テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
会社を辞めた日の夕方、
ふとベランダに出ると、ローズマリーの鉢がひとつだけ生き残っていた。
枯れかけた葉の先端が、風に揺れている。
引っ越してから3ヶ月、まともに水もやっていなかった。
「お前、まだ生きてたのか」
思わず独り言が出る。
すると、かすかに香りが広がった。
スーッとした、あの青くて苦い香り。
――いや、風か。気のせいだ。
でもどこか、返事のような気もした。
数日後、朝の習慣として水をやるようになった。
何もすることがない自分にとって、
この小さな植物だけが、誰ともつながっていない生活の中での「応答」だった。
ある朝、水を注ぎながら聞いてみた。
「なあ、俺って、何がしたかったんだろうな」
その瞬間、ローズマリーがほんの少し、揺れたように見えた。
もちろん風だ。
でも、言葉が浮かんだ。
「“今”にしか根を張れないのよ」
そんな声が聞こえた――気がした。
根を張る。
自分は、ずっと「次」ばかり見てきた。
転職すれば何かが変わる。
引っ越せば、人間関係がリセットされる。
もっと合う仕事があるはず。
もっと自分らしい何かが――。
けれど、ローズマリーはただ「ここ」にいた。
誰に見られるでもなく、
褒められるでもなく、
それでも、黙って太陽の方へ葉を伸ばしていた。
秋になって、鉢をひと回り大きいものに植え替えた。
その夜、夢を見た。
夢の中で、あのローズマリーが、人の姿をしていた。
涼しげな目元の女性で、香りのように静かな声で、こう言った。
「あなたも、水をやれば伸びるわよ」
目が覚めたとき、なんとなく涙が出ていた。
でも、不思議と胸が軽かった。
それからしばらくして、
俺は近所のパン屋でアルバイトを始めた。
何かを始める理由なんて、香りくらいあいまいで、
それでも確かなこともあるのだと思った。
ベランダには、今、新しいバジルが仲間入りしている。