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#ローファンタジー
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5-1◆怠惰への引力◆
五時間目。 退屈な授業が終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
それは、今日というありふれた一日がそのありふれたまま終わるはずだった、最後の合図だった。
教壇に立った担任の烏丸が、そのいつもと変わらない穏やかな、しかしどこか全てを諦めたような目で俺たちを見渡した。
「――さて諸君。少し気が早いかもしれんが、文化祭の話をしようか」
その一言で教室の空気が、僅かに、しかし確実に色を変える。
水を得た魚のように、最初に声を上げたのは体育会系のあの連中だった。
「よっしゃあ! 待ってました!」
バスケ部の中河が、無邪気に拳を突き上げる。
さらに、その声を待っていたかのように、金髪の柴田隼人が立ち上がった。
柴田は真顔で、大真面目にこう提案した。
「先生! 出し物ですけど、お化け屋敷やりません? 名付けて元カノ屋敷!」
教室が一瞬静まり返る。柴田は構わず続けた。
「扉開けたら、元カノがずらーって並んでて『なんで別れたの?』って、全員で追いかけてくるんすよ!怖くね!?」
そのあまりにもくだらない提案。しかし柴田の友人である斎藤律が、目の奥を光らせて冷静にツッコミを入れた。
「気まずさMAXで、ある意味一番怖いわ!!!」
その瞬間。教室は爆笑の渦に包まれた。
「やべえ!」 「それ一番行きたくねえ!」
笑い声が響き渡る。お笑いか。それもまた、この教室を支配する一つの力だ。
そしてその後にいた派手な髪色の女子生徒が、彼の言葉を引き継ぐように、熱っぽくプレゼンを始めた。
「先生! 私たち考えたんですけど、今年の文化祭、本格的な『演劇』をやりませんか!?」
桜井恵麻だ。彼女は目を輝かせて続ける。
「準備はすごく大変だと思うんですけど、でもクラス全員で一つのものを作り上げるって、絶対に最高の思い出になると思うんです!」
演劇か。
俺はその言葉を心の中で反芻する。馬鹿げているとは思わなかった。
むしろその逆だ。
俺のこのひねくれた心の一番奥底、
誰にも見せたことのないその場所でほんの僅かに燻っていたありふれた願望。
「高校生らしい思い出が、一つくらいあってもいいのかもしれない」という、あまりにも青臭い感傷。
その俺自身がとっくに嘲笑の対象として捨て去ったはずの感情が、
桜井恵麻のその真っ直ぐな言葉によって不意に掘り起こされる。
しかしその淡い期待はすぐに別の声によってかき消された。
「はあ?演劇ぃ?めんどくせえだけじゃん。楽したいじゃん」
三好央馬だ。
「お前さあ、演劇とか言って、自分がヒロインやりたいだけだろ?鏡見てから言えよなw」
彼はこれ見よがしに鼻で笑うと、机をガンッ、と乱暴に蹴り上げた。
その不快な音に、教室の空気が一瞬で凍りつく。
そしてその隣で、女王陛下の忠実なる側近、結城莉奈が完璧な援護射撃を見せた。
「だよねー。準備とか絶対グダグダになるって。
そういうのより、もっとみんなが楽に楽しめるやつがいいと思わない?例えばただの『喫茶店』とかさ」
◆5-2◆観客席からの最初の反逆◆
「楽な方がいい」 そのあまりにも抗いがたい甘美な「引力」が、教室の空気を支配していく。
演劇をやりたいとあれほど目を輝かせていた桜井の顔から、光が消えていくのを俺は観測する。
そうだ。これがこの世界のありふれた結末だ。熱意は怠惰に食い尽くされる。
挑戦は事なかれ主義にすり潰される。何も起きない。何も変わらない。
俺はただその陳腐な、しかし絶対的な法則を再確認し、静かに息を殺す。
――それで終わるはずだった。あの男の一言がなければ。
「だよなー。つーか、演劇とか準備大変すぎだろ」
三好が得意げに続ける。粘着質な視線で、桜井を舐め回すように見下ろしながら。
「第一、天宮くんだって部活や勉強で忙しいんだぜ?
そんな主役級の人間に、これ以上負担かけるとかありえねえって。
その点、喫茶店ならみんな自分のペースで参加できるだろ?忙しい天宮くんへの俺たちなりの配慮ってもんだよな?」
三好が勝利を確信した下劣な笑みを浮かべてそう言い放った瞬間だった。
ドクンと俺の心臓が嫌な音を立てた。
――三好、またその顔か。俺の脳裏に中学時代の記憶がフラッシュバックする。
修学旅行の夜。薄暗い旅館の一室。そこでも、こいつはこうやって笑っていた。
『これはみんなで決めたことだろ? お前だけ空気を読まないのか?』
そう言って俺にある生徒の手帳を破らせ、俺の大切なものを踏みにじらせた、あの夜の顔。
「空気」という名の匿名の暴力を盾にしながら、自分は一切手を汚さずに他人を貶める。
その卑劣なやり方。
やめろ。俺の中で、何かが軋む音がした。視界が明滅し、呼吸が浅くなる。
(やめておけ、音無奏。お前は「観客」だ。ここで声を上げても何も変わりはしない。お前が再び傷つくだけだ)
俺の理性が、警告を発する。指先が震え、脂汗が滲む。怖い。逃げたい。
しかしそれよりも強く。
あの演劇を提案した桜井の絶望した顔が浮かぶ。
そして心の一番奥底で、死んだはずの青臭い感情が叫んでいた。
(でも、もし万が一演劇をやれたなら。
それはきっと俺のこの灰色の日々の中で、唯一色のある「思い出」になるのかもしれない)
三好。お前がそれを奪うのか。あの時と同じように。
またお前が俺のたった一つのささやかな「願い」を踏みにじるのか。
気づいた時には俺は声を発していた。
思考するより先に乾いた喉が震えていた。
自分でも驚くほど静かで、しかし冷たい声だった。
「それは違うだろう、三好」
教室の喧騒が、嘘のように静まり返る。
全ての視線がまるで初めてその存在に気づいたかのように俺に突き刺さる。
三好が信じられないという顔で俺を睨みつけた。
「あ?なんだよ、音無。お前が口出しすんのかよ」
「口出しじゃない。ただの事実確認だ」
俺はゆっくりと言葉を続ける。震える膝を机の下で押さえつけながら。
「文化祭は『楽をすること』が目的じゃない。大変な準備も含めてその過程を楽しむものだ。
お前の言う『楽な喫茶店』は、文化祭じゃない。
ただの日常の延長線上にある休憩時間だ。その二つを同じ土俵で語るな」
俺の柄にもない反逆。
そのたった一言が、この淀みきった教室の空気に最初の波紋を広げた。