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まったく、と、岩崎が吐き捨てるように言う。
「ああ、君にも迷惑をかけたね。あの夫婦は、いつも、あの調子なのだよ。人を馬鹿にしているのか、さっぱりなのだ。だから、あまり、気にしないように」
と、不機嫌そうに言っているが、その声色が、いきなり変わった。
「これは……。いったい何度、同じ道を、それも、君を背負って歩いてるのだろう」
そこは、月子が岩崎に助けられた場所だった。
「ははは、まだ、丸一日も経っていないのに、まったく、色々ありすぎだよ」
ほんの少し前、ここで、岩崎と出会ったばかりなのに、月子は、あちこち、岩崎と移動した。思えば、そんな馬鹿な、と言って良い事が立て続けに起こったのだ。
月子も、つられて、笑っていた。
「……笑ってくれたか。私は、面白味のない男だからね。ご婦人を楽しませるなんて、到底無理なんだ。そんな、男と、同居だと、押し付けられて……君も、気が気じゃなかろう?いや、それは、これからかな……男爵家の人間とはいえ、借家住まい、仕事も安定していない。そんな男だよ?君の相手は……。それでも君は……」
岩崎は、そこまで言うと、よしっと、自身へ言いきかせる。
そして、立ち止まると、大きな声で一気に言った。
「こんな私だが、それでも、良ければ、ついて来てくれ!確かに、見合いだ!家に、言われて断れない部分は、お互いにあるだろう!だが、これも何かの縁だと私は思った。だから、一緒に、一緒に、私と共に、歩んでくれないかっ!」
息が続かなくなったのか、岩崎は、そこまで言うと、ふうと、大きく息を吸う。
歩道で、若い女を背負った男が、いきなり叫んだ。当然、通行人は、立ち止まり、何事かと岩崎と月子を見る。
岩崎の発言から、どうやら、二人は、恋仲のようだと、皆は、理解したようで、わっと、拍手喝采が沸き起こった。
「えっ?!」
自分が、やからしてしまったと、岩崎は気がつき、何でもないとか、失敬するとか、その場を立ち去ろうと試みるが、周りの野次馬が岩崎を通さない。
「いよっ!ご両人!」
「いやぁ!兄さん、声がでかいねぇ!」
「なんだか、めでたいじゃないか?!」
二人に向けての拍手は、鳴りやまない。
「いや、ちよっと、まった!」
「そうだ!肝心の!!」
野次馬の視線は、一斉に、背負われている月子へ移る。
「あ!こ、これは、彼女が、足を挫いてしまい、歩けなくなって!そ、それで、私が背負っているだけで、何も、やましいことはしていないっ!!」
彼女の名誉の為にとか、岩崎は、野次馬へ必死に言い張っている。
「いやいや、そこじゃねぇだろ?!」
「おう!そんなこたぁ、今は、どうでもよくって!」
野次馬の視線は、一層、期待を帯びたものになり、月子へ突き刺さって来る。
月子は、この、黒山の人だかりに仰天した。
しかも、なんだなんだと、次から次へ人が増えて行く。そのたび、あの兄さんが、娘さんにと、事情を説明する声に、おお!とかなんとか、叫びが被ってくる。
「す、すまんが、通してくれ」
流石の岩崎も、恥ずかしくなったのか、収集がつかないと踏んだのか、逃げようと試みるが、もう、どうにもならないほど、人が集まって来ていた。
続けて、野次馬は、さあ、さあ、と、月子を急かす。
「えっ、あ、あの、私……」
で?!と、月子の返事を、皆は、待っている。
「あ、で、ですから、ご、ご一緒に……」
その一言で、わあ!と、歓声があがり、野次馬は、口々に、良かった良かった、と、言いながら、あっという間に、去って行った。
「……なんだったのか。と、いうより、すまん。私のせいだな。本当に、私は、どうしようもない男だ。ただ……中途半端な心持ちで、君と家へ戻りたくなかった。それだけだったのだよ」
自分に言い聞かせるように言いながら、岩崎は、再び歩み始める。
月子に、実《みのる》の態度が思い起こされた。
当然ながら、岩崎とは、まったく、異なる。
あれこれ、確かにあるだろうが、岩崎となら、大丈夫だと、月子は思う。
「……あ、あの、岩崎様は、どうしようもなくは、ありません。だ、だって……あんな、大きな楽器で、とても美しい音を出されるなんて……すごいことだと思います。だから、どうしようもなくは……ありません……」
つい、心の声ともいうべきものを月子は発していた。
「……大きな楽器
……か……。君も、気に入ってくれたのか……」
「え?」
「……昔……同じことを言った人がいた……」
どこか、郷愁をおびた岩崎の物言いに、月子は、ドキリとする。
その、昔……、というのは。同じことを言った人物とは……。ひょっとして……。
月子は、芳子に聞かされた岩崎の過去を思い出した。
「まあ、とにかく、急ごう。帰ってからが、また、忙しい。何しろ何もない家だからね」
色々準備しなければと、何かを誤魔化すかのよう、朗らかに、そして、歩く速度を早めた岩崎の様子に、月子は心を乱されたが、勝手な思い込みはやめようと、背負われている広い背中に、そっと頬を寄せた。