫ぶが、鳴り響く雷鳴にその声は掻き消されてしまう。
恐怖と緊張に竦む身体を力づくで押さえつけられ、男の身体が足を割って入ってきたその瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは愛しい男の笑顔で、押さえつけられて動けない腕を伸ばすように肩を上下させ、雷鳴に負けないような声で彼の名を呼ぶ。
「……オン…っ、助け…て…っ…!!」
「残念だなぁ。お前が好きな男はお前と違ってセレブの医者が好きだそうだ。貧しくて着飾ることもできねぇ、神様に身を捧げたためにセックスすらできねぇお前じゃなくて、社会的地位も金も持っている年上の男が良いそうだ」
だからここでどれ程助けを求めても絶対にあいつは来ないと嘲笑われ、呆然と目を瞠った彼女が唇を噛み締めるが、げらげらと笑われてきつく目を閉じると、瞼の裏にいつも一緒に笑っていた彼の背中が浮かび、声を掛けようとしても彼の隣に今男が告げた社会的地位も金もある人の姿が見え、絶望的な気持ちになる。
刑事となって夢の世界で忙しくも充実している日々を過ごしていると思っていた彼だが、いつだったか好きな人が出来た、それも男だと自嘲気味に笑った後、心底惚れている男を連れて戻ってきた時のことを思い出し、何故その男が彼の横にいるのか、彼の横にいて他愛もない話をして笑いあっていたのは自分の筈なのにと嫉妬したことも思い出す。
「あいつは女のお前じゃなくて男を選んだんだからなぁ」
男同士など考えただけでも吐き気がするが、そんな男に振り向いて貰えなかったお前は本当に哀れだ、だから俺たちが可愛がってやると笑い、携帯を再度構えて二人の男に無言で顎をしゃくる。
「い、や…、やめ、て…っイヤァアアア!!」
助けてリオン、そう叫ぶ彼女の姿と彼女をレイプする二人の男の姿を携帯で録画していた男は、いつまでも頭上で鳴る雷と屋根を叩く雨音に頭を巡らせて窓の外を見る。
窓を破るような勢いで雨が屋根や壁を叩き、その雨音を掻き消すように時折雷鳴が轟く。
春の終わりを告げるのかそれとも夏の到来を教えようとしているのか、先日までの晴天が嘘のような嵐だったが、彼女の声が周囲に漏れる心配がないことは有り難いことだと冷たく笑い、この動画をいつ彼女の愛する男に見せようか、また見せたときの反応を想像しては肩を揺らしてしまうのだった。
窓や壁を叩いては流れ落ちる雨と雷鳴は暫く止まず、彼女の悲痛な叫びは小さな教会の外に届けられずに小さなマリア像だけがただただ静かにすべてを見守っているのだった。