テラーノベル
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世界のすべてが、あの夜からずっと泣いているような気がしていた。
三輪秀次にとって、夜は休息の時間ではない。むしろ、世界のノイズが最も耳障りに膨れ上がる時間帯だった。自室のベッドに仰向けになり、天井の染みを見つめる。耳の奥で鳴り止まないのは、遠い日の記憶だ。ガラスが割れる音。得体の知れない怪物の咆哮。そして、自分を庇って倒れた姉・優希の、最期の呼吸の音。
それは三輪の脳内で歪に変換され、今や彼を縛り付ける狂おしい旋律のようになって響いていた。
「……うるさい」
三輪は前髪を乱暴に掴み、声を押し殺した。 どれだけネイバーを拒絶し、駆除しても、胸の奥の渇きは1ミリも癒えない。ボーダーに入隊し、A級隊員にまで上り詰め、トリガーを握る手のひらはあの頃よりずっと固く、冷たくなった。それでも、自分の時間はあの惨劇の夜から一歩も進んでいない。
姉は、三輪にとってのすべてだった。優しく、美しく、自分の世界を全うに形作ってくれていた唯一の存在。彼女が失われた世界は、まるで色を失った出がらしのようだ。悲劇のヒロインになってしまった姉の面影にしがみつき、復讐という名の燃料を燃やし続けなければ、明日を生きる理由すら見つけられない。
『秀次、おやすみ』
記憶の中の姉が微笑む。その声が脳裏をよぎるたび、三輪の心臓は焦燥感で激しく脈打つ。クリープハイプの、あの狂おしいほどに疾走するイントロのような、置いてきぼりにされた者の焦りが、彼を突き動かしていた。 去ってしまった美しい歌姫の幻影に、いつまでもしがみついている。そんな自分の女々しさを、三輪は誰よりも自覚していた。
翌日。三輪は防衛任務の合間、本部基地の屋上にいた。冷たい風が前髪を揺らす。視線の先には、平穏を享受する三門市の街並みが広がっている。この街の誰もが、姉の犠牲の上に成り立つ平和を呑気に生きている。そう思うだけで、胃の奥がどろりとした不快感で満たされた。
「相変わらず、怖い顔してんなぁ、秀次」
背後からかけられた気の抜けた声に、三輪はあからさまに眉をひそめた。振り返るまでもない。実力派エリートを自称する、あの男だ。
「……迅」
サングラスの位置を直しながら、迅悠一がふらりと隣に並んだ。手にはいつも通りのぼんち揚の袋がある。三輪は迅が嫌いだった。近界民を”実力”でねじ伏せる力がありながら、彼らを許し、共存しようとするその姿勢が、どうしても許せなかった。何より、その目の前にある未来が見えるという副作用効果で、自分の内面まですべて見透かされているような気がして不気味だった。
「一個食うか?」
「要らない。任務中だぞ」
「まあまあ。そんなに肩肘張ってると、いつかポッキリ折れちゃうぜ?」
迅はサクッと小気味いい音を立ててぼんち揚げを口に運ぶ。その軽薄な音が、三輪の耳の奥で鳴る旋律を乱すようで、余計に苛立ちが募った。
「あんたには関係ない。俺は俺のやり方で、奴らを駆除するだけだ」
「奴ら、ねぇ……」
迅は街を見つめたまま、少しだけ声のトーンを落とした。
「おまえが近界民を憎む理由は知ってるよ。……お姉さんのことだろ」
その言葉が触れてはならない逆鱗に触れた。三輪は迅の胸ぐらを掴みかねない勢いで一歩詰め寄り、鋭い視線を向けた。
「気安く姉さんのことを口にするな……!あんたに何がわかる! 目の前で家族を殺された人間の気持ちが、近界民と仲良く握手できるような男にわかってたまるか!」
吐き出された怒声は激しかったが、どこか悲鳴に似ていた。迅は怒る風でもなく、ただ静かに、サングラスの奥の瞳で三輪を見つめていた。その瞳は、すべてを知っているかのように深く、そして酷く哀しげだった。
「わかるよ。俺も母親を近界民に殺されてる」
三輪の動きがピタリと止まる。忘れていた。この男もまた、自分と同じ”遺された者”だった。
「だけどさ、秀次」
迅はそっと三輪の肩に手を置いた。
「おまえがそうやって、過去の悲鳴を子守唄代わりにして眠り続ける限り、おまえの中のお姉さんは、ずっと泣いたままだぜ。それ、お姉さんが一番望んでない未来なんじゃないの?」
「黙れ……っ!」
三輪は迅の手を激しく振り払った。これ以上ここにいれば、自分の拠り所である憎しみが揺らいでしまう。三輪は迅に背を向け、早足で屋上を立ち去った。背後から、迅の「またな」という呟きが、風に溶けて消えるのが聞こえた。
その日の夜、境界防衛機関ボーダーに警報が鳴り響いた。近界民の襲撃。それも、中規模のトリオン兵集団が市街地へ侵入したという。
「三輪隊、出撃する。一匹残らず駆除するぞ」
三輪は戦場へと跳んだ。夜の街は、あの日とよく似ていた。立ち込める硝煙の匂い、逃げ惑う人々の悲鳴。それらが三輪の脳内で、姉の最期の瞬間とオーバーラップする。
弧月を引き抜き、突進してくるトリオン兵を次々と一刀両断にする。変化弾の弾道を頭の中で描き、死角から迫る敵を容赦なく撃ち抜く。三輪の戦闘は、洗練されていながらも、どこか自暴自棄だった。まるで、敵の返り血で自らの記憶を塗りつぶそうとするかのように。
『秀次、逃げて』
また、あの声が聴こえる。戦場に鳴り響く爆音の裏で、姉の泣き声が、美しく切ないバラードのように三輪の耳を支配する。
「まだ足りない、まだ壊し足りない!」
狂ったようにトリガーを振るう三輪の前に、さらに大型のトリオン兵が立ち塞がった。鋭い爪が、三輪の防御をかいくぐって迫る。
回避が間に合わない、そう直感した瞬間。
「風刃――起動」
視界を埋め尽くすような、目にも留まらぬ光の斬撃が空中を奔った。三輪の目の前にいた大型トリオン兵が、一瞬にして細切れになり、光の粒子となって霧散する。見上げると、ビルの屋上に黒トリガーを携えた迅が立っていた。
「よっ。助っ人に来たぜ」
迅は軽やかに地面に着地すると、まだ残党のいる戦場を驚異的な速度で制圧していった。その圧倒的な強さ。才能。三輪はそれを見つめながら、圧倒的な敗北感と、奇妙な焦燥感に囚われていた。
何なんだ、あいつは……
迅悠一という男は、自分と同じ傷を抱えながら、なぜあんな風に、前を向いて、誰かを守るために戦えるのか。なぜ自分は、あの日から一歩も動けず、姉の幽霊にしがみつくことしかできないのか。
戦いが終わり、静寂が戻った夜の街で、三輪は力なく膝をついた。トリオン体の修復機能が働き、息が整っていく。しかし、胸の穴は広がっていくばかりだった。
「秀次」
迅が歩み寄ってきた。その手には、戦いの中で拾い上げたのだろうか、ボロボロになった小さな、見覚えのあるキーホルダーがあった。三輪が昔、姉に贈った日常の端切れのような安物だ。あの家があった場所に、ずっと埋もれていたものかもしれない。
「おまえがお姉さんを忘れたくないのはわかる。だけどさ、復讐のために生きるおまえを見るのは、残されたおれたちだって、……きっとあっちにいるお姉さんだって、胸が痛むんだよ」
迅はそれを三輪の手のひらに握らせた。
「おまえはもう、十分に戦った。少しは、自分のために眠れよ」
自室に戻った三輪は、泥のように疲弊していた。制服のままベッドに倒れ込み、迅から渡されたキーホルダーを見つめる。泥に汚れ、傷ついたそれは、美しかった過去がもう二度と戻らないことを残酷に示していた。
耳の奥のノイズは、不思議と今は静かだった。迅の言葉が、刺さった棘のように抜けない。
『おまえの中のお姉さんは、ずっと泣いたままだぜ』
三輪は理解した。自分が姉を悲劇の歌姫に仕立て上げ、その泣き声をリピート再生し続けていたのだ。そうしなければ、近界民への憎しみを維持できなかったから。自分が前へ進むのが、姉を裏切るような気がして怖かったからだ。
「……ずるいのは、俺の方だ」
ぽつりと、涙が溢れた。姉を縛り付けていたのは、ネイバーではない。自分自身だった。三輪はキーホルダーを胸に抱きしめ、深く、深く息を吐き出した。憎しみは消えない。近界民を許すことなんて、一生できない。迅のように笑うことも、きっと無理だ。けれど、姉の記憶をこれ以上、自分の復讐の道具にしてはならない。
「おやすみ、姉さん」
三輪は静かに目を閉じた。耳の奥の旋律に、ようやく終わりのコードが書き込まれていく。去りゆく歌姫の背中に、引き止めるための叫びではなく、決別の言葉を告げる。
「さよなら、俺の歌姫」
明日もまた、地獄のような防衛任務が始まる。トリガーを握り、泥を這うような日々は続く。けれど、次に目覚める時の三輪秀次は、誰かの泣き声のためではなく、己の足で未来へ進むために、その目をあけるはずだった。
#WT
#二次創作
コメント
3件
うわ、これは重くて美しい…。三輪の内面描写がとにかく丁寧で、憎しみにしがみつくしかなかった彼の苦しみがひしひし伝わってきました。特に「姉の泣き声を子守唄にして眠る」という迅の指摘が鋭くて、あのキーホルダーを握らせるシーンは胸が詰まりましたね。最後の「さよなら、俺の歌姫」でようやく旋律が終わる構成、見事でした。