テラーノベル
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あの日の記憶。蘇ったそれは、突然に。
「…………………え、」
その記憶が脳裏に浮かんだ瞬間、つい数秒前まで紙の上を行ったり来たりしていたペンが手から離れる。
同時に、頭の中に詰め込まれた考えるべきスケジュール達が全て綺麗に吹っ飛んだ。
頬杖をつき 机上の資料やらなんやらと睨み合っていた時間が泡のように消え去ったのだ。
カタン、と響いた音に二人が顔を上げる。
「………あ、ごめん。取ってくんない?」
平静を装って手元を離れたペンに目をやる。
偶然。そう、偶然。手を滑らせただけかの様に。
足元に転がって行ったペンを涼ちゃんが拾った。
「ほい」
「あんがと」
謎の緊張感と無駄な焦りから若干視線を落とし気味にペンを受け取った。
涼ちゃんが人の思考を読めるってんならその焦りも無駄ではないけども。
再度、机に広げられた資料達に目を通す。フリをする。
すごい。全っっ然入ってこない。
眺めれば眺める程 ただ意味の無い文字羅列にしか見えなくなってくる。
あの一瞬で頭から抜けた諸々も戻ってくる事は無く。
バレない様に、悟られない様に、若井へ視線を向けた。
いつも通り涼ちゃんと何か談笑している。
何も考えられない頭に、あの記憶だけが在った。
他に集中することも出来ないのだから どうしてもそれが鮮明に思い出されてしまう。
視線先の”親友”との記憶が。
高二とか、だっけ。
通う高校は違くとも、放課後 若井が家に来ることは珍しくなかった。
多分ギターでもやってたと思う。
他愛もない会話をして、くだらない事で笑って、それが何となく楽しい、みたいな。
そうやって時間を過ごすのはその日も同じだった。
若井は制服のままベッドの縁に座ってて。
あぁ、夏だったかも。夏服着てたし。
その時に話した内容がこの記憶の元凶。
話し始めも きっかけも 些細なことだった気がする。
よく聞く話。さくらんぼのヘタを舌で結べる人は、とか言うやつ。
そこからどう流れたのか細かいことは覚えていないが、会話の最終地点が原因な事は明らかで。
「試してみる?」
どちらから言ったのかは分からない。
思い出さなくていいし、思い出さない方がいい。
多分だけど色んな意味で耐えらんない。
面白そうだし、という完全にふざけたノリだった。
そこまで思い返して、この日の記憶が鮮明に思い出されてしまっている事に気付く。
手遅れだった。
空気感も 会話も 触れた柔らかさも 温度も。
その全部が 身体に、記憶に刻み込まれている。
この瞬間から。
唇が触れたその瞬間から、若井へ向ける感情は形を変えた。
一線を越える感情を抱いたのはこの時だった。
いや、正確に言うと 唇が離れる瞬間だろうか。
互いの温度を失う直前に、下唇を甘噛みされたあの感覚。
悪戯っぽく笑った若井の表情が相まって、自分の中に何か底知れない感情が芽生えた。
こうも鮮明に思い出せるのに何故忘れていたのか。
時間経過で忘れたのでは無く、無理やり忘れようとしたのをこの時の記憶と同時に思い出した。
つまり、結局は忘れ切れてなかったってこと。
文字羅列に視線を留めたまま 一部始終の記憶を取り戻してしまった。
大人になった今でも余りに刺激の強い、とんでもない記憶。
それも、本人が同じ部屋に居る状態で。
気を紛らわす様にペンをノックしながら息を吐く。
ふと、ドアの開く音で我に返った。
え。涼ちゃんどこ行った。
嘘でしょなんで今このタイミングで部屋出るの。
そっと若井へ視線を向けると、見事な程にタイミング悪く 真っ直ぐに目が合う。
焦りに苛まれながらも、目を逸らすことは出来なかった。
鮮明に色付いてしまった記憶が身体の奥を芯から揺らがせている。
殆ど無意識のように若井の隣へ腰を下ろした。
突然隣に座られることへ特段反応を示さないのは
日常の距離感が近いせいだろう。
「ただ疲れたから」とでも言えば幾らだって誤魔化しは効くはず。
それでも、あの日を思い出す度 熱を持った感情が思考を断ち切り理性をじわじわと蝕んでいく。
「ねぇ」
声を掛ければ、スマホに落ちていた視線が外されて
此方に向いた。
「……若井さ、覚えてる?」
「何を?」
言葉にして説明する程の余裕すら無くなっていて。
あの日と同じように若井の目を見据える。
僅かにその瞳が揺れ、そこに映るのは自分しか居ないのだと思うと息が詰まりそうだった。
わかってる。 ここで何でもないと距離を取ればまだ戻れるってことくらい。
それをしないのは、 戻りたいなんて思ってないから?
「……あの時、あんなずるい事したのがいけないんだよ」
掠れそうに呟いて、若井の手を上から包み込むように自身の手を重ねる。
“あの時” が何を指してるのかすら伝わってないんだろうけど。
「……全部、お前のせいだから」
そこから紡がれる言葉を待つ事も出来ず、小さく開かれた唇を塞ぐように口付けた。
十数年越しに触れた感覚が、まともに動かない思考の奥で様々な感情を溢れさせる。
こんなのだめだって、知ってるけど。
触れてしまった事に対しての黒い感情と、もっと欲しいと思ってしまう気持ちが混ざりあって、故に離れられずに居る。
頭では分かってんのに、それ以上の想いが離れることを拒み続けていた。
頭の奥が揺らぎ始めて、これ以上は本当にだめだと漸く身体が理解した。
────瞬間。下唇に走った軽い刺激。
そのタイミングに互いの唇が離れ、どちらの物かもわからない吐息が空間に落ちる。
じわじわと感じる甘い痺れ。下唇に指先で触れた。
「………っは、」
そこを甘噛みされたのだと気付くのに時間は要らなかった。
あの時の悪戯な笑いとはまた少し違う、酷く熱を持った表情。
「…こっちからしたら元貴のせいだけど」
呼吸の合間に呟かれたその言葉が何に対して返された物かなんて、考える余裕も無い。
乱れた呼吸で息を吸おうとする度に肩が揺れるが、感情を抑えるのはもう限界だった。
「…じゃあ、お互い様だね」
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しにまーす
いち