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#ローファンタジー
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4-1◆現実という名の番人◆ 放課後の教室。
西日が長く伸びる黒板に、担任の烏丸(からすま)が置いていったプリント。
そこに記された【文化祭】というありふれた三文字が、これからの俺の平穏を乱す全ての元凶になるのだと、この時の俺はまだ知らなかった。
俺はそれを指示通り、誰も見ない教室後方の掲示板に貼り付けると、逃げるように学校を後にした。
コンクリートと消毒液の匂いが支配する「戦場」から、電車に揺られること数十分。
俺は、味噌と出汁の匂いが支配する「我が家」へと帰還する。
玄関のドアを開けた瞬間、背負わされていた全ての役割から解放され、俺はただの「音無 奏(おとなし そう)」へと戻るのだ。
「あんた、また幽霊みたいな顔して。何か嫌なことでもあったわけ?」
リビングのソファで、大学のレポートらしきものと格闘していた姉――音無 彩葉(いろは)が顔も上げずに言った。
彼女こそが、この家における絶対的な支配者であり、俺が唯一、素をみせるしかない相手だ。
彼女の武器は、「世間一般の常識」という極めて真っ当な正論。
俺の常に相手の言葉の裏を読み、論理の矛盾を探し出そうとするひねくれた思考回路は、
このあまりにも単純明快な「正しさ」の前では、いつも空回りするだけなのだ。
「別に。ただ面倒な季節が来ただけだ」
俺は、買ってきたコンビニの袋をテーブルに置きながら、ぶっきらぼうに答える。
「文化祭の企画を決めるらしい」
「へえ、文化祭。いいじゃない、高校生らしくて。
で、あんたはどうせ、また何もしないで教室の隅で壁のシミでも数えてるつもり?」
「観察はする」
「それを世間では『何もしない』って言うのよ」
彩葉は、ようやくレポートから顔を上げると、呆れたように深くため息をついた。
その瞳は、俺が何か得体のしれないものから逃げ続けていることを、とっくに見抜いている。
「大体、なんなわけ?あんたのクラス。文化祭なんて普通、誰かお祭り好きの変なリーダーシップあるやつが
『よっしゃ、みんなで演劇やろうぜ!』とか言って、勝手に盛り上がって勝手に進んでいくもんでしょ。
そういうリーダーみたいなやつ、いないわけ? あんたのクラスには」
――リーダー。その陳腐で、しかし的確すぎる言葉に、俺の思考が一瞬停止する。
いる。いるに決まっているだろう。お祭り好きでもないし、変でもないが。
この教室という惑星系における絶対的な中心。
全ての人間が、その引力に無意識に逆らえずに回っている、恒星そのものが。
彼が「やろう」と言えば、それがこの世界の法則になる。彼が微笑めば、そこが世界の中心になる。
俺のような観客席の人間は、彼のその圧倒的な光量にただ焼かれて消えるだけだ。
しかし俺は、そのあまりにも馬鹿げた世界の真実を、姉に説明する術を持たない。
説明したところで、彼女は理解できないだろうし、きっとこう言うだけだろう。
「あんた、自分の教室が世界の全てだとでも思ってんの? 馬鹿じゃないの」と。
「さあな。俺の知ったことじゃない」
俺は全ての思考を声に出す前に飲み込んだ。そして冷蔵庫の扉に手をかける。
そんな俺の背中に彩葉の今日何度目か分からない深いため息が突き刺さった。
4-2◆太陽と影の帝王と惑星たち◆
翌日。俺の世界は、昨日と何一つ変わっていなかった。
同じ時間の同じ電車に乗り、同じ坂道を上り、そして同じ教室のドアを開ける。
そこにあるのは、昨日と全く同じ喧騒と無関心だ。
俺はいつものように誰にも気づかれることなく、自分の「観客席」へと着席した。
「おい、音無、ヤバい噂聞いたか?3年のあの轟木(とどろき)さんがまたやらかしたらしいぜ」
その平坦な日常に、小さな石を投げ込んできたのは、やはり山中駿平だった。
彼は俺の前の席に椅子を逆向きにして座ると、声を潜めて、しかしその目は興奮に爛々と輝かせている。
「他校の不良が、ほんの少し肩がぶつかっただけらしい。それだけで病院送りだ。マジであの人は社会のルールが通用しねえ」
自称学園の序列解説者は、学園全体のパワーバランスにも精通しているらしい。
俺は適当に相槌を打ちながら、視線を山中のさらに向こう側へと向けた。
教室の後方の一角。 その無駄にデカい体でスペースを占拠している連中――体育会系グループだ。
彼らの、一段ボリュームの大きな会話が、俺の耳に嫌でも飛び込んでくる。
「いや、マジで、昨日の練習試合の天宮は、神がかってたって!」
バスケ部の松川とかいう男が、轟木の噂などまるで別世界の出来事のように、屈託なく笑っている。
「残り3秒で2点差だぜ?そこに相手チームのディフェンスが3人だぞ?普通パスだろ。それをあいつ、自分で行きやがった」
「だよな!しかも、あのダブルクラッチからのブザービーター。さらにファールももらってるとか。漫画かよっての!」
天宮 蓮司(あまみや れんじ)
俺は山中がもたらした「影の帝王、3年、轟木の噂」を右の耳から左の耳へと受け流しながら、そのあまりにも出来すぎた「神話」を分析する。
そうだ。これがこの世界の二つの側面だ。 暴力で全てを支配する理不尽な「影の帝王」
そして才能で全てを魅了する絶対的な「太陽王」。
この二つの圧倒的な「力」が存在するこの世界で、俺のような人間が生き残る方法はただ一つ。
息を殺し、石ころのように誰にも気づかれないこと。それだけだ。
「まあ、俺たちには関係ない話だけどな」
山中が、俺の無反応をいつものことだと解釈したのか、つまらなそうにそう付け加えた。
「そうだな。関係ない」
俺は完璧な無関心の仮面を被ってそう答えた。
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